チャプター32 陽炎と共に
日が下がってくると少し涼しくなる。オレは腕を伸ばして息をついた。最近鍛えてない血管の浮き出た手が目に入る。
「で、今なにしてんの」
拓は不満げに口をとがらせている。それももっともだろう。
一丁目から四丁目まで隈無く探し続けて、やっと出来た休憩は何もない丘の上。小さな大名の城跡らしいが、人気の無さが全て物語っている。
オレは裕也を探した。二分前に何も言わず全力疾走してから行方が判らない。
(あいつは憧れだが謎が多すぎる)
拓と手遊びを始め、お互い携帯をいじるだけになった頃裕也は帰ってきた。
「来い!」
開口一番それですか、オレ達は返事をする暇すら与えられずに後に続いた。拓はあからさまに汗を拭っている。真似して額を拭うとじっとりと濡れてしまった。
「裕也様ー、せめて一言謝って下さってもよろしくなくて」
オレが茶化しても裕也はそっけない。顔も向けずに言い放つ。
「何で謝るんだ?」
「オレも知らねーよ」
走ってばかりだ。半年前に買ってかなりフィットしてる靴のお陰で走り心地は悪くない。
「暑い暑い暑い暑い。疲れた」
しかし、後ろの拓青年は口に衣を着せようとしない。多分、この言葉の意味すら知らないだろう。学力テストで二百番以内に入ったことがないのだから。常に一桁の裕也を見習え、声を出さずに毒づく。
相変わらず寡黙の裕也は余裕ある走りでどこかへ向かっている。この不安定な気持ちは他人に指示されているからだろう。
(命令に従うなら海に飛び込んだ方がマシ)
親父が残したこの言葉はオレのモットーに引き継がれた。だが今は海はない。
「…見つけたんだ」
誰を、と訊くほど鈍感ではない。拓もその常識はあるようだ。単に聞こえなかっただけだとしても。
オレは次の言葉を待って腕を振り続けた。本当はポケットにでも手を入れて軽く走るのが好きだ。そんなこと言ってる状況ではない。
三本の分かれ道にきた。裕也が突然止まる。
「いねぇ」
ちょっと待ってくれ。ここへ来てそれはなくないか。選択肢は一つだろう。
「俺右行くねー」
一番遅かったくせに拓はもう右手へ消えた。オレと裕也は顔を見合わせる。
一瞬早くオレが先手をきった。
「オレ真ん中がすきなんだよ」
裕也はニヤリと笑って、真ん中の道へ走り出した。
「じゃあ左行けよ」
(あいつは悪魔だったのか)
開きかけた口を閉じて、オレはポケットに手を入れゆっくり左へ向かった。
初めて来る場所だった。左に杉の木々が立ち並び、右は閑静な住宅街だ。いつの間にかのんびりと自分が歩いていることに気が付く。
「いけねーいけねー、いや、別に走らなくたっていんだよな」
言い訳を呟きながら歩いていると、六度目の分かれ道に行き当たった。勿論前の方にある路を進む。
二十分は経っただろうか。遠くに人影が見えた。輪郭からして男らしい。オレは焦らずに近づいた。それこそ口笛でも楽しむかのように。
男の顔が明らかになってくる。日によって陰が出来たその顔は見覚えがある。
「あんたさ…」
オレはこの間抜けな行為を一生恨むだろう。手を伸ばして警戒もせずにオレは言ったのだ。
「福原部長とか…言う?」
男は顔を上げた。写真と同じ顔だ。オレはその黒の眼にひるんだ。
男は背広姿で日陰に休んでいたようだ。
「瑠衣か…」
聞き返す間もなく、男は素早く動いた。オレの首筋にしなる手首を打ちつけると、ふらつくオレを横目に走り去ったのだ。二秒とかかんなかっただろうな。
首をさすりながら目で追っても無駄だった。男は陽炎の中で消えるように行ってしまったのだから。オレはただ立ちつくして携帯を開いた。
「バッカじゃないの」
息が切れているにも関わらず拓は罵った。あれから直ぐに携帯で連絡を取り、二人に男を追ってもらったのだ。帰ってきた拓は明らかに苛ついている。
「やっぱり俺が左行くべきだったか」
「ああ、そうだよ」
裕也は呆れ顔で見下ろしてくる。何故か、彼は階段の二段上に居るからだ。見下ろされるのはたまにがちょうどいい、呑気な自分の頭を冷やしたくなる。
結局捕まらなかったそうだ。オレが唯一のチャンスだったかもしれない。
「コブラツイストでもきめてやりたいよ」
拓はそう吐き捨てる。オレは本気で頭を下げて謝った。やりかねないからな。
「一応容姿はつかめたんだ…」
「写真と同じだったか?」
裕也は冷たく切り返す。神社の横で叱られるって言うのは、何というかやりきれないな。
「…ああ」
惨めな自分の声が聞こえた。
裕也は階段にどっかりと腰を下ろすと、どこからか煙草を出して火を点けた。白い息を吐く姿はモデル並に格好良い。だが今は取り巻く冷気の所為で近寄りがたい。
「何も言う気が起こらねーな」
暖かい息とは裏腹に口からは鋭い言葉が飛び出す。拓も怒鳴り散らす気すら出てこないようだ。
「…悪い」
気まずい時間が流れる。裕也がやっと吸い終えた煙草を足で踏みつけた時、拓が叫んだ。
「肝心なときにリード出来ないんだなっ阿呆」
拓は興奮が抑え切れていない。オレはとりあえず言ってみた。俗にいう言い訳、自分を守るために役立ちそうなことを並べる。
「奴さ、去る前に一言、瑠衣かって言ったんだよな。彼女がやってるってばれてるぜ。それに手刀、使える」
言葉の効果を待っていると、タンクトップの襟を掴み上げられた。相手は拓でなく裕也だ。
「言うのがおせーよ」
心なしか、裕也は笑って見えた。身長差により浮くことはなかったが、かなり苦しい。蹴り技を決めようと決心固まった時、裕也が降ろしてくれた。落とした、の方が適切だろうか。
裕也はもう一本煙草を出すとオレに投げつけて、走りだした。拓も俺も置いてけぼりだ。と思ったら、拓も走りだしていた。
「なんだよ全く……しゃあねえな」
オレは煙草をポケットに入れると、軽く足首を回して追いかけた。
今日の裕也はおかしすぎる。それ以上に今日のオレの胸騒ぎが異常だ。