チャプター25 劇薬と異変
妻の目覚ましが鳴り響く中、和人世は呆然としていた。
予想はしていた。だがそれは予想以上のものであった。
「昨日から世界を混乱させているチェンジ、そして今朝現れたラトルの二社はいまだ動きを止めていません。この騒ぎによって、多くの企業は資金不足と共に倒産に追い込まれました。不景気をさらに推し進められたかに思えます。記者会見は報道が追い付かないほどであります。ひきつづき…」
「あなた…?」
やっと妻が目を覚ましたようだ。昼から出勤である和人世は、軽い昼食を食べていた。だが、食べている物の味さえ分からぬほど、意識はテレビへと向けられていた。
「なあ、これは第二の世界恐慌到来かもしれんな」
「私の友達も昨夜から大変みたい…。メールがたくさん届いてね。その多くが旦那さんの失業についてだったわ」
敢えて紗枝は失業した人数を教えなかった。余計な不安を抱かせたくなかったのだ。
「そうか…俺の会社もどうなるかわからないな」
夫婦の表情は、けして明るくなかった。
会社へは余裕持って出た。けれどもまたすべての信号が赤となり立ちふさぎ、結局いつも通り、五分前に着いた。心なしか、社員の数が少なく思える。
「よう、宇本」
松園が遅れて入ってきた。昨日と同じように紺色の背広を着こなしている。
雑談している暇はなかった。時間丁度に副社長がやってきたのだ。
「諸君も知っているだろうが、今わが社も窮地に立たされている。株価が三百を下回った。社員を減らすことも検討されているが、私も社長も反対している。今日も懸命に働いてほしい」
誰もが疲れを共有しているはずだが、みな活気づいた。瞬く間にオフィスはキーボード音に包まれる。
和人世は高く積み上げられた書類を整理しながら、昨日のアルミについて考えていた。三島に確認したいが、彼女は部署が違う。
この忙しさのなか別の部署へ行くのは至難の業だ。和人世は諦めて溜息をついた。
「ふう…やっと半分か。…ん?」
書類の山が低くなったおかげで開けた視界に、比坂の姿が無かった。
二日続けて休むなど誰も思わなかったに違いない。彼女の机の上にも大量の書類が積まれていた。隣の 女性は気になるようで、何度も比坂の机を確認している。
「連絡、あったのか」
その女性はすぐに自分だと気が付き、声だけで返事をした。
「今日は無断ですよ。まあ、有給使ってませんからね」
今日も戦いが終わり、肩を回していると昨日のメンバーが集まってきた。三島も横河の側にいる。
「茉莉が面白いことが分かった、つうんすよ」
横河が笑顔で言う。松園も期待していたらしく、今日は言葉遣いを注意しなかった。
「何だ」
我ながら疲れた声であった。いささか勢いがそがれた様子の三島は、それでも目を輝かせながら答えた。中高生が持つ無邪気ささえ滲み出ている。
「これは事件になりますよ。江梨花…薬剤師の友人が調べてくれたんですけど、薬品の名前がどの教授も答えられなかったんです」
「じゃあ、結局わからなかったんだな」
少し残念そうに言う松園に、急いで三島は付け足した。
「違うんです、終わりじゃありません。微量ですが付着していた粉は…毒性があったんです。それも命にかかわるほどの劇薬だったんです」
人が少なくて助かった。こんな会話が聞かれたら、まず誤解されてしまう。
「どういうことだ」
三島は考えを整理するように俯くと、すぐに顔をあげた。さらさらと髪が空を舞う。
「麻薬だと考えて下さい。飲み続けなければ苦しくなるような。それに近いのですが、今回の薬は持続的ではなく、断続的に当事者を苦しませるそうです。効果ははっきりしませんが、巧妙にできてて心臓病等に非常に似ている症状らしいです」
昔サスペンス小説が大好物であったろう横河は、興奮した様子で捲し立て続けていた。
「これは、この株騒ぎを乗じた何かの陰謀じゃないかな。誰か重役を殺そうとしたとか。いや、それだともっと単純なことをするか…そうだ、その人に異変を起こさせて周りの人間から怪しませ、仕事を続けられなくするとかかな」
次々と生まれてくる推理を全て彼女に聞かせる、またそれを頷きながら聞く彼氏思いの三島、なんと微笑ましい。だが事態は全く笑いごとではなかった。
「それが、休憩室に落ちていたことからして、社内の誰かに盛られたということだよな」
「多分な、いや確実にな。盛られた本人は気付くかも知れんが、作為的なものとまでは、考えが至らないだろうな」
松園と冷静にかわす言葉も、日々使うことはない恐ろしい内容であることは自覚していた。
会社を出てからも話し続ける横河に苦笑しながら、携帯を見ると九時前であった。
流石に今日は飲む時間はないだろう。この件について話したかったが仕方ない。
「悪い、帰るな」
「奥さんか?」
「まあな」
「これって社長に知らせるべきっすかね?」
「だめよ、私達で解決するんだからあ」
「松園、お前に任せた」
「なっ、一番の当事者お前だろう」
騒ぐ彼らの中は居心地が良かった。けれども別れを告げると、夏の暗闇が織りなす圧迫感に包まれた。
会社の駐車場に行き車に乗ると、ふと思い出した。今日は三六歳の誕生日であることを。
一人の車内でふっと笑みを漏らすと、慣れた手つきで曲がり我が家を目指した。
「こんな時勢に誕生日ねえ」
今日も妻が花を用意しているのだろう。
家に着くといつもより暗い気がした。時計を確認すると十時は回っていない。
鍵を開けドアを開けたが、妻はやってこなかった。
「何かあったのか…?」
心配は不要だった。妻は寝室で眠っていたのだ。だが、和人世は違和感に襲われる。妻の安らかな寝顔も安心感にはつながらない。
妻は、どんなに疲れていようと記念日の日には必ず起きていた。しかも朝遅くの妻は、夜は一時まで起きていることが多い。今日に限ってなぜ眠っているのだろう。
とにかく、用意の無い夕飯にうら寂しくなりながら、おにぎりを作って食べた。
冷蔵庫に埋まっていたビールを開けテレビを点ける。
相変わらず、株市場とそれの被害についてが報道されていた。
窓から蠍座の赤い光を浴びながら、和人世はテレビを眺めていた。