表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

恋愛系

婚約者の熱視線、隠された真実

掲載日:2026/08/01

第一章


王立学園の大広間に響く華やかな管弦楽の調べも、今の私にとっては冷たい風のように胸を吹き抜けていくだけだった。


私、セレスティア・ヴァルハイトは、壁際に置かれたソファーに浅く腰掛け、手に持ったグラスの果汁に映る自分の顔を見つめていた。


美しいドレス。完璧に結い上げられた金髪。ヴァルハイト公爵家の令嬢として、そしてこの国の王太子の婚約者として、何一つ欠けたところのない装いをしているはずだ。


けれど、胸の奥に開いた大きな穴は、どんな豪華な宝石でも埋めることはできない。


視線の先には、私の婚約者であるカルロス・グランヴェル殿下の姿があった。


漆黒の髪に、湖のように深い青の瞳。立ち振る舞いは優雅そのもので、周囲の貴族たちと朗らかに歓談している。まさに理想の次期国王像そのものだ。


しかし、彼の視線は——ほんの一瞬の隙を見ては、会場の少し離れた位置に立つ一人の少女へと向けられていた。


桃色の髪を揺らし、慣れない手つきでグラスを持つ少女。

男爵家の令嬢、クロエ・ミルフィ。


カルロス殿下の瞳は、吸い寄せられるようにしてクロエ様を追っている。

その眼差しは真剣で、どこか焦燥すら孕んでいるように見えた。


(……ああ、やっぱり。今日もなのだわ)


胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


殿下がクロエ様をあのように見つめるようになったのは、およそ一ヶ月前のことだ。

学園の庭園で偶然すれ違って以来、殿下はどこにいても、クロエ様の姿を探し、一度捉えると片時も目を離さなくなった。


「セレスティア様、お顔色が優れませんわね。少しお休みになられては?」


声をかけてきたのは、私の友人である伯爵令嬢だった。彼女の視線もまた、カルロス殿下と、その視線の先にいるクロエ様を交互に往復している。


その瞳に浮かんでいるのは、同情と哀れみだ。


「いいえ、大丈夫ですわ。少し考え事をしていただけです」


微笑んで見せたものの、引きつった笑顔にしかなっていないことは自分でも分かっていた。


「殿下は……その、相変わらずですのね」


友人は言葉を濁したが、言いたいことはよく分かっていた。

今や学園内、そして社交界の一部でも噂になっているのだ。

『氷の如く完璧な王太子殿下が、しがない男爵令嬢に心を奪われている』と。


殿下は、私に対して冷たくなったわけではない。

むしろ、婚約者としての対応は完璧だった。


エスコートの手はいつでも温かく優しく、体調を気遣う言葉を絶やさず、記念日には心のこもった贈り物を届けてくれる。ダンスを申し込むのも、いつでも私が最初だ。


……けれど、だからこそ辛いのだ。


殿下の私に対する優しさは、愛ではなく『義務感』なのだと分かってしまうから。


ヴァルハイト公爵家の力を背景に持ち、幼少期から「未来の王妃」として教育を受けてきた私を傷つけないよう、殿下は誠実であろうとしてくれているだけなのだ。


本当の心は、あの男爵令嬢に向けられているというのに。


ふと視線を戻すと、クロエ様が殿下の視線に気づいたようだった。

彼女は頬をぽっと赤らめると、嬉しそうに胸元に手を当て、少し上目遣いで殿下を見つめ返した。


その瞬間、カルロス殿下の眉間にうっすらと皺が寄った。

強い感情を堪えるかのように、彼の手元にあるグラスを握る指に力が入る。


(……そんなに、愛おしいのですか、殿下)


言葉にならない悲鳴が、喉の奥で消えた。


私には見せたこともないような、激しくも切切とした熱い視線。

殿下がどれほどあの少女に心を囚われているのか、嫌というほど伝わってくる。


「失礼するよ、セレスティア」


不意に低い声が耳元に届き、ハッとして顔を上げた。

いつの間にか歓談を終えたカルロス殿下が、私の隣に立っていた。


「殿下……」


「顔色が悪いように見えるが、気分でも悪いのか? 無理をして宴に付き合う必要はないんだよ」


殿下は身をかがめ、私の頬に優しく手を添えてくれた。

その瞳には、心底から私を心配する色が浮かんでいる。


(どうして……どうしてそんなに優しい顔をなさるのですか?)


