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栗の変化  作者: レモナー
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チャプター2 彼は・・

 

  愛車を走らせながら会社に向かっていると、奇妙な店が眼に映った。洋菓子店であろうが、何か独特な雰囲気を持っている。

 時間に余裕があったため、車を止めると背広を折らぬよう外へ出た。宇本和人世は有限会社に九年間務めている、三五歳の妻帯者である。普段は会社に向かう途中に寄り道などはしない。

 改めて見てみると、外観は美しい。ヨーロッパを切り取ってきたようだ。和人世の出勤時間は十時と遅めであるので、既に店は空いていた。好奇心が勝り、入ってみる。

 「いらっしゃいませ」

 深みのある声と共に挨拶をしてきたのは恰幅の良い、店長らしき男だ。

 店内はまさに、少女が夢見る森のケーキ屋だ。木造りの動物とギフトが色鮮やかなリボンに包まれ並んでいる。

 買う気はないので、店内の人の多さが逆に助かった。

 (そろそろ出なくてはな)

 しかし、和人世は足を止めざるを得なかった。

 今まで袖が触れていたテーブルの感覚がなくなると同時に、ケーキが飛んだのだ。束の間不思議な光景に目を奪われ、崩れる音と共に現実が帰ってくる。

 「俺…俺がやったのか?」

 寄り道などするのではなかった。中央のテーブルに置いてあったからには店のシンボルなのであろう。弁償となるだろうか。

 焦ってめぐる思考を落ちつけていると、男がカウンターから出てきた。

 「あのっ…私が…」

 しゃがみ込みケーキを一瞥すると、彼はクッと顔をあげ笑った。

 「気にせんでください。それより出勤ではないのですかい?」

 時計を見ると自然と目が大きくなった。店内に三十分近く居たらしい。急いで車に戻ると、店に向かって謝りながら発進した。


  暑い。

 今年の夏は例年より陽光が強く突き刺さる。もしくは妻がシャツを間違えたか。

 軋む音が鳴る椅子にもたれ、和人世はため息をついた。大急ぎできたおかげで遅刻はしなかったが、熱を持った体が不愉快だった。

 「コーヒーが飲みたい」 

 いつも通り独り言で流されると思った矢先、コーヒーカップが目の前に現れた。

 丁度いい加減に氷がとけている。差し出された手をたどると新任の女性だった。

 「あ、ありがとう」

 カップを受け取るが彼女は動かない。仕方なくコーヒーを飲み干す。

 会社のを飲むのはこれが初めてだと気がついた。

 味はまあまあだが香りは上に入る。女性が小さく笑う。

 「こんな暑い日には目が見えなくなればいいですのに」

 何か耳に残るセリフを置いて彼女は去った。

 彼女の笑みを思い返すと妻が浮かんだ。

 彼女のそれとは異なり、素朴な笑み。

 何かと記念日にこだわる妻は「一年で十四記念日作るの」と叫んだ。

 普通なら記念日ごとに歳月を感じるので嫌にならないだろうか、と考えたものだ。お互い三十五に差し掛かる。

 バレンタインとその対極、クリスマスしか思いつかない私に

 「告白記念日は? 婚約記念日は? 初キスの日だって。妊娠記念さえ出なかったわね、そうよ結婚記念日は? ねぇもっと思いつくでしょう」

 正直ついていけなかった。ただそんな彼女がとても愛しかったのは覚えている。

 初めて見せた素顔のように純粋な言葉だった。

 その後私の出した新年初日と誕生日が加わった。

 結局残りの三つは知らない。妻いわく『その日』に教えてくれるそうだ。

 用意はできないが。


  軽い満腹感を感じながら背の窓を眺める。

 磨かれたガラスは夏の日光を全く弱めはしない。むしろ強めているだろう。冷房では太刀打ちできない。

 太陽を目で追っていると笑みがこぼれた。確かにこんな日には目が見えなくなればいいかもな。そしたら少しは涼しくなるんじゃないか。

 机に戻り書類をにらみつける。

 日の残した青い光でよく見えないが、残業確定だろう。

 その中の一枚を手に取りゆっくりと頭を働かせる。

 妻は怒るだろうな。

 そうだ、ケーキでも買って帰るかな。

 最近一緒に食べてないしな。

 向かい合って話すのも悪くないな。


  一つ予定を決めると後の作業は早く感じられるものだ。

 半時間ほど早く終わった書類を見直し、肩を回すと音が鳴った。

 あまり音を鳴らしすぎると全身マヒに繋がるんだったか、最近見たテレビの情報に寒気を覚えつつ肩を優しく押さえる。

 同じ部の社員もまとめに向けて作業を切り上げていた。若手が汗をにじませ、何度も仕事をチェックし恐る恐る端を整える。年配の方々は鋭い眼で書類をさっと読み返す。この風景が和人世は好きだった。

 何人か中の良い同期は、和人世の視線に気が付いて手を挙げて見せた。それに応える自分の顔が笑っているのは気持ちが良い。

 同じく仕事を終えたらしい彼女に声を掛けた。

 「比坂さん、お勧めの洋菓子店はないか」

 今朝の洋菓子店を思い出しながら、返事を待つ。先ほどの女性が机の前に帰ってくる。

 歩く度に揺れるスカートから、慌てて目をそらすと同時に声が聞こえた。

 年齢を惑わせる、不思議な響きが込められた声。

 「良い店を知っております」

 彼女の髪からは淡いラベンダーの香りがした。


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