チャプター29 木漏れ日
和人世はふらつきながら歩いていた。心臓を締め付けるように押さえ、横になる場所を求め歩く。
「道化だ…フッ…自分で踏み込んどいてこのざまだ」
和人世はこの胸の痛みの原因は予想が付いていた。休憩室の散薬、そして比坂が淹れたコーヒー。
あのとき、うまそうに飲んでいた自分を絞殺しに行きたい気分に駆られる。
昼食の時であった。またも胸が痛みだしたのは。そのまま病院へ行こうと会社を出た途端、痛みが嘲笑うように勢いを増したのだ。
風は南西、微力、日光は日焼け注意。今朝の目覚ましニュースはそう告げていたであろう天気だ。
「三島、調べてくれてありがとな」
死ぬかもしれないと思った。誰にも看取られずに死ぬかもしれないと思った。
妻の不安そうな顔が目の前をよぎる。腕にはペチュニアが束ねられている。もう記念日は来ないのね、と唇が動いた。
横河が笑いながら歩道で書類をぶちまける。通行人に踏みつぶされる白い紙に、手をひらひらと振っている。ガラス窓越しに、松園は妻と一緒にテラスで外食をしている。
通り過ぎるすべての景色に幻影が混じった。
前後不覚に陥り、呼吸はリズムを忘れる。ふと、地平線のビルの端に赤い星が瞬いた。
「ばあちゃん…サソリ…」
意識が落ちる寸前見たのは、駆けよってくる美しい主婦だった。
重たく眼が開く。空気がこれでもかと乾燥させた眼を瞬かせて、四肢の感覚を確認する。どうやら死んでいないようだ。頭を持ち上げる。
予想に反して自宅であった。首を回してみるが、誰もいないようだ。
目の前には、頭痛薬らしい錠剤とお粥が用意されていた。
置いてかれていた、という表現が適切だろうか。
「いただきます」
仄かな温かみと、蕩ける米の食感。夢中で蓮華を動かしているうちに涙がこぼれたきた。
体験したことの無い、粒の涙。
死を間近に感じたのだ。一歩先の奈落から逃れられないと覚悟したのだ。人生の眼をつぶってみたのだ。
だが、生きている。
「……美味い」
思い返すと、朝食を食べてこなかった。妻は先に出勤していたのだ。
袖で涙を拭きながら、完食する。胸には違和感すらなく、体中から汗が飛びでんばかりの力が湧いてきた。
「生きてる!」
一生のうちきっと言わぬであろうと思っていた言葉を叫ぶ。鳥の声が返事をする。カーテンを通して木漏れ日が揺れる。
こんなに落ち着いた時間は久しぶりであった。
最後の記憶にあった主婦の正体を確かめようと思いだすが、思い当たる女性はいなかった。仕方なくため息をつき、体を伸ばす。
だが、余裕を持った頭は一番考えたくなかった点を引っ張りだした。
「比…坂………っ」
体が震える。燃え上がるような熱い怒りに体が振動する。
一つ不明なのは、これが一番大きいのだが、何故比坂が自分に毒を持ったのかということだ。殺されるほど大きな恨みを生み出した覚えはない。
白いシーツを撥ね退け、確かな感触のする地に立った。
背広のまま眠ったせいか肩が凝っている。
「昔は紗枝がマッサージしてくれたもんだ。あの下手な手つきで…」
頬が自然に上がった。妻は頑張って小さな手で和人世の肩を揉んでくれたのだ。
お礼にとマッサージした和人世に、妻は火山の如く、強すぎると怒鳴ったのだ。あれから二度と夫婦間でマッサージが行われたことはない。
時刻は二時。これから会社に行くつもりは毛頭なかった。和人世はこの地域に蔓延している噂を耳にはしている。
「ラトルのケーキを食べれば運命が変わる」
偶然か必然か、モンブランのケーキを買ったあの瞬間に胸が痛んだのだ。
比坂はあの店に絡んでいるかもしれない。それに気が付いているのは自分だけかもしれない。
推理小説を読んで身近なものを理論的考えるように、和人世は考えを巡らせていた。
結論、立ったままの足がしびれたころに浮かび上がったそれは、ラトルが何か秘密を握っているということだった。
「暴いてやってもいいんじゃないのか?」
玄関のチャイムが鳴った。寸前の考えの所為で、正に死ぬほど驚いた。
玄関に向かい、履きやすい靴を選んでドアを開ける。久しぶりに見る顔がそこにあった。
「久しぶりだね、おじさん」
夏の背景に輝く甥はずいぶん背が高くなっていた。靴も厚底でなく、黒を基調とした現代のデザインだ。
和人世は後ろに下がって彼を通した。
「仕事は休みですか?」
「死ぬより休んだ方がいいと思ってな」
クッションを脇によけ、長い脚を曲げるようにして彼は腰を下ろした。
和人世は壁に肘をつき、そんな彼をみつめる。
「おじさんは死にませんよ。俺を投げたこと覚えてます?」
覚えている。あれはまだ彼が中学生のころだったろう。興味本位でタバコを吸おうとした彼を偶然見つけた和人世は、高校時代の柔道を蘇らせて、彼を投げ飛ばしたのだ。
「あの後ラーメンでチャラにしただろう?」
「俺も安かったですよね」
二人は表情が柔らかくなった。和人世もようやく彼の向かいのソファに腰掛ける。
脇のテーブルからコップと紙カップのコーヒーを渡すと、彼はすぐに飲み始めた。上下する喉を見て、本当に大人になったのだなと感じた。
一息で飲んだ彼がもう一杯つぎ込む間に、和人世は尋ねた。
「で、突然どうしたんだ、大翔」
理解出来ないオールバックの髪を掻いて、大翔は軽快に笑った。
「ハハハ。相談したいことがありましてねっ」
コップがテーブルに触れると、コーヒーが波打つ涼しい音が響いた。