チャプター14 広い街
目覚ましが鳴り響き夏の朝が迎えてくれた。
時計を見ると午後に突入している。瑠衣は驚かなかった。
「休み……」
仕事好きだと自覚はしていたが、これほど仕事恋しく思うのは初めてだ。
瑠衣の髪が朝日を受けて、艶やかに輝く。一DKの狭い部屋の中。
立ちあがって外に出ようと思うが体が重い。風邪ではないと自分に言い聞かせる。
世間では夏にもインフルとかいう風邪が流行ると言う。かかりたくないものだ。
彼女は久しぶりにエプロンをつけ、キッチンに立った。
得意の料理は肉じゃがである。だがしらたきも入らなければ、玉ねぎもなしだ。
まさに肉とジャガイモだけが入る料理、それが瑠衣の得意料理だ。
鍋を熱しながら、暇な頭で部長のことを考えた。
入社したての頃、厳しい上司と有名だった彼の部署に決まった時は怯えたものだ。
実際は部下に言葉で勝てない、柔らかな人格の人であると今は理解している。
手に痛みが走り、鍋が沸騰していることに気がついた。火を弱める。
切ったジャガイモを移しながら、企画の仕事について考えた。
初めてそれを聞いたときは、天職だと思ったものだ。好きな菓子のことを調べ、まとめるだけでいいのだ。幼少期から母の忠告を守らず、数多の失敗作を生み出してきた瑠衣にとって、店に売っているケーキは至上の傑作達である。
それらと関われる仕事のどこに不服があろうか。
後のライバルとなった松園の企画書を見て、闘争心を燃やしたことが記憶に残っている。
彼女も新任の私の追い上げに唖然としていた。考えれば可笑しいことだ。
繰り返し湧いてくる過去の記憶を一つ一つ眺めるうちに、料理が完成した。 いつ肉を入れたのか覚えていない。
「ジャガイモが固い」
素直な友人ならだれもが言いそうだ。だが、瑠衣はこの堅さでなければ食べられない。
「成功、成功」
また次の記憶の波が来る前に食べ終え、外に出た。頭の中は鍋のように煮たっている。
まぶしい太陽の光が街に降り注いでいる仲、瑠衣は歩き出した。
(今日はどこに行こうか)
あてもなく歩いていると、いつもとは違った風景が見えてくる。
存在を知らなかったレストラン、アクセサリーショップ。活気のある商店街。
仕事で急いで駆け抜けなければ、こんなにも街は広く感じるのだ。どこか新たに入ってみようか、楽しくなって足取りが弾む。途中ワゴン型の店でクレープを購入した。
チェリーカスタードと言う見たことの無いもので、瑠衣はその舌触りと濃厚な甘さを堪能した。そこの店長と三十分ほど話し込む。瑠衣の細かな感想と的確なアドバイスに、東京で修業したであろう若い男は眼を丸くしていた。
きっと、次に見る時はチェリーと黄桃のレモン風味生クリームという新商品が並でいるはずだ。
そこから離れるとまた、瑠衣は赤いポーチを揺らしながら街を眺める。ふと眼が止まった。
ポーチと同じ存在感のある物が落ちていたのだ。黒いランドセル。あのケーキ屋の前だった。
ここで誘拐だの事件だの考えるほど、瑠衣の頭は動じていない。ただ鞄があるだけだ。
好奇心が先に動き、ランドセルの持ち主を確かめる。
開けると整った文字で『栗野 誠矢』と書かれていた。教材が無造作に詰められている。
目線を感じる。直感のままに振り向くと女性が立っていた。
「それ、栗野って書いてある?」
小学生の子供など持ちそうにない若い女である。強気な眼で、礼儀など構わず瑠衣を眺める。
「そうですが、なにか」
瑠衣も冷静に返した。女性はカールした髪を触りながら睨んでくる。ブラウンの混ざった、二重で大きな眼。
「誠矢のこと知ってるの?」
勿論ランドセルの持ち主のことだろう。ランドセルを持ったまま瑠衣は思案して、止まらずに答えた。
「小学生で黒のランドセルを持ち、字が整い学校が嫌いなことは知ってます」
女性は吹きだした。あきれたというように眼を和らげる。
「面白いね、あんた。そこで話さない?」
指で示した方向は、見た覚えのない喫茶店があった。
答える前に彼女は歩きだしている。瑠衣はランドセルを持って迷い結局持って追いかけた。これは窃盗ではないと思いながら。
会ってすぐにその人の指示に従うのは得策ではない。しかし、瑠衣はこの時ほかの選択肢を思いつかなかったのだ。前を歩く女の細工の細かいサンダルを見ながら、ただついて行く。
店に入る寸前女性は足を止めた。黒い髪を風に遊ばせながら振り向き、謎めいた事を言った。
「この中は異世界かも知んないよ」
意味が読み取れず戸惑うと、彼女は口の端を上げた。日差しを反射して赤い唇が光る。
「あんたの頭ならその住民にだってなれるわ」
見上げると喫茶店の名前は『foreigner』だった。