チャプター31 流れる気持ち
瑠衣は川沿いの遊歩道を歩いていた。
小一時間前い青年達と別れ、ようやく熱が冷めてきたのだ。
「なかなか面白いことになってきましたな」
先日見たドラマのワンシーンを真似てみる。嘲笑の笑いが後から生まれた。あれは主人公の女刑事が、犯人に裏を掻かれる寸前の台詞であった。
余裕を見せたから逆に突かれたのだろう、瑠衣はそう思ったのだ。
潤いのある風が水をすり抜け吹きあがってくる。瑠衣の丸みを帯びた髪は柔らかく毛先を浮かせた。
赤いヒールが何かに引っ掛かり、ゆっくりと瑠衣はこけた。
「痛い…なんなの?」
左足をさすりながら、自分を転ばせたものを探す。眼に入ったのは籠のバックだった。小さいとはいえど、これに躓いたとは恥ずかしく、顔が火照った。
バックの先に人影があった。艶のある髪が風を受けて美しく靡いている。何処となく、瑠衣は見覚えがある気がした。
不意にその人が振り向き、髪でほとんど隠れた顔から声を発した。
「瑠衣…じゃない?」
それは喫茶店で聞いた時の声だった。
籠のバックを持って道脇の斜面を下りるのは、至難の技だった。ヒールを脱いで降りることも考えたが、意地でもそのまま行きたくなったのだ。
「偶然…よねえ?」
「つけられたとでも言うんですか」
時は訝しげな眼をしながらも、赤い唇を持ちあげて笑った。側に立った瑠衣は改めて彼女の魅力に目を奪われた。
「丁度よかったわ、瑠衣に見せたいものがあったの」
そう言うと瑠衣の手からバックを取り上げる。時は慣れた手つきでバックの中を掻きまわし、目当てのものを探し当てた。それは一冊の日記に思われた。
「証拠よ。母が綴ったもの」
恭しく瑠衣はそれを受け取り、日焼けしたページを一枚一枚めくった。
そこには、毎日に感謝して楽しく過ごす一人の女性の生活が記されていた。同時に生々しいとも感じられ、瑠衣の背中に悪寒が走る。
「八月二日を見てくれる?」
「ほぼ一年前ですね」
最後に向かってめくり続けるのは奇妙な感覚だった。早送りで人の人生を眺めているようだ。
つまらない日だったわ、彼女の終わりの一日はその言葉から始まっていた。
欄外にまで溢れた文はこの日の重要性を示している。本が好きな瑠衣にとって、運命の一ページを読み終えるのに一分もかからなかった。
しかし、内容から何かを得ようと十分かけて読み返す。
「どう?」
時はぽつりと言った。
「…普通です。あまりに普通で、怖く思える」
瑠衣は正直に感想を述べた。
八月二日。
つまらない日だったわ。
朝から嫌な雲が家を隠しちゃってて、洗濯物も安心して干せなかったの。チラシもないから買い物にも行けなかったわ。
トキから昼に電話があってね、仕事は上手く行っているみたい。私に似て人にも好かれやすいだろうからね。
お隣の紀山さんがヒマワリをくださったわ。でも、その時紀山さんから聞いた息子の愚痴は耐えられなかったのよね。ヒマワリもしぼんでたんじゃないの?
おやつのきな粉ドリンクもまた悲惨だったのよね。きな粉が足りなくって、甘ったるい牛乳の味だったんですもの。
でも夕飯は上手く出来たわね。あの子はもっと凝ったものを作れって言うけれど、私には十分なのよね。
明日はビデオでも借りに行こう。レタスと牛乳が切れているし。
テレビは見ちゃだめね。
嫌なニュースばかりで頭痛くなってしまうもの。
じゃあ、明日の買い物忘れずにね。
「母は日記でも口調が仰々しくてね、私はからかったけど直さなかったわ」
(雲、チラシ、電話、ヒマワリ…何も結びつかないなあ)
瑠衣はじっくりと考えていた。先程まで相談していた身の自分が、今こうして相手のことで悩んでいるとは不思議だ。
下流の方で子供のはしゃぐ声と水音がする。道を超えた広場ではボールが飛んでいる。
突然、時が日記を瑠衣の手の中で無理やり閉じた。困惑する彼女に向かって強気な口調で言い聞かせる。
「今すぐ解決できるわけないんだから、そうやって苦しそうに悩まないで。あたしもいきなりで悪かったわ。また、喫茶店で会ったときにでも話しましょう」
瑠衣は時が、私とあたしを混合して使っていることに気が付いた。そしてもう一つ思い当った。
「ちょっと待って下さい」
そうして携帯を取り出し、赤外線の準備をする。それを眺めていた時が鋭く言い放った。
「アドレスも番号もいらないし渡さないわ。貴方に深く関わってもらう気はないの。今まで一人で調べ続けてきたんだから」
瑠衣が淋しく目線を落とすと、時は慌てて付け加えた。
「もう猶予もないの、あたし。だから中途半端にかかわったら今後あなたに蟠りが残る。それはやなの。大丈夫、たいていあの喫茶店にいるから。それに、この数日で解決するわよ」
「何を根拠に……?」
明るく言う時に違和感を感じ、瑠衣は尋ねた。迷うそぶりも見せずに答えられる。
「比坂に明後日会うの。約束したの」
時の眼にはゆるぎない決心の炎が見て取れた。