チャプター21 メールの訪れ
久しぶりにショッピングモールに買い物に行ったが、あの目まぐるしさは苦手だ。
やはり店は一つ選んで、ゆっくりするのが一番だろう。静かさが購入意欲を起こさせる。
帰宅した瑠衣は、三千円の帽子を外すとソファに突っ伏した。
「疲れたー…」
十秒目を閉じて、ガバッと起き上がる。首を三回転させて伸びをする。
体をほぐした後、唯一買った即席麺を作り始めた。調理時間は二十秒である。
塩ラーメンが好きな瑠衣は、目にした瞬間買わずにはいられなかった。一つ二百六十円という、迷う値段であったが五個買った。本場の味が楽しめるそうだから、だ。
「美味しい…」
スープを一口含んだだけでため息が出る味だった。
音を立てずに麺を食べ終え、スープも飲み干すと体にじんわりと汗が出てきた。
瑠衣の部屋にはテレビが無い。あえて言えば、普通在るべき物がほとんど無い。
エアコンもなく、扇風機も在らず、写真立てが一つもない。
理由は一つ、無くても困らないからである。母親譲りの性格だ。
ベッドと引き換えの広い空間に足をのばし、眼を閉じる。
一日働いた体を休め、頭だけは鞭を打った。昼間の会話が思い出される。
あの実態の摑めない喫茶店、ファンの回る音が響く店内が浮き上がって来た。
「名前を聞いても?」
尋ねた瑠衣はそのまま返された。
「あんたが先に言うならね」
「片桐瑠衣です。瑠璃色の衣と書きます」
女は髪をとかしながら口笛を吹いた。赤く染まった口が目に存在感を訴えてくる。
「良い名だねえ、瑠璃色か。あたしは榎原トキ」
「えのはら…トキはどういう字ですか」
「漢字はないよ、片仮名しか貰えなかった」
瑠衣はどうしても決めておきたかった。
「時間の『時』でもいいですかね」
トキは顔をあげて、前髪で隠れた眼を瞠った。美しい褐色の瞳だった。
「いいね、今までつけてくれる人はいなかったから。良い名だね」
一つ一つの言葉が心に沁み、瑠衣は不思議な感情に包まれた。
誰でも心の中をはっきり口にする人には、このような感情を抱くものだ。感銘としか表わす言葉を知らない、尊い感情を。
それから店を出た。二時間話しこんでいたようで、太陽は頂点を過ぎ降下を始めていた。
瑠衣は誠矢という少年の考えた計画を思い返し、眼を細めながら歩き出した。
もう一度計画を整理して考えてみたが、完璧すぎて現実味がなかった。少なくとも瑠衣はそう感じた。もともと株が関わる話にはついていけないのだから、当然であろう。
「はっ」
今になって思い出した。少年のランドセルを置いてきてしまったのだ。
時を信用していない訳ではない。しかし、取りに行くべきだと判断した。
気付かぬうちにあの店に行きたかっただけかもしれない。とにかく瑠衣は走り出した。
履き替えることを忘れ、ヒールのままだったが体がぐらつく前に瑠衣は足を踏み出していた。
光が際立つ夏の街を駆ける。生暖かい風が気持ち良く吹きぬけてゆく。
瑠衣は地面を蹴り続けた。迷いのない走り、正にそうとしか呼びようがなかった。
付けたままのクロスのネックレスが音を鳴らしながら跳ねる。時々手で押さえた。
公園が見えてきて瑠衣は速度を落とした。息を整えながら歩く。いつの間にか肩で息をしていたようだ。心臓も騒がしく動いている。
ぼんやりと『foreigner』の文字が不規則に点滅していた。その所為か周囲に馴染んでいない。
(ここは異世界かも知んないよ)
時の言葉が耳に蘇る。あのときわからなかった意味は、今尚理解できない。
ドアに手が触れる瞬間携帯が服の中で震えた。再び喚きだした心臓を抑えつけて開く。
メールであった。短い文を送ってきた相手は、部長だった。
「俺を探してくれないか」
読み間違いだと判断し、五回読み返す。小さな画面を何度も見回す。
部長にアドレスを教えたのは二年前であること、相変わらず絵文字と件名が無い、等くだらないことを考え終えると瑠衣は固まった。お陰で携帯は落ちなかった。
何度も心の中で短いメッセージを繰り返す。
これは冗談だ、とか、ただのいたずらだ、とかは全く出てこなかった。
何かが起きた、それだけは確信していた。部長に何かが起きた、と。
何もかも忘れて、瑠衣は立ちつくした。
気がつけば先程と同じように足を伸ばしていた。どう帰ったのか覚えていない。
手には痕が付く位強く握りしめられた携帯があった。画面も先程と同じだ。
「探してくれって…どういう意味ですか、部長」
外と同じ温度の部屋で、答える者はいなかった。瑠衣にはペットもいない。
一時間呆けて、やっと意識を取り戻すと明日の準備を始めた。
独り言をつぶやきながら、手を動かし続ける。
「明日になれば部長がいるんです。また私に企画の文句言ってくるでしょうね。そんな部長がいるんです。大体こんなこと起こるわけないんだし、私が何をするというんですかね。そうですよ…」
布団をかぶるその瞬間まで口は止まらなかった。
不安だった。寒気すら覚えていた。ただただ、早く夢に逃げたかった。
偶然か必然か、その夜ははっきりとした夢を見た。
部長が机にやってきて、腕を引っ張る。そのまま休憩室を通りぬけラトルへ至る。
店内にはオーナーが笑っていて、部長は顔を赤くしていた。横顔がリアルに見えていた。
彼らは瑠衣と話をするが、内容は流れ去ったように記憶に残っていない。
ただ、最後に部長が言った言葉は覚えている。ケーキの箱を瑠衣に差し出しながら、俺を探してくれと。そこで目が覚めた。
時刻は五時半で、外は丁度日が出るころだった。重い色のカーテンを開く。
予想もできない一日の始まりを、夏の太陽は無言で教えてくれていた。