もし殿心が私から離れているのなら、いっそ冷たくしてくれたほうが諦めもつくのに。

完璧な婚約者として振る舞い続ける殿下の誠実さが、今の私には刃のように鋭く刺さった。


「いえ、大丈夫でございます、殿下。少し……考え事をしていただけで」


「そうか。だが、何か悩みがあるのならいつでも言ってほしい。私は君の婚約者なのだから」


殿下はそう言って穏やかに微笑んだ。

しかし、会話の合間にも、殿下の青い瞳はちらりと会場の隅——クロエ様の方へと向けられていた。


その瞬間、私の胸の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。


殿下は優しい。

優しすぎて、ご自身の本当の気持ちを押し殺し、私との婚約という『義務』を果たそうとしてくださっている。


打破できない現状に未来はあるのだろうか?

私が殿下の隣に居座り続けることで、殿下から本当の幸せを奪っているのではないだろうか?


(私から……身を引かなければ)


殿下の本当の笑顔を取り戻すために。

私が、この愛を手放す決意をしなければならないのだと、私は固く目を閉じたのだった。




第二章


学園の放課後、図書室のテラス席に心地よい風が吹き抜けていた。

普段ならお気に入りの読書スペースであるはずのその場所で、私は一枚の便せんを前に何度もペンを止めていた。


婚約辞退の申入れ書。


一度言葉にしてしまえば、もう二度と元には戻れない。

幼い頃からカルロス殿下の隣に立つために受けてきた厳しい妃教育も、殿下と一緒に歩んだ思い出も、すべてを自分から手放すことになる。


(これで……いいのよね)


ペンを握る指先がかすかに震える。


あの舞踏会の日からというもの、二人の関係は周囲から見ても明らかなほど変化していた。


カルロス殿下は相変わらず私に対して紳士的で、放課後にはこうして様子を見に来てくれたり、私の好きな菓子を用意してくれたりする。しかし、その優しさの裏で、殿下の視線は常に別の場所を追い続けていた。


学園の廊下ですれ違うとき、中庭で歓談しているとき、果ては講義の最中ですら。

殿下は少しでもクロエ様が視界に入ると、会話を止め、食い入るように彼女を見つめるのだ。


その熱烈とも言える視線に、周囲の貴族たちの見方も変わり始めていた。


「やはり殿下は、あの男爵令嬢に夢中なのね」

「ヴァルハイト公爵令嬢もお可哀想に。お二人並んでいる姿は完璧だったけれど、恋心には勝てなかったのね」


ヒソヒソと交わされる囁き声が、毎日私の耳に届く。

そして何より、視線を受けている当人であるクロエ・ミルフィ様の変化は目覚ましかった。


最初は殿下の視線に照れ戸惑っていただけの控えめな少女だった。しかし、日が経つにつれて『王太子の特別な存在』として扱われる快感に目覚めてしまったらしい。


ある日、私がサロンで他の令嬢たちとお茶をしていたときのことだ。


「失礼しますわ、セレスティア様」


ノックもそこそこにサロンの扉を開けて入ってきたのは、華やかなドレスに身を包んだクロエ様だった。男爵家の身分では到底手が届かないはずの、上質な絹とレースを使った仕立てだ。


「クロエ様? ここは高等部のサロンですが……何かご用でしょうか?」


私が尋ねると、クロエ様は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、胸を張って歩み寄ってきた。


「カルロス殿下から『体調に気をつけなさい』と素敵なお言葉をいただきましたの。殿下はいつも私を心配そうにじーっと見つめてくださるでしょう? あまりに視線が熱くて、私、どうしていいか分からなくて……」


サロンにいた他の令嬢たちが一斉に息をのんだ。

婚約者である私の前で、堂々と殿下との親密さを誇示する行為。本来ならば不敬罪に問われかねない無礼さだ。


しかし、クロエ様はどこ吹く風といった様子で、首をかしげて見せた。


「セレスティア様、お辛くはありませんの? 殿下のお気持ちがもう自分にないとお分かりなのに、無理をして婚約者の座にしがみつくなんて……同じ女性として、少しお可哀想になってしまって」


