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咲夜は、あたしの無二の友人だった。
咲夜がいてくれれば他に何もいらない。
あたしはいつだって、心底本気でそう思ってきた。
あたしの家は、遡れば由緒正しい武家の血筋に当たるらしい。咲夜の家は同じように辿ると公家だとか。旧家同士の縁で、あたしの家と咲夜の家はひいおじいちゃんの代から交流があったと聞いている。同い年で同性だったあたし達は物心つく前から仲良しで、いつだって一緒に行動してきた。
咲夜は、名前の通り、花みたいな子だった。可憐で、温かくて、柔らかい。いつだってふわふわ柔らかく笑っていて、そんな咲夜があたしは大好きだった。
あたしの家は代々の伝統で厳しく武術を叩き込まれるけど、あたしはその技を咲夜を守るために使おうって心に決めていた。だから、兄弟やイトコ達が厳しい鍛錬に泣きを上げる中でも、あたしだけは歯をくいしばって耐えることができた。苦しかったけれど、その苦しさを対価に咲夜を守ることができるなら、どんな苦しみだって甘美なものに思えた。
あたしの存在理由のど真ん中に、いつだって咲夜がいた。
あたしは、由緒ある家の娘で。学業もそこそこできて、何より武芸の面で世間一般に認められていた。そもそも『学生』であり『親がいる未成年』は、それだけで国に存在を認めてもらえる。あたしの存在理由は、世間から見て十分認められるものだった。
だけどそれはみんな見せかけだけで、あたしの本質は全部、全部全部『花咲咲夜のため』だった。
あたしは、咲夜のためにいる。
そう思えるだけで、幸せだった。
なのに。
「花咲咲夜が片付けられたのは、……ひと月前のことだと聞いたわ」
咲夜は突然、あたしの前から消えてしまった。
失踪、とか、そういうのじゃなくて。
殺された。片付けられた。
国を背負う殺し屋に……掃除人に。
「どうして? 咲夜に、殺されなければならない理由なんて、なかったじゃない」
咲夜が殺されたのは、ちょうどひと月前の真夜中のことだったらしい。あたしは現場を見ていないし、詳しい話も教えてもらえずじまいだったから、どんな状況下で咲夜が死んでいたのかは分からない。だけど、まるで眠っているかのような顔をして死んでいたことは、棺に横たえられた咲夜の顔を見たから知っている。現場に季節外れの真っ赤な彼岸花が残されていたから、これが掃除人による『片付け』だったと分かった、という話も。
「咲夜は、由緒正しき花咲家の娘。学業だって優秀で、茶道の世界ではこの歳でそこそこに名が知れてたって話じゃない。片付けられなくちゃならない理由なんて、どこにもなかった。存在理由がなかったなんて、絶対言わせない……っ!!」
理解、できなかった。何もかもが、分からなかった。
咲夜が、あたしの前からいなくなった? 殺された? 片付けられた? なんで? どうして?
咲夜、咲夜、どこに行ったの? どうしてあたしの前に姿を見せてくれないの?
