あたしの誰より嫌いな女が結婚した
「シルヴァンフォード侯爵が、亡くなったそうだ」
その一言を聞いて、あたしは思わず自分の耳を疑った。
「――え?」
目を見開いて見上げるあたしに、お兄様は一度唇を引き結んで話を続ける。
「どうやら侯爵は最近体調を崩しがちだったらしい。先月のことだそうだ。公表が遅れたのはあちらの土地が雪で閉ざされていて、伝達に時間がかかったからだということだった」
「……そんな」
口元を覆いあたしは深く俯いた。
「……そんなの、お気の毒だわ。侯爵様はまだお若くていらっしゃったのに」
「ああ、確か二十三歳、だったか。僕よりも一歳年下だな。聞くところによると、幼い頃から風土病を患っておられたらしい」
お兄様の声が少し低くなった。
「爵位は十五歳の甥が継ぐそうだ。継承は滞りなく済んだとのことだが、新しい当主がそこまで若いとなればシルヴァンフォードは荒れるだろうな」
それはそうだろう。いくら辺境とはいえ、広大な所領を治めるには相当な力量が必要だ。
たった十五歳の少年に、それが務まるのか。
お兄様の懸念はもっともだった。
そうして、家に戻るというお兄様を見送ったあたしは、自室の扉を完全に閉めたところでようやく握りしめていた拳を開いた。
ああ、なんてことだろう。
(本当にシルヴァンフォード侯爵が死んだの!? あいつの夫が!?)
決してそうと悟られないよう、ひたすらに力を込めていた口元が緩んで行く。
鏡を見なくとも分かる。今のあたしは満面の笑みを浮かべていることだろう。
嬉しい。
それこそ、両手を上げて踊り出したくなるくらいに嬉しい。
(あの忌々しい女の夫がまさかこんなに早くに死ぬだなんて!)
こんなのは全く思ってもみないことだった。
(きっと、天罰が下ったのよ)
そう、心の中で嘲笑いながら、あたしはあいつの顔を思い浮かべた。
思い出す度に腹立たしい気持ちになるので、この三年間、あえて考えないようにしていたすました女の秀麗な面差しを。
あいつ――ソフィアは、どこまでもいけ好かない女だった。
炎のような赤い髪に鮮やかな紫水晶の双眸をしたローゼット子爵家の娘は、その華やかな色彩で常に人目を引いた。
でもあたしが何より気に食わなかったのは、あの女が大好きなお兄様の婚約者だったということだった。
あいつとアルノー伯爵家の子息であるケインお兄様との婚約は、先代の伯爵家当主の強い意向で整えられたものだと聞いたことがあるけれど、どうしてそんなことをしたのだか。
貴族同士の婚姻なんて政略であるのがほとんどとはいえ、それでも、とあたしは思ってしまう。
だって、あいつのお兄様への対応はひどいものだったのだ。
忙しいお兄様が空いた時間で訪問しても先の約束があると断ってばかりだったし、アルノー領の特産である絹織物の販路の拡大のための相談を持ち掛けても、もうしばらく様子を見るべきだとか先延ばしにするし。
だから、お兄様が元々はあいつと行くつもりだった観劇の舞台にあたしを招いてくれたり、食事に誘ってくれたりしたのは何か後ろめたい理由があってのことではない。
それらの心配りを台無しにしたのはあちらの方で、お兄様はただ、せっかく用意したチケットや席を無駄にするのは悲しいからとあたしに譲ってくれただけなのだ。
そして、婚約者であるにも関わらずそんな冷たい態度をとり続けるあの女に、お兄様が不満を募らせたのは当然のことだった。
そんな日々が続き、とうとう我慢の限界となったお兄様があいつに婚約を解消したいと切り出したのが、今から四年近く前のことだ。
けれど、息子から婚約解消を申し出たことを聞いた伯爵夫妻はそんなお兄様を強く叱責した。
どうやらアルノー伯爵家の財政はかなり厳しいもので、いずれ婚家となるという関係からローゼット子爵家より多額の支援を受けていたというのだという。
ここで支援を打ち切られれば伯爵家が傾きかねないとまで言われたお兄様は、両親からどうにかして婚約の解消を撤回させてもらえるよう、子爵家に話してくるようにと命じられた。
だが、お兄様がローゼットの領地に向かったときにはすでにあの女はいなかった。
信じがたいことに、あいつはお兄様に頭を下げてでも婚約を継続しろという自身の父親の言葉に逆らい、それくらいなら修道院に行くと手紙を置いて家を出たのだという。