「クロエ様、言葉が過ぎますわ!」


友人の令嬢が立ち上がって咎めたが、クロエ様はくすくすと笑うだけだった。


「だって事実でしょう? 殿下は私から目を離せないのですもの。どれほど離れていても、私のことを見つけてくださるわ。これはもう、運命の恋以外の何ものでもないわ!」


(運命の……恋……)


その言葉が、私の胸に重く突き刺さった。


確かに、殿下のあの視線はただ事ではない。

誰がどう見ても、執着と情熱に満ちた眼差しだ。

殿下が私に向ける、丁寧で静かな視線とはまるで違う。


「……私の心配をしていただく必要はありませんわ、クロエ様」


私は努めて平静を保ち、優雅にティーカップを置いた。


「殿下のお気持ちがどこにあるのか、それを確かめるのは私と殿下のお問題です。貴女が口を挟むことではありません」


「ふん、強がりをおっしゃって。いつまでその高貴な態度を保てるかしらね」


クロエ様はひらひらと手を振ると、満足そうにサロンを去っていった。


彼女が去った後、サロンには気まずい沈黙が流れた。

誰もが私に同情の視線を向けている。それが何よりも惨ろしかった。


(殿下……私はもう、限界です……)


自分の部屋に戻り、一人になったときに溢れ出た涙を思い出す。


殿下が私を嫌いになったわけではないと分かっている。

けれど、殿下の心が他の女性に囚われているのを知りながら、何事もないかのように微笑み続けることは、私の誇りが許さなかった。


何より、大好きな殿下には、ご自身の心に正直に生きてほしかった。

王家の都合や政治的な思惑に縛られ、本当に愛する人を諦めるような人生を送ってほしくなかったのだ。


「これで……よし、と」


私は書き上げた婚約辞退書の封を閉じた。


これを父であるヴァルハイト公爵に提出し、国王陛下にお許しをいただく。

もちろん、公爵家と王家の婚姻を取りやめるとなれば大騒動になるだろう。私自身の名誉も傷つくかもしれない。


それでも、殿下の本当の幸せのためなら、喜んで悪役になろう。


「セレスティア?」


不意にテラスの入り口から声がした。

振り向くと、そこには散策の途中で立ち寄ったらしいカルロス殿下が立っていた。


「……殿下。どうされたのですか?」


「いや、君がここにいると聞いてね。少し顔が見たくなったんだ」


殿下は穏やかに微笑みながら歩み寄り、私の対面の席に腰掛けた。

その手には、私が好きな小さな洋菓子店の紙袋が握られている。わざわざ側近に買いに行かせたのだろう。


こんなにも優しく、行き届いた心遣い。

だからこそ、私は切なくて胸が張り裂けそうになる。


「殿下……お聞きしてもよろしいでしょうか?」


「ん? なんだい?」


私は机の上の手紙をそっと隠しながら、意を決して殿下の瞳を見つめた。


「殿下は……今、お幸せですか?」


殿下は一瞬、きょとんとした顔をした。

それから、少し困ったような、けれど柔らかな笑みを浮かべた。


「急にどうしたんだい? もちろん、私は幸せだよ。君という素晴らしい婚約者がいて、国も平和だ。何一つ不満はない」


「……そうですか」


嘘だ。

殿下の瞳の奥には、最近ずっと晴れない陰りがある。

私には言えない悩み——きっと、男爵令嬢への想いと、婚約者としての責任感の間で葛藤しているのだろう。


どこまでも真面目で優しい人。

だからこそ、自分から「婚約を破棄したい」とは言えないのだ。


(殿下、貴方のお優しさに感謝いたします。でも、もう私を気遣う必要はありませんわ)