ねぇ、どこに行っても咲夜がいないの。何を食べても味がしない。何をしても楽しくない。何をしていても意味がない。
咲夜、あなたがいてくれなきゃ。
咲夜、咲夜、咲夜咲夜咲夜咲夜咲夜。
……ねぇ、どうしてあなたは。
「……その前に、ひとつ、確認したい」
グラグラと煮える思いで胸が爆ぜそうになる寸前。
スルリと、気だるげな声があたしの耳に忍び込んできた。
「どこまで知っている?」
「……え?」
予想していなかった言葉に、気が抜けた声が漏れた。
こんな風に、確認を求めてくるなんて、思ってなかった。あたしの要求を一方的に蹴ってくるか、あたしの要求に対する答えだけをポンッと渡されるか。
それで終わりだと、思っていたから。ましてや相手の男は息をすることさえめんどくさそうにしてるくらいだから。
「事の真相について、どこまで知っているのか、と質問しているんだ」
男はそう言うと、わずかに首を傾げた。サラリと黒絹のような髪が揺れて、またほんの少しだけ秀麗な顔が見せる角度が変わる。
その段階になるに至って、私は黒と白以外に男を構成する色があることに気付いた。
「お前が手始めに花咲家の人間から殺したのは偶々なのか? それとも」
深紅。
まるで、鮮血のような。あるいは、椿のような。
刀の鞘に巻かれた下緒が、モノトーンの世界で鮮烈な色を刻んでいる。
「何か知っていたことがあったから、なのか」
コクリ、と、自分の喉が揺れたのが分かった。
あたしが使った凶器も、日本刀だった。家の稽古場の床の間に飾ってあった、先祖伝来の刀。毎日のように木刀を振るっていたあたしの腕でもずっしりと重く感じた優美な凶器は、下緒の色に似た鮮やかな鮮血をいとも簡単に人体の中から噴き出させてみせた。
でも、あんなに綺麗な色は、長くはもたない。人体から零れた血液は、空気に触れた傍から酸化してどす黒くなっていく。
あたしが握っていた刀も、すぐにどす黒く変色して、それで、それから……
「……その質問に、正直に答えたら」
あえぐように、あたしは答えていた。
何に溺れているのかは、自分でもよく分からない。
「あたしに何か、メリットはある?」
「俺の説明がスムーズになる」
「それはあんたにとってのメリットじゃない?」
「知っているのといないのとでは、説明の言葉を変える必要性があるだろ」
「もうそれ、花咲の人間が咲夜の片付けに関わってるって断言してるようなものじゃない?」
あたしが切り返すと、男はただ静かにあたしを見つめ返した。感情が見えない、ただただ気だるさだけがある視線、表情、たたずまい。
そこに感情は何もないのに、なぜかその視線を受けたあたしの心はグラグラと煮える。
「……知ってた。だって、花咲の人間が協力しない限り、下手人が花咲の屋敷に入り込めるとは思えないもの」
公家を祖先に持つ花咲の屋敷は大きい。資産家でもあるから、セキュリティだって厳しい。
だから、咲夜が花咲の屋敷の中で、他殺死体で見つかって、かつそれが掃除人による片付けだと聞いた瞬間から、分かっていた。
花咲の人間が、咲夜を片付けモノとして政府に申請したんだって。
「あの日、あたしは、花咲が咲夜を政府に売った理由を糺しに行ったの」
「最初から、殺す目的で訪れたわけではない、と?」
「信じられない? 日本刀持参で行ったくせに、殺意はなかった、なんて」
半分は本当で、半分は嘘。
殺意はあった。だけど、最初から刀を抜きに行ったわけじゃない。
「だって、咲夜が売られた理由は、花咲の人間しか知らないじゃない」
あたしと顔馴染みである花咲の人間は、警戒することなくあたしを屋敷に上げた。咲夜のお父さんである花咲の当主にだって、アポなしで簡単に会うことができた。
だけど、あたしが求めた答えを、花咲の家は用意してはくれなかった。
「つまり、理由を聞き出して、その上で殺すことが目的だった、と?」
「殺害が前提じゃないよ。全てがあたしの勘違いだったならば、殺すつもりはなったんだもの」
用意してはくれなかった。けれど、咲夜を売ったことを、花咲の当主は認めた。
だからあたしは、刀を抜いた。人を殺したことはもちろんなかったけど、日頃から武芸どころか体を動かすことさえ満足にしない人間を殺すことは、思っていた以上に簡単だった。
刃こぼれに気を付けて、刃を一閃。
たったそれだけで、咲夜を殺した一人が死んだ。
あたしはそれから、答えを用意してくれそうなアテを求めて、花咲の屋敷の中を彷徨った。咲夜のお母さん。咲夜のお兄ちゃん、咲夜付だったお手伝いさんに、咲夜の車を運転していた運転手さん。顔馴染みにはみんな会ったし、途中で邪魔をしてくる人間は容赦なく殺した。
