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栗の変化  作者: レモナー
11/45

チャプター11 12個目の記念日

 

  和人世がケーキを提げてドアを開けると、腰に手を当てた妻が待っていた。

 明らかに不平を訴えるような眼で睨み、口を開ける。

 おおよそ千回は聞いた言葉。

 「おかえりなさい、遅かったのね」

 千一回目の切り返しをする。

 「ああ、仕事が多かったんだ」

 

  リビングのテーブルには二人分の食事が用意されていた。

 手はつけられておらず冷えていた。なぜか涙がこみ上げてくる。

 誤魔化すように袋をテーブルに置く。視界がぼやけている。目をこする。

 「温めてくるわ」

 妻が戻る前にケーキを広げる。二つの紫がショーケースの中のときよりも鮮やかに映える。妻はそれを見て笑い出した。手に持つ食器が音を立てる。

 食器は普段使わないきれいなものだった。

 体が曲がるほど笑って彼女はこう言った。

 「何でわかったの、『その日』だって」

 偶然とは時にすばらしい。

 向かい合って食べる夕食は最高だった。紗枝は料理がうまい。

 イタリアンが得意で和食は作ったことがない。今日も得意料理のカルボナーラと、ピリッとするドレッシングであえたサラダ、手作りのトマトスープが並んでいた。

 もちろん私も和食が好きだというほど野暮ではない。時々食べたくはなるが。

 「ふふ、今日はあなたが父さんに殴られた日よね」

 記憶が断片として蘇る。同時に頬が痛むのは気の所為だろう。

 「紗枝の両親に挨拶しに行った日って言ってくれ」

 紗枝は美味しそうにサラダを食べると、艶のある唇で笑った。


  八年前のこの日、交際一年の紗枝の実家へ訪れた。我ながら生意気だったと思う。

 簡潔に言うと結婚の申し出に行ったのだ。たった一年のお付き合いで、初めて実家を訪れた要件が結婚の申し出なのだから。

 紗枝の母は喜んだが父はそういかなかった。他の者を追い出して私と向かい合った。今の日本には珍しい、緑茶色の和服を着ていたのだからなおさら威厳があった。

 あのときは心臓が壊れるのではないかと思ったほどだ。職業等を聞かれ、最後には結婚の理由を尋ねられた。あの瞬間はよく覚えている。

 「紗枝さんと一生共に居たいと、この一年暮らしてきてはっきり思うようになったからです」

 顔が熱くなる台詞だったが、堂々と言えたと思う。自分の人生の中で最も勇気あるシーンだと刻みこんだ。

 だが、その勇気ある言葉は拳によって打ち砕かれた。

 全身に響いた衝撃は忘れることができない。何処を殴られたかさえ分からなかったのだ。

 「今の痛みを一生覚えていろ。紗枝を裏切ったら千発いれてやる」

 優しい亭主とは思えぬ凄みを利かせた後、静かに付け加えた。

 「紗枝を頼む」

 彼が父親になった瞬間だった。

 あのあと、新たな家族で机を囲い、イタリアンの料理を食べたのを覚えている。 

 何故か紗枝の母親はフランス料理を添えていた。隣を見ると父親は微笑んでいたから、今の紗枝のように毎日フランス料理を作っていたのだろう。

 何を話したかなど覚えていないが、団らんと呼べるものにいつの間にか仕上がっていたと、実感したのだ。 

 

  あの日を記念日にしていたのか。思いつけなかった自分が信じられない。

 「今日で八年、あなたはずっと守ってこれたよね」

 抱き締めたくなる笑みで紗枝は答えた。

 「まあな、長らく紗枝の実家には行ってないな」

 「良いのよ。きっと元気だから」

 紗枝はフォークを宙でまわし、ふいに席を立った。

 しばらくすると、甘い香りとともに紗枝は花を抱えてきた。

 ゼラニウムとペチュニアのブーケで空気が明るくなる。花言葉は尊敬と信頼、真実の愛情というゼラニウムは記念日ごとに紗枝が買ってくる。一度も欠かしたことがない。やはり、この結婚生活には欠かせない要素が詰まっているからなのだろう。

 ペチュニアは初めてだった。

 大体この花はブーケに適していないと思うのだが、紗枝が選んだのだ。訳があるだろう。

 机の真ん中に紗枝はそれを置いた。にんまりとして眺める彼女は天使みたいだ。照明の当たり具合がまたとてもいい。

 妻のことだ。それも計算に入れて花を配置したに違いない。

 「こっちはなんていう花言葉なんだ?」

 愛らしくウィンクをして、紗枝は巻き返す。

 「ケーキを食べましょ、遅れたから花言葉は教えない」

 「はは。なんだよ、それ」

 そういうところが彼女らしいのだ。自分が優位に立つことに悪びれなく、相手にも不愉快を与えない。だから尚愛おしくなる。 

 小さな金属音を鳴らしながら、妻が買った花を囲みながら、ケーキを食べるこの時は、ただ幸せしか感じられなかった。

 この先もこうして記念日が続いて行くのだろうと思っていた。

 このときは、ただ。


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