心の穴
本編の始まりです。
*
「何、見てんだよ……」
火をつける前の煙草を片手に、ポケットに左手を突っ込んで、ライターを探す。自分が思っていたよりも大分低い声が出て、少しだけ驚いた。
最近は無償に腹が立つことが多くて、僕を真っ直ぐに見つめている目の前に居る少女にさえ、腹が立った。歳を重ねるにつれ、短気になっているのかもしれない。ただ、カルシウム不足なだけか……。
少女は僕の低い声に怯むこと無く、僕に向かって微笑みかけたあとに、ゆっくりとした優しい口調で言葉を紡いだ。
「知り合いに、似てたから」その後すぐに、くるりと僕に背をむけ甘い香りを撒き散らしながら去っていった。
僕はその姿を、煙草に火をつけるのも忘れて見送った。
――なんだか、煙草を吸う気にならない。
英語のロゴが印刷されている洒落た箱に、煙草をなおす。そして、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「あっれー? 彼方じゃない? マジ久しぶりじゃーん!」
女性独特の甲高い声を上げて、冬だと言うのに露出度の高い服を着た女が僕の首に指を這わした。突然、僕の胸に飛び込んできたかと思えば、急所の首筋に噛みつこうとする。人通りの少ない路地とはいえ、人の目が気になった。
初めから黒なんて無かったかのように脱色された髪に、真っ赤な口紅で縁取られた唇。睫毛には小さな宝石のようなものが散らばっていた。瞬きをする度に、音を立てそうなほど睫毛は太く、一本一本が力強く上を向いていた。
元はきっと、……いや絶対悪くないのに、歳の割りには厚化粧というか、年齢が随分、老けて見える。
「……うん、久しぶり」
這わされた手をなるべく自然に見えるように離してから、さっきなおしたばかりの煙草を取り出し、火をつけた。煙を思い切り吸い込んで、肺に送り込む。
必要以上に喋りたくなくて、煙草を口に銜える。ニコチンを多く含んだ煙を吸い込んで、時間をかけて吐き出す。煙によって僕の肺は汚されていく。
「今日、家に来ない? 久しぶりにさぁ」
――……僕はこの女と夜を共にしたことがあった、のかな。
羽のように散って行く煙草の煙を見つめながら、僕は視線を地面に落とす。なぜか、女を直視することが躊躇われた。
何も無い生活に、刺激を求めていた僕は昔、“彼方”と言う源氏名を使ってホストのバイトをやっていた。僕を彼方と呼んでいるからきっと、そのころの客だったんだろう。
つまらない生活から抜け出すために、たどり着いた夜の歓楽街は、僕が思っていた以上に面倒で、美しかった。
僕の心のどこかに開いた穴は、風通りが良く僕の心をすっかりと冷たくさせた。最近は、感情が麻痺してしまうほど冷えてしまっている。
「今日は、どこかに行く用事があるの?」
推測するに女は十代後半から、二十代前半くらいだと思われる。化粧をしているせいで年齢を特定することが出来ない。
いちいち、抱いた女の名前と年齢を覚えているなんて、僕の足りない頭じゃ到底無理なこと。 ――それに、そんな面倒なことやりたくない。
「……別に、無いけど」
ため息と同時に言葉が零れた。僕がそう答えると、女は満足そうに微笑って「じゃ、行こっ!」と僕の腕に自分の細い腕を絡めた。
女は自分の話を息をする暇も無いくらい話し続けた。ホストを数ヶ月やっていただけあって、タイミングを外さないように相槌を打つことくらいは出来るし、妙に観察力が鋭くなった気もする。
精一杯の寂しさを言葉を使って、表現している彼女を僕はうざったく思う反面、羨ましく思った。僕にはそんなことなんて、出来なかったから。
幼いころから、感情を表に出すことなんて許されない環境にあったし、喜怒哀楽の感情を持つことなんて、あまり無かった気がした。
――寂しい人から、金を取るのは悪いことなんだろうか。
ホストをしていた頃、心の中に沸いた疑問。歓楽街へ、癒しを求めてやってくる女たちはみんな……寂しい人だった。
「その辺の男、引っ掛けて連れてくるつもりだったからさ。部屋、結構片付いているっしょ?」
居間のある部屋のドアを開けて、彼女は僕の方を振り向いた。僕は適当に相槌を打つ。彼女にとって、これが片付いていると言うんだろう。
テーブルの上に、適当に置かれた開きっぱなしの雑誌。飲みかけのコーヒーが入った、ハートが付いたマグカップ。化粧台は、あけっぱなしでファンデーションやら、口紅やらが溢れていた。
「適当に、座ってよ。コーヒー位は、出すからさ」
そういって、手際よく彼女は暖房にスイッチを入れた。暖房の起動音が、僕の耳に届いて思わず僕は、暖房の前へ手をあてる。殺風景な自分の部屋とは違って、彼女の部屋は物が溢れかえっていた。
「何やってんの」と微笑しながら、女は僕にさっき淹れていたコーヒーを差し出した。
砂糖をスティックの半分入れて、可愛らしい金の小さなスプーンでかき混ぜる。僕の様子を見て、女は笑っていた。
「何で、笑ってるの?」
いきなり僕が自分から口をきいたせいか、彼女は驚いたように目を見開いて、数回瞬きをしてから微笑んで答える。
「彼方が可愛いから」
僕はよく女性に可愛いとか言われるけど、それは褒め言葉じゃない。どちらかというと、褒めの部類じゃなくて、貶しの部類に入る。
女性は可愛い、男性は格好良い。そういうものじゃ、ないんだろうか。……まぁ、どうでもいいけど。
「……そう」
コーヒーカップを口に運んだ。コーヒーが喉を潤していく。ほろ苦いコーヒーの味と、香りがゆっくりと僕にしみこんでいく気がした。
女は僕の髪に手を伸ばす。細くて長い、女の指が僕の髪の毛に絡まる。
「染めないの? 真っ黒じゃん」
自分の髪と比べるように、女は僕の髪を見つめながら言う。僕はその様子をじっと見つめていた。いい加減に、彼女の名前を思い出さないとやばいな、と感じていた僕は、部屋の中で手がかりになるものが無いか、彼女に悟られないように視線で探した。
「染めない。これから、特に染める予定も無い」
相変わらず素っ気無いなぁ、と彼女は苦笑して僕の髪から手を離した。やっと開放された髪にそっと触れる。コーヒー豆を噛んだような、苦味が口の中いっぱいに広がった。