でも、何人殺しても、欲しい答えは誰も与えてくれなかった。
なぜ、咲夜は片付けられなければならなかったのか。どうして、咲夜は国に売られたのか。
そんな簡単なことを、誰も教えてくれない。
「花咲以外の人間だって、殺すつもりはなかったの。だって、それ以外に掃除人に会えそうな手段が、何も思いつかなかったんだもん」
花咲の屋敷で、何人殺してしまったのか、あたしは覚えていない。
ただ、絶望していた。全身が返り血でベタベタして、刀身が花咲の人間の血でどす黒く染まっても、誰も答えをくれなかったから。その時にはもう、花咲の中心部にいた人間はみんな消えてしまっていたから、事情を教えてくれそうな人は誰も残っていなかった。
どうすれば、と考えた時に、そういえばって閃いたあたしは、ちょっと天才だったかもしれない。
売買は、人間が二人いないと成り立たない。
もう一人……いや、もうひと組織、理由を知っていそうな存在があるんじゃない? って。
「ただ、やりすぎたかなっとは思ってる。さすがに20人は殺らなくても良かった」
「……花咲の関係者で死者15人、重軽傷者3人。一般人で21人、重軽傷者13人。総計36人死亡、怪我人は16人」
「あっは! 軽く自爆テロ並じゃん」
国家人口管理局。掃除人が片付けモノの傍に任務完遂の証として彼岸花を置いていくことかあらあやかって、通称は『リコリス』。
花咲の要請に従って掃除人を派遣した『リコリス』ならば、咲夜を片付けるに至った理由を知っているはず。さすがに『リコリス』だって理由も分からないまま、ただ要請されたからって理由だけで掃除人を派遣したりしないはずだ。だって『リコリス』は不要な人間を片付けると同時に、有能な人間を生かすっていう役割も負っているんだから。だから、間違って有能な人間を片付けてしまわないように、要請理由はきちんと精査しているはず。
掃除人という存在は、決して公にされていない。『リコリス』だってそう。それも当然だろう。いくら国家の名を背負っていたって、彼らの実態は殺し屋なんだから。だからこっちから掃除人を捕まえに行くことは不可能に近い。
でも、あたしが、冤罪の余地もなく、弁明の余地もない、重罪人だったとしたら?
国が、あたしを置いておく場所すら惜しんで、火急速やかに『あたし』という存在を片付けようと考えたら?
……そしたら、向こうからあたしの目の前に掃除人がやってきてくれるんじゃない? 咲夜が片付けられなければならなかった理由を知っている相手が、あたしの目の前に出てきてくれるんじゃない?
そう考えたあたしは、そのまま花咲の家から一番近い繁華な通りに乗り込んだ。手っ取り早く重罪人になるには、大量殺人が分かりやすくていいかなと思ったから。ちょうど花咲の人間を潰して回った後で全身血塗れだったし、ちょうどいいかなって。
今を生きる人間は、自分が生き残るのに必死すぎて、良くも悪くも周囲を見ていない。だから、全身返り血でベッタベタな酷い状態でも、あたしは誰にも咎められることなく繁華街の、一番人が集まるスクランブル交差点まで行き着くことができた。20人……正確には21人、だっけ? を殺してしまったのも、そんな無関心のせい。だってみんな、すぐ傍らで人が斬り殺されていても気付かないんだもん。悲鳴も上がらないんだから、そりゃあやりすぎちゃうって。
結局、5人近く斬り捨ててからようやく周囲に気付いてもらえたあたしは、21人を殺した時点で警察に取り押さえられた。抵抗する意思は全くなかったんだけど、結構荒っぽく取り押さえられた。そりゃあ向こうから見たら、あたしは全身を返り血で染め上げて日本刀を振り回すシリアルキラーだもんね。取り押さえが手荒くなる理由も分かるけど、でもあれ、本当に荒っぽくて痛かったんだから。
現行犯逮捕、からの、自主的に花咲家のことも喋った。一応取り調べもあったから、そこでようやくあたしは自分の主張を真っ向から口にすることができた。
『花咲咲夜が掃除人に片付けられた理由を知りたい。理由を知っている掃除人を出せ。さもなくば、この場にいる全員を殺す。次に来る人間も殺す。説明してくれる人が、あたしが納得できる理由を開示してくれるまで、あたしは殺す。殺す、殺す殺す殺す殺す殺す』
あたしの主張も、犯行動機も、至ってシンプル。最初から徹頭徹尾、理由はただひとつだけ。
『花咲咲夜が片付けられた理由が知りたい』
あたしは、知りたい。
ただそれだけ。
誰かが言ってた。『たったそれだけの理由でこんなことをしでかすなんて、お前は狂っている』って。
でも、それが何?
