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積もる雪と溶ける想いと

作者: 由季

「雪の匂いがするね」


 いつもの口癖だ。冬になって、雪が降るとすぐそう言う。小学生のときから雪の匂いがするって、頬を赤く染めていた。しかし、今は教室で、室内だ。誰もいなくなった教室は確かに寒いが、雪なんてない。それでも美沙は雪の匂いだと微笑む。外にはうっすらと雪が積もっていた。


「いつもいうけどなんなんだよ、雪の匂いって」

「ええ、わからない?このキーンとする感じ」

「寒いのは分かるけど……」

「こう、吸い込むとさ、肺がキーンってする匂いって言うのかな」


 きっと絢太はセンスがないんだよ、とニヤリと微笑むとノートに目を落とす。明日の課題をやっていた。片手に辞書を持って英語の単語をゆっくりと調べている。誰もいないからとストーブが消された教室はまるで外のように寒く、マフラーを巻きながらペンを進めていた。伏せた目から伸びる長い睫毛は綺麗だった。


「絢太は委員会のしごと?」

「えっ」


 じいっと見つめていた睫毛が突然、自分を見つめたから肩を跳ねさせ、目をそらしてしまう。この心臓の鼓動が、聞こえていないことを願った。


「ん?」

「……そう、委員会。日報かいて、終わり」

「そうかそうか」


 ふんふん、と頷く。もしかして、自分が終わるのを待ってくれているのだろうか。小さな手が丁寧に辞書の薄い紙をめくっている。指先がすこし赤くなっているから、触らなくとも冷たいのだと分かる。

 首に巻いた緑のマフラーに口元を埋めているから、声がこもっていた。


「……すぐ終わらそ」

「えー、どうして?」

「どうしてって」


 お前が寒いからだろ、とは何だか気恥ずかしくって言えなかった。俺はもっとこの時間が続いてもいいけど、なんて言ったらは美沙は、私は早く帰りたいー、なんて言うに違いない。鈍感さは、成長するに従って加速してる気がする。


「絢太、カイロいる?」

「いや、お前の方が寒いだろ」

「いーよいーよ、あげる」

「ありがと……ってもう終わりかけじゃん」

「ふふふ」

「ゴミ押し付けるなよな」


 あったかいでしょ、と手に乗せられたカイロは、中の砂がもうカチカチに固まりつつあった。ぐいぐいとおして何とか砂状になったものの、もう冷たい手をあったかくするほどの力は残ってなかった。


「ああほら。もう、日報進まないだろー」

「よきかなよきかな」

「その課題、いま終わらすの?」

「いや、別に終わらせなくても大丈夫」


 ぬふふ、と訳の分からない笑い声がマフラーから漏れる。なんだその笑い声は、とノートを見ると丸っこい字の英語が並んでいる。なんだか、高校になってから、ザ・女子高生という字になったな、と思った。


「……ここ、スペル間違ってる」

「ん〜、ああここ!ほんとだ」

「あとこれ」

「わーたくさん」

「わーたくさん、じゃなくて……せっかく丁寧にしてるんだからミス無くせよな」


 見慣れた消しゴムで、スペルを消していく。消しかすをペッペッと払うと、細いシャーペンで正しいスペルを綴っていく。


「さすが秀才さんだねぇ」

「……ありがと」

「小学校の時から頭いいもんね、絢太は」

「美沙は変わらず鈍感」


 え〜なにそれ〜、とフニャリと笑う。それにつられてふふ、と自分も笑う。この時間が、永遠に続けばいいと思った。


「今回のテスト、何位だった?今日順位でたでしょ?」

「学年?」

「学年」

「2位」


 美沙はピタッと手を止めた。なんだと顔を上げてみると、わあ、と言う顔で止まっていた。


「すご〜いじゃん」

「……1位じゃないから」

「何言ってんの、じゃあわたしどうなんの」

「美沙は何位だったの」

「……いいでしょ、私のは」

「あからさまに避けて……」


 さすが、すごいすごい、とパチパチと手を叩いた。どうせ家に帰れば何故1位じゃないんだと責められる順位だ。毎回こうして、誰もいない教室でパチパチと鳴らされる拍手のために頑張っているといって過言ではなかった。

