第一章『誘拐-4』
不思議なことに、トイレに入った瞬間に痛みは消え、代わりに奇妙な排泄欲のようなものが湧いてきた。この際すべて出してすっきりしようと思い、ワンピースをたくし上げてパンツを下ろし、ポジションに着く。後は踏ん張るだけだ。この排便の前の何とも言えない昂揚感は、何度経験しても飽きないものだ。
腹に力を入れてしばらくすると、ぽんっという小気味良い音と共にブツが排出された。やれやれ、これでようやく話に集中できる。
「それは承諾致しかねますね。あなたは唐薙智久に任務について相談するべきではない」
そう、僕は友久に相談するべきではない。僕に与えられた課題を他人に押し付けては――
「……ん? 何だ、今のは。誰かいるのか?」
「それは難しい質問です。私は確かに存在しますが、この場にいるわけではありません」
声はどうやら僕の股の下から聞こえてきているようだ。股の下にあるものと言えば便器と排泄物くらいしかないが、さすがに後者であることは考えたくないので、僕はこの謎の声を便器であると仮定して話を続けることにした。
「へえ、君は中々詩人だねえ。ところで僕が友久に任務について話してはいけないっていうのはなぜなんだ? というか、なぜ君がそんなことを知っているんだ?」
「私は常にあなたと共にいます。あなたが何を考え、何をするのかを記録するのが私の役割ですから」
便器にストーカーされるとは何という奇怪な人生であることか。というか、便器って固定されているよな。
「とにかく、他者に善悪の判断を委ねることは契約違反です。どんな行動を選択するかはあなた自身が決めてください。それと、唐薙友久に条件を付けなかったのも契約違反です。即刻プログラムを訂正してください」
「……さっきから何の話をしているんだ? それと契約とは何のことだい?」
「私が話しているのはラトリア商会との倫理実験契約についてです。契約とはあなたが実験を行う際の条件を規定したものです。お読みにならなかったのですか?」
「ふむ……僕は説明書だとか契約書だとかいう存在は無視することにしているんだ。だって面倒くさいんだもん」
「だもん……じゃないですよ! さっきから契約違反の警告アラームが鳴りっぱなしで困っているのです! しっかりと契約通りに実験を行ってください!」
なぜか便器の声はだんだんと怒りを帯びてきた。便器のくせに意外と感情豊かなんだな。
「だから私は便器ではありません! 私は炭素繊維製生体融合型人工生命体弐型端末、個体名はピオリー・シュタルツナイトです!」
「……そうか、なるほどよくわかったよ。ところでぴーちゃん、ナノマシンというのは便器に化けるくせでもあるのか?」
「だから私は今便器の形状をしておりませ……って何ですかぴーちゃんとは! 勝手にあだ名をつけないで頂けませんか」
「あだ名をつけてはいけないという契約は交わしていない。ゆえに僕には君に然るべきあだ名を付ける権利があるのさ」
「くっ……! 倫理協定第二四条を持ち出すとは!」
「ふふ、君もまだまだぴよっこだね」
何だろう倫理協定って。まあここは話を合わせておこう。
「知らなかったのですか! はあ……なぜでしょう、あなたと話しているととても疲れます」
「それは仕方がないね。僕と話していて疲れないのは、逆に僕を疲れさせる人間だけだ」
「なるほど……一理あります」
「それで? 早く姿を見せてくれないか。見えない便器と話すのはおかしな気分になる」
「……では可愛らしいお尻をどけてそこを空けて頂けますか。ちなみにあなたは通常の排泄物を排出していませんので、お尻を拭く必要はございません」
僕がなぜかものすごく卑猥に聞こえるその指示に従って立ち上がってパンツを装着すると、便器の中から小さい幼女が便座の上に這い上がってきた。いや比喩表現の類ではなく言葉通りに小さい幼女だ。身長にして十センチほどの素っ裸の女の子。それ以外に形容の仕様がない。
「へえ、ナノマシンってのは小人にも化けられるのか。本体は僕の中にいるわけ?」
「はい、その通りです。この姿はできる限り警戒されないような形態を選択しただけです。ご要望があれば変えますが」
「ふーん、じゃあ金髪碧眼のメイド服を着た少女がいいなあ」
「了解しました」
……え、了解したの?
