チャプター11 12個目の記念日
和人世がケーキを提げてドアを開けると、腰に手を当てた妻が待っていた。
明らかに不平を訴えるような眼で睨み、口を開ける。
おおよそ千回は聞いた言葉。
「おかえりなさい、遅かったのね」
千一回目の切り返しをする。
「ああ、仕事が多かったんだ」
リビングのテーブルには二人分の食事が用意されていた。
手はつけられておらず冷えていた。なぜか涙がこみ上げてくる。
誤魔化すように袋をテーブルに置く。視界がぼやけている。目をこする。
「温めてくるわ」
妻が戻る前にケーキを広げる。二つの紫がショーケースの中のときよりも鮮やかに映える。妻はそれを見て笑い出した。手に持つ食器が音を立てる。
食器は普段使わないきれいなものだった。
体が曲がるほど笑って彼女はこう言った。
「何でわかったの、『その日』だって」
偶然とは時にすばらしい。
向かい合って食べる夕食は最高だった。紗枝は料理がうまい。
イタリアンが得意で和食は作ったことがない。今日も得意料理のカルボナーラと、ピリッとするドレッシングであえたサラダ、手作りのトマトスープが並んでいた。
もちろん私も和食が好きだというほど野暮ではない。時々食べたくはなるが。
「ふふ、今日はあなたが父さんに殴られた日よね」
記憶が断片として蘇る。同時に頬が痛むのは気の所為だろう。
「紗枝の両親に挨拶しに行った日って言ってくれ」
紗枝は美味しそうにサラダを食べると、艶のある唇で笑った。
八年前のこの日、交際一年の紗枝の実家へ訪れた。我ながら生意気だったと思う。
簡潔に言うと結婚の申し出に行ったのだ。たった一年のお付き合いで、初めて実家を訪れた要件が結婚の申し出なのだから。
紗枝の母は喜んだが父はそういかなかった。他の者を追い出して私と向かい合った。今の日本には珍しい、緑茶色の和服を着ていたのだからなおさら威厳があった。
あのときは心臓が壊れるのではないかと思ったほどだ。職業等を聞かれ、最後には結婚の理由を尋ねられた。あの瞬間はよく覚えている。
「紗枝さんと一生共に居たいと、この一年暮らしてきてはっきり思うようになったからです」
顔が熱くなる台詞だったが、堂々と言えたと思う。自分の人生の中で最も勇気あるシーンだと刻みこんだ。
だが、その勇気ある言葉は拳によって打ち砕かれた。
全身に響いた衝撃は忘れることができない。何処を殴られたかさえ分からなかったのだ。
「今の痛みを一生覚えていろ。紗枝を裏切ったら千発いれてやる」
優しい亭主とは思えぬ凄みを利かせた後、静かに付け加えた。
「紗枝を頼む」
彼が父親になった瞬間だった。
あのあと、新たな家族で机を囲い、イタリアンの料理を食べたのを覚えている。
何故か紗枝の母親はフランス料理を添えていた。隣を見ると父親は微笑んでいたから、今の紗枝のように毎日フランス料理を作っていたのだろう。
何を話したかなど覚えていないが、団らんと呼べるものにいつの間にか仕上がっていたと、実感したのだ。
あの日を記念日にしていたのか。思いつけなかった自分が信じられない。
「今日で八年、あなたはずっと守ってこれたよね」
抱き締めたくなる笑みで紗枝は答えた。
「まあな、長らく紗枝の実家には行ってないな」
「良いのよ。きっと元気だから」
紗枝はフォークを宙でまわし、ふいに席を立った。
しばらくすると、甘い香りとともに紗枝は花を抱えてきた。
ゼラニウムとペチュニアのブーケで空気が明るくなる。花言葉は尊敬と信頼、真実の愛情というゼラニウムは記念日ごとに紗枝が買ってくる。一度も欠かしたことがない。やはり、この結婚生活には欠かせない要素が詰まっているからなのだろう。
ペチュニアは初めてだった。
大体この花はブーケに適していないと思うのだが、紗枝が選んだのだ。訳があるだろう。
机の真ん中に紗枝はそれを置いた。にんまりとして眺める彼女は天使みたいだ。照明の当たり具合がまたとてもいい。
妻のことだ。それも計算に入れて花を配置したに違いない。
「こっちはなんていう花言葉なんだ?」
愛らしくウィンクをして、紗枝は巻き返す。
「ケーキを食べましょ、遅れたから花言葉は教えない」
「はは。なんだよ、それ」
そういうところが彼女らしいのだ。自分が優位に立つことに悪びれなく、相手にも不愉快を与えない。だから尚愛おしくなる。
小さな金属音を鳴らしながら、妻が買った花を囲みながら、ケーキを食べるこの時は、ただ幸せしか感じられなかった。
この先もこうして記念日が続いて行くのだろうと思っていた。
このときは、ただ。