チャプター15 狂気の数値
静かだった株市場に爆弾が落とされた。
和人世も株を持っている「青橋製薬」の株価が大暴落した。
表示ミスかと思うような値まで。一株六十五円。
昨夜まで八千円台を保っていたとは信じられない数値だ。
和人世は、パソコンを凝視したまましばらく動けなかった。
こんなときに限って頭は冷静に損害額の計算を始める。千株持っていたから、八百万程の損失だ。
今の給料から考えて笑って済ませられる額ではない。
力なくマウスから手を離し、頭を抱える。爪が頭皮に軽く食い込む。
株市場に手を出す前に随分勉強したはずだ。伸びる株の見分け方も学んだはず。
なら、この画面は何故だ。
「あなた、今日の新聞」
妻もただならぬ気を察して早足で持ってきた。
ほとんど奪い取るような形で和人世はそれを広げる。焦るあまりに上手く開けない。
やっと姿を見せた欄は想像を絶するものだった。
「なん…蕪崎製菓も、三大企業がすべて百円を下回る…だと」
手が震えるのを感じる。見慣れた会社名の隣に見たことのない数字が並んでいる。
世界恐慌か、いや日本恐慌到来か。
妻がいち早くテレビをつける。チャンネルを合わせるまでもなくそのニュースだった。
「……して、今朝の株市場の状況の原因としては、昨日の汚職事件、また大きな力を持った株主が株を売り払ったことと思われます。諸企業では対策を…」
原因が後者だとしたら悲惨なことだ。株主に裏切られたようなものだから。
和人世は、ボタンに指を掛けテレビを消しかけた。
「速報が入りました。株市場にチェンジという会社が現れ株価が、一万二千、一万五千八百、えっ、二万千二百…。株価が急上昇しています。どうやら株を売り払った株主たちが買いつけているようです。今四万を超え…」
今度こそテレビを消した。
(チェンジ? 四万? ふざけている)
「あなた一時になるわ」
会社に向けて出発する。車の中は太陽に蒸され、不快指数の記録に挑戦している。
窓を開けるが湿った空気しか流れ込んでは来なかった。全ての信号が赤だった。
自分の前の車が丁度黄色の光の下を行き、和人世は止められる。
お陰で二十分のロスをした。
(どうなってんだ…)
会社の中では、事情を知る者は狂乱に近い状態だった。友人の山岡が背広のしわを正しながら声を掛けてくる。
「知ってるよな、今朝のニュース」
いつもの明るさが微塵にも感じられない重い声だった。
「ああ、おかしいじゃ済まない問題だからな」
「おいっ、山岡。五万を越したぞこの会社」
山岡が声のしたほうへ走る。和人世も後から歩く。
背広をはためかせてブレーキをかけた山岡が叫ぶ。
「宇本、やばいぞこれは。相当」
画面を見た瞬間理解した。三大企業どころではなく次々と株価が下がってゆく。
崩れる塔を眺めている気分だった。まるで突如現れた社が食い荒らしているようだ。
「何者なんだ、チェンジって」
「それがわかれば苦労しない」
課長の声だった。振り向くと青ざめた年配の男が立っている。
通常の怒りに満ちた赤い顔が恋しくなるほどだった。
「わが会社も危機にさらされている。株主に連絡して、被害を防げたが、それでも一株千円は優に下っただろう。この状況を速く理解してくれ」
株に興味のない社員も全員が寒気を覚えた。この異常な空気の中で山岡が叫ぶ。
「六万を超えました!」
ああ、紗枝きいてくれ。この国は狂ってしまったようだ。
今は目に見えなくてもこれからの被害を考えるとおかしくなりそうだ。
それも一つの会社「チェンジ」によってな。
ふざけたネーミングだろ。
「全員仕事に全力で励め! このままの状態が続けばわが社も潰されるぞっ」
その声を合図に空気が変わった。
奇妙な熱気と活気、そして不安に支配された。和人世も机に着く。
「働くことしかできないのか」
つぶやきはキーボードを叩く音にかき消された。