僕が戸惑っている中、ぴーちゃんは自らの体をぐにゃぐにゃと変形させ、注文通りの姿となった。金色の髪に緑の瞳。体つきは若干成長し、年頃としては第二次性徴が始まった時期だろうか。わずかに胸の膨らみも見て取れる。そして身に纏う白いエプロンドレスとカチューシャは、確かに要望通りのメイド服だ。……ただし、大きさは軒並み十分の一以下だが。
「へえ、本当に姿を好きなように変えられるんだねえ。できれば実寸大のメイドさんが欲しかったけど」
「文句をおっしゃらないでください。あなたとの生体適合率ではこの大きさの遠隔操作が限度です。私は自己を保つために、必要以上の生体分裂を行いません。自我領域が崩壊してしまいますから」
「……はあ。よくわからないけど、ぴーちゃんがぴーちゃんじゃなくなってしまうということかな」
「要約するとそういうことになります。自我を失ったナノマシンなど天災以外の何物でもないですから」
「なるほどねえ」
実寸大のメイドさんはもうしばらく我慢するしかないようだ。それにしてもまさかロボットがキャラ付けを行ってくるとは。日本の擬人文化にも困ったものだ。
「日本文化との接点はあなたを通して反映されたものです。原因を上げるのならばあなたの趣味にあります」
メタ的な表現にも口を出してくるとは、いやはやメイドさんは恐ろしい。
「あなたと話していると横道に逸れていくばかりですね。本題に入りましょう。あなたに与えられた任務を達成するのに、他者の価値判断を利用することはできません。あなた自身が良いと思ったこと、もしくは悪いと思ったことを行うことが契約条件です。まあ最も、行為の際に他者が関わってはいけないという意味ではございません。あくまで価値判断のみをあなたが行えばよいのです。その証拠に、先ほどもしっかりとカウントされていたようですし」
そう言いつつ、ぴーちゃんは僕の左手の方を指差した。まさかと思い左手を確認してみると、『right』の横の文字が『2』に変化していた。状況から考えるに友久との行為がカウントされたということだろう。
「ちなみに詳細を説明すると、あなたに好意を抱いている唐薙友久に対する接吻行為が――」
「ちぇすとお!」
僕の神速を誇る手刀が、ぴーちゃんの小さな頭部にジャストヒットした。べしゃりという少々不快な効果音と共に、ぴーちゃんはスライムのごとく形状になり便器にへばりついた。これ以上は僕の精神衛生上深刻なダメージが発生する可能性がある。これは仕方がないことなのだ。許せぴーちゃん、君のことは忘れない。
「……勝手に殺さないで頂けますか」
いつの間にか再生していたぴーちゃんが、むすっとしたような表情でこちらを見つめていた。形状変化自在というのは伊達ではないようだ。
「感情に任せているようでいて裏で私の機能を試すとは。中々に侮りがたいお方のようですね」
「ふふ、なめてもらっては困るな。僕はあほみたいに見えてくそ真面目にあほなことをやる人間であると専らの評判だ」
「結局あほなのですね。それよりそろそろ戻った方がよろしいのでは? 不自然に思われるかも――いや、あの方なら私の存在を知られても特に問題はないですね。彼も準契約者ですから」
「んー、でも今ぴーちゃんを紹介したら友久はさらに混乱しちゃうだろうから、紹介するのはまた今度の方がいいかな」
「そうですか。では私も然るべき形態を取りましょう」
再び形態を変化させてよくわからない形になったぴーちゃんは、やがて真っ赤な薔薇の髪飾りへと体を変えた。
「……えっと、それをどうしろと?」
『髪飾りは髪につけるものですよ、しげる様』
僕の頭の中で、ぴーちゃんのものと思われる声が聞こえた。いや正確に例えるならば、鼓膜を直接振動させられている、といった感じだろうか。
『ご明察です。私はあなたの全身に存在致しますので、鼓膜を振動させるくらい容易いことです』
「ふーん。しかし僕は――」
『あなたの信念は理解していますが、そのお召し物に似合うものをあつらえようかと』
「ふむむ……まあ仕方がないか」
『それと、先ほどの話はよろしいですか?』
「僕が僕自身のアイデアで行動する限り、他人の手を借りてもいい、ということかい?」
『ご理解が早いようで何よりです。では何かあればお呼びください』
「ほーい」
まあ何かなくても呼ぶけどね。ぴーちゃん弄るの面白いし。