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栗の変化  作者: レモナー
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チャプター10 夜が唸る

  

  仕事が終わって入った喫茶店は閉店間近だった。

 迷惑だったかと怖気づいたが、開いている時点で客は歓迎なのだと言い聞かせた。

 瑠衣は奥の席に腰をおろしバッグを椅子に掛ける。

 若いウェイターにコーヒーを注文すると、頬杖をつき目を閉じた。心が落ち着く。

 部長とはあの後話すことができなかった。風邪だったから仕方ない。

 店内に流れる音楽は何か懐かしかった。

 去年のヒット曲だと気がついたとき、コーヒーが届けられた。静かに置いたその動作が妙に美しく思えた。ウエイターを見上げてふとケーキを注文しようかと迷ったが、宙で止まった手を下ろす。

 「美味かった」

 部長が言ったそのケーキしか食べられない気がした。

 携帯が震える。机に振動し、ウエイターが視線を送ってくる。申し訳なさを込めて目配せをし、手を伸ばした。


  開くと紗枝さんからだった。隣の席の憧れの人だ。メールボックスを素早く開く。

 「夫が帰ってこないの」

 「今日何かあるんですか?」

 短く返すとすぐに返信が来た。紗枝さんは知人の中でも返信の速度はずば抜けて早い。

 「大切な日なの。でもまだ十時にもなってないものね。彼氏のいないあなたにはのろけに近かったわ、御免なさい」

 紗枝さんの夫婦仲の良さはよく知っている。羨ましいほど素直すぎるメールも見慣れたものだ。

 携帯を閉じると部長の顔が浮かんだ。「彼氏」の文字が重なる。

 紗枝さんは何時出会ったのだろう、ふと疑問がわき出てきた。いつ出会い、いつ恋に落ち、いつ結婚を決意したのだろう。

 一度だけその話を聞いた覚えがある。幸せな顔で熱を持って話す紗枝さんが思い出される。

 「彼と会ったのはね、学生時代だったの。初めて見たのは、バイト先に向かう駅だったかしら。一目ぼれだったわ。でも、もう二度と会う訳ないって諦めたのよ。そしたら、もう一度出会うチャンスがあったの。それだけで本気になった」

 長い話だったから後半はあまり覚えていない。

 それでも、きらきらとしてとても鮮やかな日々の連続であったことは間違いないのだろう。

 それがすごく羨ましいのだ。

 

  コーヒーは人肌程度になっていたが、瑠衣は気に出ず飲み干した。

 空いた両手が勝手に携帯をもてあそぶ。ストラップの小さな音がリズム良く鳴る。

 喫茶店の空気は何処とも異なっていて、人を静かにさせる効果がある。

 その中で熱が上がってくるのは、自分だけではないかと瑠衣は思った。

 昼に掴まれた腕をさする。さっきよりも強く、長くたださする。

 今まで二十二年間付き合うことすらなかった。男と手を握ったことも中学以来ない。思えばあまり心を出さない自分は関わりにくかったのだろう。

 行事の時も協力こそはしたが、男子を引っ張る女子をただ眺めていただけだった。昼休みも延々とドイツ文学の本に没頭していたものだ。

 そんな私にも勇気を持って声を掛けてくる男子はいた。読書を中断されたと不機嫌な応答しかしなかったっけ。

 過去の窓を閉じメモ帳を開くと明日は水曜日、仕事は休みである。虚しさが広がった。

 閉店のメロディが流れ始める。目の前でウエイトレスが掃除をし始めた。

 (色々なことが始まる夜に、自分も何か始まったんじゃないだろうか。この胸の鼓動は始まりの鐘の音じゃないだろうか。)

 今朝ケーキが落下していった映像が目の前に現れる。

 何かが始まる予感がしたあの気持ちに戻る。手に汗が滲み出てきた。

 バッグを掛けて立ち上がり、会計に向かう。いつもよりヒールの音が耳に響く。

 「悪くない気分だ」


  外に出ると涼しい風が吹いていた。暦の上ではそろそろ秋だろう。

 駅に足を運んでいるとタクシーが猛スピードで通り過ぎた。

 一瞬だったが紗枝さんの旦那さんだったと思う。「よかったですね」打った文字は送信せずに保存した。

 秘密ができたように気持ちよさが心を満たす。 

 (明日はケーキ屋に行こう。部長がほめたケーキを食べて買い物でもしよう。木曜になったら…)

 瑠衣は足を止めた。駅が目の前にそびえたっている。

 風が唸るように耳元をすり抜けた。髪が巻き上げられる。それを追うように瑠衣は顔をあげた。

 空気が止まると、乱れた髪が舞い降り視界を縞縞に狭めた。その模様の中で駅がネオンに光る。人々が通り過ぎる。

 (木曜になったら部長は風邪が治っているかもしれない。また「片桐瑠衣」とあきれがちに呼びかけてくる、いつもの部長がいるかもしれない)

 それでもいいじゃない、心で元気づけたいつもの自分に瑠衣はなぜか返事ができなかった。

 返事を胸につかえたまま、瑠衣は見慣れた券売機へと足を進めた。

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