 鼻を赤くして、にこやかに笑いながら小さな手を叩く光景はこれからも見たい。心がほわっとあったかくなる笑顔を、いつも横で見ていた。


「……あのさ」

「あ!野球部の練習終わったかな?」


 窓ガラスの下に目をやると、坊主頭の男たちがワラワラと集まっていた。あの騒がしい感じのノリが、俺は苦手だ。外は相当寒いのだろう、口からは白い息が出ている。

 寒い中良くやる、と適当に目をやると美沙が辞書やノートを片付け始める。もう暗くなったガラスを鏡にして、ぴょんぴょんと飛び出た髪を急いで撫でてしまっていく。


「なに、帰るの?」

「ん?んふふ、うん」


 自分の手の下には、まだ真っ白の日報があった。ブラザーのポケットからほんのり色づいたリップを出して、また窓ガラスを見ながら唇に付ける。


「ふふふ、絢太、あのね」


 髪を整えて、唇がほんのり赤くなった美沙は短く息を漏らしてしまうほど可愛かった。


 でも、何となくわかってしまった。ほんのり絶望の音がする。その小さな口から出る言葉が、はやく日報を終わらして帰ろう、であってくれと願った。


 だってあの集団の中に、美沙がかっこいいと言っていた奴がいたから



「蓮くんと、付き合うことになったの」


 寒さからではなくて、きっとときめきからの頬の色付きは見たことがなかった。ふんわりと微笑む美沙は、きっとこんな状況でなければ呑気にうっとりと見たいと思うだろう。マフラーに巻き込まれた髪の毛が可愛かった。


「……へえ」

「ええっそれだけ?」

「まあ、せいぜい振られないようにしなよ、蓮……野球部のエースなんだから」


 散々俺はお前に褒められたのに、こんな時くらい笑顔で、おめでとうと言える器でありたかった。


「もう、やなこと言わないでよ!」

「ほら、はやく行けよ」

「もー、絢太も早く帰りなよ〜」


 じゃあね、とドアを閉めると、教室に1人になった。美沙にもらったカイロはもう冷たくなっている。


 何分ぼーっとしたのか、窓の下をみるともう美沙が野球部の集まりに駆け寄っていた。声こそ聞こえないが、ワイワイとする喋り声が美沙と蓮を囃し立てる様子だった。

 集団の中から押されるように出た蓮は、美沙に話しかけると2人揃って歩いていく。たまに振り返ってヤメろと笑うアイツは男ながらにイケメンだと思った。思いたくもないが。少し照れながらもくっつく2人の背中を、小さくなるまで見た。


「あーあ……」


 俺は、おめでとう、幸せになれよ、なんて言えるやつじゃなかった。嫌なやつだ。嘘でも言えなかった。なんであいつなんだろうか。そんなこと考えなくても答えはすぐ出た。優しく文武両道、しかも顔さえいい。嫌いになるやつなんていないんだ。俺以外。


「バカだな」


 一瞬でも、おれの日報を待ってくれてるのかも、なんて考えたのが恥ずかしい。100%自分の希望だったのだ。今思えば、一緒に帰る気分の高揚から沢山スペルを間違えたのかな。それを得意げに指摘してなんて、なんて馬鹿らしい。

 先に告白していればよかったのか?いや、好きな人がいるんだと言われていて、告白なんてできるわけなかった。そういう度胸が、ダメなんだと思うけれど。


「はあ……」


 きっと美沙の、雪の匂い、は青春の匂いになるんだろう。後ろから部員に囃し立てられ、気恥ずかしくなりながらも嬉しい匂いになるんだ。肺に入って体を冷たくする雪の匂いは、照れて火照った体を冷やしてくれる気持ちいい空気になるのかな。他のやつに向けるそんな顔、考えたくもないけれど。


 あいつは、蓮は、美沙の「雪の匂い」を分かってやれるのかな。俺は分かってやれなかった。なんだそれ、とずっと笑っていたかったから。

 ああ、雪の匂いを理解するから隣にいてくれよなんて、男らしくないよな。

 別れてもきっと懐かしい綺麗な恋の思い出として残るはずだ。大学生なんかになった時、エモい、なんていう匂いになるはずだ。


 別れて、泣かせることは俺が許さないけど。


 誰もいなくなった教室の空気を、スウ、と肺いっぱいに入れる。冷たさと沈黙と、遠くの喧騒が体に染みる。


「俺はまだ雪の匂いのままだよ」


 目から溢れた涙は、すぐに冷えた。

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