チャプター20 会社の一角
不意に彼女の姿が無いことに気がついた。
「比坂は今日はどうしたんだ」
大きなキーボード音が鳴り響く中、叫ぶに近い声で尋ねた。比坂の隣の席の女性が、手を止めず顔も上げずに答える。相手もまた甲高い叫びであった。
「この騒ぎが起こる前に電話で休み取りましたっ」
和人世もまた、手を動かしながら唯一自由な頭で考えた。
一度も休んだことのない彼女が、今日に限って休む、偶然だろうか。偶然だな。
終わりのない仕事の中でこの考えは、消えていった。
十日分ほどの仕事を半日でやり終えた社員皆は、机に寄りかかってた。肩で息をしている者や、パソコンを見続けたせいか、目をこすっている者もいる。新米、古株の誰もが初めて体験する忙しさであった。
和人世も疲れ切り、椅子にもたれて脱力していた。
突然コーヒーが飲みたくなって、開きかけた口を慌てて閉じる。今は誰も命令されたくない筈だ。
立ち上がると、使っていなかった足が元気に休憩室へと運んでくれた。
すれ違った社員は、部署関係なくあからさまに疲れを見せていた。何人かなどの部下は会釈すら忘れていたほどだ。まあ、今は責めるまい。
ふと、和人世は会社の脆さを感じた。たった一社、あの会社が株を荒らしたあの数時間でここまでぐらつくとは。そして、働くことしかできなかったとは。
コーヒーポットを掴み注いでいると、妙なものが視界の隅に移った。
しゃがみ込んで拾うと、散薬の袋の一部に似ているアルミのかけらであった。何も付いていない。
無意識に周りを見回したが、他には何も落ちていなかった。気にする方がおかしい、ただのゴミだ。
奇妙なわだかまりを覚えつつコーヒーを口に含む。
「まずい…」
一人でつぶやく恥ずかしさに勝って味が悪かった。比坂が淹れたのはまるでこんな味ではなかった。
携帯しているチョコで口直しをしていると人が入ってきた。
和人世は出て行くときに、自分でも気づかぬほどの一瞬であのかけらをかすめ取っていた。
自分の席に戻った時、既に帰り支度をしている人が半数だった。空席も増えてきた。
「死にそうだよ、お疲れさん。今度飲み誘うからな」
山岡がコンと机を叩いて去って行った。朝よりも元気に見えるのは清々しさだろうか。
伸びをして帰り支度をはじめかけた時、あのかけらが目に入った。
「何で、此処に?」
手に取って眺めていると、かすかに粉末が残っているのに気がついた。
「風邪薬には見えないし、ビタミン剤でも…ないよな」
「どうした? 宇本」
松園が声を掛けてきた。同期の親友だ。格好良いの一言しか表わす言葉のない、整った顔の少し影のある男。藍色の背広を専用であるかのように着こなしている。
「ん、ちょっとな。休憩室に落ちてたんだが」
差し出した物を受け取ると、松園は顔をしかめた。
「妙だな、銀色なだけで薬品名さえ書いてない」
「端だから、じゃないよな」
「多分な。まさか危険なもんじゃないだろうな?」
「さあな。拾っただけだが、どうも気になって」
二人の男が小さなアルミを凝視している様は実に不自然だったのだろう、横河まで寄ってきた。
「何見てるんすか?」
まだ三十になって間もない彼は、年齢に似合わず幼さを持っている。そばには、交際している女性社員の三島がいた。小さくカールしたサラサラの髪の持ち主で、横河の二歳年下だ。
「おいおい、大したことないのに、なんでこんなに集まっちまったんだ?」
和人世が軽く言ったが、三人は真剣に紙を調べ始めた。
電気が自分のまわりだけになり、暗闇に残された気がする。だが、周りの同僚達は気にしない様子で喋り続けていた。
「あたしの友達に薬剤師がいるんです。調べてくれるかもしれません」
「おお、三島冴えているな」
「茉莉、やってくれんの?」
三人の男の視線が集まり、顔を赤らめながら彼女は答えた。
「おもしろそうですし、頼んでみましょうっ」
会社から出ると、四人は自然に店に入った。まだ七時だから、二時間くらいはゆっくりしていいだろう。周りで賑やかに話す友人達を見ていると、今日の疲れも幾分か消えてゆく気がした。
頭上では赤い星が光っている、和人世は胸騒ぎを感じたが振り払った。
今は、楽しいことだけを考えよう。飲むのも久しぶりだ。
明日からは今日の騒ぎによる被害が、公に各地で起きてくるだろう。
そのニュースをまだ見ぬ今は、何も気にせず飲んでもいいだろう。
無知がもたらす安心にたまには頼ってもいいだろう。