私は心の中でそう呟き、深く一礼した。


学園の創立記念パーティーまで、あと数日。

社交界の重鎮や王族が集まるその華やかな宴の場で、私はこの婚約に自ら終止符を打つことを決意していた。




第三章


学園の創立記念パーティー当日。

大シャンデリアが眩いばかりの光を放つ大広間は、絢爛豪華なドレスや礼服に身を包んだ貴族たちで埋め尽くされていた。


今夜の私は、紺碧のシルクに銀糸の刺繍が施されたドレスを選んだ。

ヴァルハイト公爵家の誇りを胸に、カルロス殿下の隣に立つ最後の夜として、もっとも美しくあるための装いだ。


「セレスティア、今夜も実に美しい」


私の手を取り、エスコートしてくれるカルロス殿下の顔は、いつになく疲れの色が濃かった。

目の下にはうっすらとクマが浮き出ている。


「殿下……お疲れのようですが、お体はよろしいのですか?」


「ああ、心配いらないよ。ただ……少々、長引いている問題があってね」


殿下は困ったように眉をひさげて微笑んだ。

書籍や書類に追われているわけではないらしい。

そして——案の定というべきか、その視線は私の肩越し、会場の中央付近へと向けられた。


そこには、華やかなピンクのドレスに身を包み、取り巻きの生徒たちに囲まれたクロエ・ミルフィ様の姿があった。


殿下の瞳が、途端に険しくなる。

穴が開くほどにクロエ様をじっと見つめ、その瞳には焦燥と、恐れすら混じったような異様な熱が宿る。


(……やはり、あの男爵令嬢のことなのですね)


殿下がこれほど疲れ果てているのは、自分の気持ちと抑えきれない情熱、そして私への義務感の狭間で苦しんでいるからなのだ。

私の胸は痛むどころか、冷たい諦念で満たされていった。


(もう、終わりにいたしましょう)


私が胸元に忍ばせた「婚約辞退書」にそっと手を触れた、その時だった。


「まあ、カルロス殿下! 今夜も素敵ですわ!」


甲高い声が響き、群衆を押し分けてクロエ様が歩み出てきた。

本来なら王太子夫妻の挨拶が終わるまで話しかけることすら許されない身分でありながら、彼女は堂々と殿下の目の前までやってきたのだ。


会場にいた誰もが息をのんだ。


「ミルフィ男爵令嬢……無礼だぞ。殿下とセレスティア様のお邪魔をするな」


側近が咎めに入ろうとしたが、クロエ様は意に介さず、可愛らしく首を傾げてカルロス殿下を見つめた。


「殿下、そんなに私を激しくお見つめにならないでくださいな。セレスティア様が嫉妬なさってしまいますわ」


ざわ……と会場全体に動揺が広がった。

クロエ様は私のほうを振り返り、優越感に満ちた笑みを浮かべる。


「セレスティア様。殿下の本当のお気持ちは、もう隠しようがありませんわ。殿下はいつだって私だけを見てくださる……私を求めていらっしゃるのです! これ以上、殿下を縛り付けるのはおやめになってはいかが?」


「……クロエ様」


私は静かに一歩踏み出し、凛とした声を張った。


「貴女の不敬な発言は、公爵家および王家に対する侮辱と受け取れますわ。ですが……」


私は胸元から、一通の封書を取り出した。


「殿下。私はかねてより、ご自身の心に偽りなく歩んでいただきたいと願っておりました。殿下がそれほどまでに心を寄せるお方がおられるのでしたら……私、セレスティア・ヴァルハイトは、喜んで王太子妃の座を辞退いたします」


「……なっ!?」


カルロス殿下の顔から、一瞬で血の気が引いた。


「セレスティア!? 一体何を言っているんだ! 婚約辞退だと!?」


「殿下、お隠しにならなくても結構です」


私は溢れそうになる涙を必死に堪え、殿下の目を見つめた。


「殿下がこの一ヶ月間、どれほど切ない眼差しでクロエ様を見つめておられたか、私はずっと見ておりました。私への優しさは、ただの義務感だったのですね。貴方の誠実さに感謝いたします。だからこそ……もうご自身を責めないでください」