あんた達だって、空気がなければ生きていけないでしょ? 空気を求めて死に物狂いで足掻くでしょ? 水がなければ殺し合ってでも水を求めるでしょ? 食べ物を得るためにどんなに醜い争いだって演じるでしょ?
それと同じことじゃない。なのに何で、そんな化け物を見るような目であたしを見るの?
「……なるほど」
ちょっと世間一般よりも武芸の嗜みがあるだけのただの女子高生の主張がどこまで通るかは、正直言って分からなかった。要求が通らなかったら死に物狂いで抵抗する心構えは本当にあったけど、『殺す』って言葉をどこまで実行できたかは分からない。
だけど、あたしの要求は通った。独房から拘束服を着せられた上で連れ出されて、この気が狂いそうなくらい真っ白な部屋に通された時、あたしは小躍りしそうなくらいに嬉しかったんだ。
やっと知れるって。やっと、あたしの元から理不尽に咲夜を奪われた理由を知ることができるんだ、って。
「分かった」
そんなあたしの希望を一心にぶつけられている男は、相変わらず気だるさしか感じられない声でそう言った。
「あんたが何も知らないってことが、分かった」
……その言葉に、煮えたぎった頭が一瞬、凍り付いた。
「……は?」
どういうこと? 『何も知らない』?
いや、あたしは知っている。片付けられる理由なんてなかった、イチミリも瑕疵のない存在理由を持っていた咲夜が、理不尽に片付けられたってこと。家族に売られたんだってこと。掃除人に片付けられたんだってこと。
だからあたしは花咲の人間を片付けた。咲夜を理不尽に片付けた掃除人に会うために、あたしの命を使ってここまで来た。
だって、あたしにとっての咲夜は、あたしの全て。
咲夜こそが、あたしの存在理由、そのものだから。
「花咲咲夜は殺人犯だ。確認が取れているだけで3人。疑惑だけならばそれ以上」
男は、淡々とそう言った。
初めて口を開いた時から一切トーンが変わらない、酷く気だるげな声で。
「花咲の人間は、それを知っていた。最初は、それ以上罪を犯さないように説得し、殺人については隠蔽しようとしたらしい」
気だるげな瞳は、真っ直ぐにあたしに据えられていた。……そう、こんなに全身から気だるさを漂わせているのに、視線だけは妙にあたしからブレない。
「だがその説得が功を奏さず、本人に改心の余地も見えず、今後も殺人を繰り返す可能性があったため、『リコリス』に通報した。事が露見して家名に傷が付くことよりも、片付けモノとして処分する道を選んだんだ」
それは、ヒトを殺す技術を持った者の視線だった。あたしは、それも最初から分かっていた。
こいつはあたしと同年代には見えるけれど、多分、あたしみたいなにわか殺人鬼よりも、よほど、ずっと、ずっと、たくさんのヒトを殺している。
「通報を受けた『リコリス』は事態を重く受け止め、掃除人を派遣した」
「……なん、で」
『なんで』
それは、あたしがずっと口にし続けてきた言葉。ずっと、ずっと、あたしは理由が知りたかった。
だけど今口にした『なんで』だけは、今まで口にしてきた『なんで』とは、含む物が違った。
……なんで。なんで、……なんで。
「咲夜が、人を、殺した……?」
花のように、笑う子だった。
可憐で、温かくて、柔らかくて。
通学鞄より重たい物なんて持ったことないんじゃないかって。幼馴染であるあたしが思っていたくらいの。
そんな咲夜が、……人を、殺していた?