周囲の貴族たちから、溜息と納得の声が漏れた。

「やはりそうだったのか」「公爵令嬢様はお可哀想に、殿下のために身を引かれるのだな」という囁きが広がる。


クロエ様は勝ち誇ったように胸を張り、カルロス殿下の腕にすがりつこうとした。


「殿下! セレスティア様もこうおっしゃっていますわ! さあ、私を抱きしめて、本当の愛を告白してくださいな!」


まさに一悶着も二悶着も巻き起こり、パーティー会場は修羅場の極みと化していた。


しかし——。


腕に触れようとしたクロエ様の手を、カルロス殿下は氷のように冷たい手つきで弾き飛ばした。


「触るな!!!」


大広間に、雷鳴のような怒声が轟いた。

あの温厚で完璧な王太子が見せたことのない激昂に、会場全体が静まり返る。


「で、殿下……?」


予想外の拒絶に、クロエ様が目を白黒させる。


カルロス殿下は荒い息をつきながら、額の汗を拭い、心底嫌そうにクロエ様を指差した。


「勘違いも大概にしろ、男爵令嬢! 私が……私がいつ貴様などに心を寄せたというのだ!?」


「え……? だって、殿下はいつも私を、熱い眼差しで見つめて……」


「見つめていたのではない! 凝視せざるを得なかったのだ!」


殿下は絶望と疲労が入り混じった顔で、がくりと肩を落とした。

知識も経験もない怪異の現象に、ただ耐えていた男の限界だった。

そして、恐る恐るクロエ様の『すぐ後ろ』を指差し、絞り出すような声で叫んだ。


「貴様の背後に……!! 常に身長二メートルを超える、甲冑を着た目つきの悪い男の幽霊がぴっちり張り付いているからだ!!!」




第四章


「……え?」


大広間のあちこちから、間抜けた声が漏れた。

誰もが耳を疑い、固まっている。


クロエ様もまた、言葉を失って口を半開きにしたままカルロス殿下と自分の背後を交互に見つめた。


「ゆ、幽霊……? 殿下、何を冗談を……」


「冗談なものか!!」


カルロス殿下は頭を抱え、心底吐き気がするという顔で叫び声を上げた。


「私は幼い頃から、人一倍霊感が強かったのだ! だが王太子の威厳を保つため、これまでずっと伏せていた! 一ヶ月前、庭園で不意に貴様とすれ違ったとき、私は見てしまったのだ……貴様の背後に密着し、怨念に満ちた目で周囲を睨みつける、身の丈二メートル超の大男の亡霊を!」


殿下の手が、恐怖と嫌悪感で微かに震えている。


「あの幽霊は常に貴様の真後ろにいて、貴様が動くたびにヌッとついて回っていた! いつ貴様に危害を加えるか、あるいは周囲に呪いを撒き散らすかと気が気ではなかったのだ! 故に片時も目を離すことができなかった! 一体あの悪霊はなんなのだ!?」


「あ、悪霊……!?」


クロエ様の顔がみるみるうちに青ざめていく。


「ち、違いますわ! そんな恐ろしいものが私に取り憑いているわけ……」


「嘘をつくな! 今も貴様の肩越しに顔を突き出し、『俺のクロエに手を出すな……』と血涙を流しながら私を威嚇しているぞ!!」


殿下が本気で怖がりながら指差す先を全員が注視したが、もちろん常人には何も見えない。

けれど、カルロス殿下の真真迫る態度と、青ざめた表情がそれの『真実性』を物語っていた。


「血涙……? 俺のクロエ……?」


クロエ様がひっと悲鳴を上げ、自分の肩を抱きしめた。


「まさか……! じ、先月亡くなった、私の地元の幼馴染の……トーマス……!?」


「心当たりがあるのか!?」


「だって彼、私に振られて『死んでもお前を守ってやる』って捨て台詞を残して事故で死んだんですもの! いやあああ! 離れて! 来ないでえええ!!」


自ら心当たりを口にしてしまったクロエ様は、狂ったように叫びながら自分の体を叩き、錯乱状態で大広間を飛び出していった。


静まり返る会場。

後に残されたのは、ぽかんと口を開けた大勢の貴族たちと、放心状態のカルロス殿下。


そして——状況が理解できずに立ち尽くす私だった。


(幽霊……? 恋心ではなく……幽霊を見ていただけ……?)


頭の中が真っ白になる。

殿下のあの情熱的で切切とした視線は、恋い焦がれる熱視線などではなく、ただの『怪異への警戒視線』だったというのだ。


「はぁ……はぁ……失礼した」


カルロス殿下は深く溜め息をつき、乱れた胸元を整えると、ゆっくりと私のほうへ振り向いた。

その瞳には、先ほどまでの恐怖ではなく、深い申し訳なさと愛おしさが満ちていた。


「すまない、セレスティア。君を不安にさせ、傷つけてしまった。私が霊能力のことを隠し、あの男爵令嬢を注視し続けたせいで……こんな愚かな誤解を生んでしまった」


「殿下……」


「言い訳をさせてほしい。私はただ、あの禍々しい悪霊が君の方へ向かわないよう、君に害が及ばないようにと見張るのに必死だったのだ。だが、それによって一番大切な君を泣かせてしまうなんて……王太子としても、男としても失格だな」


殿下は悲しそうに目を伏せ、私が差し出した『婚約辞退書』の封筒をそっと手に取った。


「君が私を嫌いになり、この婚約を破棄したいと言うのなら、私は喜んで受け入れよう。君を苦しめた罰だ。……だが、これだけは言わせてくれ」


カルロス殿下は私の両手を優しく包み込み、まっすぐに私の目を見つめた。


「私が愛しているのは、後にも先にもセレスティア、君だけだ。婚約者としての義務などではない。幼い頃からずっと、私は君を心から愛している。……それだけは、信じてほしい」


熱い言葉が、まっすぐに私の胸に飛び込んできた。


義務感だと思い込んでいた殿下の優しさ。

私に向けられていた温かな眼差し。

そのすべてが、偽りのない本物の愛だったのだ。


涙が、ポロポロと頬を伝って溢れ落ちた。


「殿下……カルロス様……っ」


「セレスティア?」


「私……私だって、殿下をお慕いしております! 殿下が他の女性に心を奪われたのだと思い込んで……勝手に悲しくなって……! 婚約を諦めようとしたのは、殿下に幸せになってほしかったからです……!」


「セレスティア……!」


私の言葉を聞いたカルロス殿下の顔に、ぱっと明るい光が差し込んだ。

彼は涙を流す私を力強く抱きしめ、愛おしそうに髪を撫でてくれた。


「よかった……君に嫌われたわけではなかったのだね。本当に……本当によかった」


胸の中にあった冷たく重い塊が、一気に溶けて消えていく。


会場からは、最初は恐る恐る、やがて万雷の拍手が湧き起こった。

周囲の貴族たちも、事の真相と二人の絆の深さに感銘を受け、祝福の声を上げている。


(……でも、一つだけ……)


私は殿下の胸の中で、ふと思い立って尋ねてみた。


「あの……カルロス様?」


「なんだい、セレスティア?」


「その……その幽霊の方は、もういらっしゃらないのですか?」


殿下は一瞬体を硬くし、視線を斜め上へと向けた。


「……ああ。ミルフィ男爵令嬢が叫びながら走り去った後を、すごいスピードで追いかけていったよ。『クロエぇぇ待ってくれぇぇ』という顔でね」


「そう……ですか……」


「明日、信頼できる教会の大司教を呼んで、彼女のお祓いと供養を手配しておこう。これ以上、被害者が出ないようにな」


苦笑いする殿下の顔は、一ヶ月ぶりに見る晴れやかなものだった。


数日後、ミルフィ男爵令嬢は精神的なショックと幽霊の恐怖から学園を自主退学し、実家へと戻っていったという。優秀なお祓い師の手によって、幼馴染の霊も無事に成仏したそうだ。


そして、私とカルロス殿下は。


「セレスティア、今日も可愛いね」


「カルロス様……もう、お茶会中に急に抱きしめないでくださいな」


「いいじゃないか。一ヶ月分、君を愛でる時間が足りなかったのだから」


あの事件以来、隠すものをなくしたカルロス殿下の溺愛ぶりは増すばかりで、私は毎日嬉しい悲鳴を上げている。


幽霊が見えるという殿下の秘密は、今では二人だけの小さな秘密だ。

時折、殿下がどこか明後日の方向をじっと見つめると、「何か見えますの?」と私がツッコミを入れるのが、私たちの新たな日課となったのだった。



(完)


お読みいただきありがとうございました!


面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