信じられない。だって、世界で一番日だまりが似合う、フワフワした、可愛らしい子で。あんな鉄臭くて、ベタベタしてドロドロした物、咲夜には……
「一人目は、寺内隼人」
男が、どこかで聞いた事がある名前を呟く。
「二人目は、澤口隆成」
混乱で散り散りになっていた意識が、もう一度男に集中する。
その先で、男が三人目の名前を口にした。
「三人目が、膳所典久」
男は三人分の名前を並べると、今度は反対側に首を傾げた。サラリと、髪が滑る音が聞こえたような気がした。
「聞き覚えは?」
……あるに、決まってる。
三人の共通点は、あたし。
三人とも、あたしの婚約者だった人間だ。
婚約者だった……婚約者候補として名前が挙がっていたはずなのに、いつの間にかあたしの日常生活の中から消えていた人間達の名前だった。
「三人とも、花咲の屋敷の敷地内、普段誰も通らない森の中に埋められているらしい」
……それだけで、分かってしまった。
なぜ、咲夜が人殺しなんてしていたのか。説得の余地がなかったのか。再犯の可能性が高かったのか。
「……そっ、かぁ…………」
分かった時、体が震えた。
「咲夜」
自分の顔が、クシャリと歪んだのが分かった。
「……嬉しい」
嬉しくて、嬉しくて、体の震えが止まらない。嬉しくて、嬉しくて、笑み崩れる顔を引き戻すことができない。
きっと『恍惚』って……こういう状態のことを言うんだろうなぁって、……今なら分かる。
「咲夜も、あたしと一緒だったんだねぇ」
あたしには、二人ずつ兄と姉がいる。優秀な兄はどちらも才気にあふれていて、どちらが家を継いでも及川は安泰だと言われてきた。
女に産まれたあたしに課せられた役目は、結婚して他家との縁を取り持つこと。お姉ちゃん達もその役目を果たすために、18歳になるのとほぼ時を同じくして家が決めた嫁ぎ先に嫁いでいった。
そんな家だから、あたしにも随分と早くから『許嫁』という存在が用意されていた。確か、一番最初に『許嫁』と呼ばれる存在と引き合わせられたのは、中学に上がってすぐの頃だったと思う。
イヤだな、とは思っていた。あたしは、咲夜のためだけに存在していたかったから。だけど、二人の姉が従った家の方針に否と言える度胸もなくて、18歳まで時間があったのをいいことに、あまりそのことに真剣に向き合おうとはしてこなかった。
『ねぇ、美南』
及川の家のそんな事情を、もちろん咲夜は知っていた。
だけど、そのことについて訊かれたのは、たた一度だけ。
『美南はこういうの、イヤじゃないの?』
初めて許嫁と顔を合わせることになった、中学一年生の、初夏のこと。
いつものように週末恒例のお出掛けの約束をしようとする咲夜に、そういう事情で今週末は一緒にいられないのだと、説明した時のこと。
……今でも、覚えている。
学校帰り。迎えが来ようとするのを咲夜は『美南がいるなら安全だから』と断って、いつも二人だけで一緒に並んで歩いて帰っていた。
街路樹の木陰の下。新緑の影に入ってあたしを振り返った咲夜は、どこか新緑が作る以上の影を帯びていたような気がして。
『イヤに決まってる。あたしは、いつだって、いつまでだって、咲夜と一緒にいたい』
週末を気が乗らない事情で潰されなければならないことも。いつか咲夜と離れ離れにならなきゃいけない未来が来ることも。
イヤで、イヤで、仕方がなかった。
それが、あたしの偽らざる本音で、それは今でも変わっていない。
『……そっか』
そんなあたしの声に、咲夜はとろけるように甘く笑ってくれたんだ。
『……嬉しい』
……それからしばらくして、あたしは『許嫁』という言葉も、相手の名前も聞かなくなった。
次に『許嫁』という言葉を聞いたのは中学二年生の冬で、名前は違う人間のものに変わっていた。でもその相手には結局会うことはなくて、次の名前に変わった時も、直接会うよりも早く『許嫁』という言葉を聞くことがなくなった。
……今なら、何が起こっていたのかが分かる。
殺していたんだ。咲夜からあたしを奪い取ろうとする相手を、全部咲夜が殺していたんだ。
そしてこれからもずっと、殺していくつもりだったんだ。
あたしの婚約者として名前が挙がる男は、全員。
……ねぇ、咲夜。どんな顔をして殺していたの?
笑っていた? 泣いていた? もしかして、怒っていたのかな?
あの白い手を、あたしの体をベッタリ濡らしたあの鮮血で染めたのかな。通学鞄より重たい物なんて持ったことがない細腕で、どうやって自分よりガタイのいい男達を殺してきたんだろう。あたしでさえ知らなかった許嫁候補達の名前を、一体どうやって調べていたんだろう。
あぁ、咲夜。ねぇ、咲夜。
男を殺す時、あたしみたいに、胸を、頭を、あたしのことで一杯にしてくれた?
世界にはあたしだけがいればいいって。あたしの世界には咲夜だけがいてくれればいいって。
咲夜も、そう思ってくれてた?
「花咲咲夜について、こちらが把握している情報は以上だ」
今のあたしはきっと、酷くはしたない表情をしているだろう。それでも一切表情を変えることなく、男はただ気だるげに言葉を続ける。
「そしてここからは、花咲咲夜を片付けた掃除人、『椿』として」
それでも、どれだけ言葉に鋭さがなくても、心を抉る言葉があるのだと、あたしはこの時になって知る。
「預かっている、伝言がある」
『花咲咲夜を片付けた掃除人』『預かっている伝言』
その言葉に揺さぶられた心が抱いた感情は、一体何だったんだろう。
咲夜を殺した相手を目の前にした怒り。咲夜からの最期の言葉を切望する、祈りにも似た何か。咲夜の命を断った凶器と同じ凶器で逝ける喜び。
「『美南』」
あるいは、生命の最期を前にした、生存本能。
「『あの世で、待ってる』」
拘束されていることも忘れて、体は前に出ようと暴れた。
その時になって、ようやく男がもたれていたドアから背を離した。一歩、足が前に出るのが見える。
その瞬間、ヒュンッと、耳元で風が鳴いた。男の喉笛に噛み付こうとした勢いのまま首が抜けて、コロリ、コロリと視線が落ちていく。
最期に見上げた先では首から上がないあたしの体が今でも拘束から抜け出そうと暴れていて、スイッと柔らかく振り抜かれた刃が、チンッと静かに鞘に納められていた。
「……理解に苦しむ、と言ったが、訂正する」
革靴の足音も立てないまま、男はあたしの体とすれ違うように真っ直ぐ部屋の奥へと進んでいく。視界を動かす自由を失ってしまったあたしは、どこからともなく響く男の声を、どこか散漫な思考の中で聞いていた。
「『ただ一人』のために命を懸ける狂気。……そこには、共感できる」
そんなあたしの視界を彩るかのように、数秒遅れて深紅の花が咲く。
その光景と男の言葉に、あたしはどこか満足して瞳を閉じた。