お兄様がローゼット子爵家を訪れたときにはあいつは完全に姿を消していて、屋敷は騒然となっていたそうだ。
それから何ヶ月もあいつの足取りはつかめないままだった。
けれどある日、その行方はあまりにも思わぬところで発覚した。
あの女はどういうことか、縁もゆかりも無い国境に近いシルヴァンフォード家の領地にいたのだ。
しかしそれ以上に驚愕したのは、ローゼットの名を捨て貴族ですらなくなった筈のあいつが、結婚したという事実だった。
しかもあろうことか、その結婚はまさかのあの女からの申し込みだったというのである。
求婚は男性から女性に、というのが貴族の不文律だ。
勿論事前に双方の家の当主同士での話し合いと合意があり、その上での形式的なものであるのがほとんどだが、それでも女の側から結婚を申し込むということはありえない。
それなのにあの女は、シルヴァンフォードで祝いの祭りが行われたその日、多くの人々の視線が集う場で侯爵の前に跪き己から求婚をしたのだという。
曲がりなりにもかつては貴族令嬢であった女がそんな真似をするとは、はしたないにも程がある。
けれども、あってはならないことに、シルヴァンフォードの若き侯爵はその申し出に頷いたのだそうだ。
きらめく白銀の髪と深い緑の瞳を持つシルヴァンフォードの侯爵は、その美貌と年にそぐわぬ怜悧な頭脳で知られた青年だった。
その透き通る緑眼の美しさから翠玉の貴公子との異名を持つ、若く美しい侯爵に恋い焦がれていた令嬢たちは数多い。
しかしそのような女性たちも貴族の常識も差し置いて、あの女は真正面からシルヴァンフォード侯爵に求婚をしたのだ。
そして侯爵はその求婚を受け、二人の結婚は恙無く執り行われた。
そんな寝耳に水としか言いようのない出来事に、当然ながらローゼット子爵家もアルノー伯爵家も大変な騒ぎとなった。
だが、両家がそれらの経緯を耳にしたときには既に全ては終わった後で、あいつは正式に侯爵夫人としてシルヴァンフォード家の一員に名を連ねていたのである。
ローゼット子爵家は家出した娘が遥かに格上の貴族家へ嫁いだということで、どうにか上手く繋ぎをつけようとしていたようなのだが、シルヴァンフォード侯爵からの対応はひどく冷ややかなものだったのだと聞く。
どうやらローゼット子爵は、己の娘にアルノー伯爵家との婚約を取り止めるというのであれば家族の縁を切ると宣言していたらしい。
それゆえにシルヴァンフォード侯爵はローゼット子爵に対し、絶縁された以上子爵家のソフィア・ローゼットという令嬢はすでにどこにも存在していないと拒絶したのだという。
これらの事態に困惑したのはアルノー伯爵家も同様だった。
ローゼット子爵家からの援助は、ケインお兄様とあの女との婚姻が前提にあってのものだった。
でも、その当人はすでに別の相手のもとに嫁いでいる上、実家とすら絶縁している。
また、先に婚約解消を言い出したのが伯爵側の人間であったこともあり、ローゼット子爵家からは今後の支援の継続は取り止めにすると言われてしまったのだ。
(せっかくお兄様が、様々な事業の見直しやてこ入れに着手されていたのに)
そんな大事な時にあの女は家を飛び出し、挙句手段を選ばずに名門の侯爵家の正妻の座に転がり込んでくれたのだ。
どこまでも忌々しい女である。
(そもそもローゼットなんて、先先代の頃はうちと同じ男爵家だったのよ。それが陞爵されて子爵家になったってだけで)
歴史の長さで言えば、我がドルリー男爵家の方があるのだ。
ローゼット家など、たまたま商売で成功したから子爵となれただけの成金でしかない。
けれども、その財があったからこそ格式が上の伯爵家との婚約が成立したのも事実だが。
(それが、婚約解消を言い渡されたからって、更に上の侯爵家に手を出すなんて、どこまで尻軽なのよ)
しかもその相手は身分だけでなく家格・所領・財産を持ち合わせている上に若くて美貌の青年ときているのだ。
(何でそんな男があんな女を……っ!)
あの女はいつもそうだ。涼しい顔であたしが欲しいものをかっさらって行く。
あたしは心底、あいつが妬ましかった。
月日が過ぎ、あたしは十九歳になった。
ローゼット子爵家からの支援が受けられなくなったアルノー伯爵家の立て直しのために、ケインお兄様は毎日忙しくされているようだった。
そしてある日、ドルリー男爵であるお父様が、お兄様にあたしとの結婚を考えて欲しいと頼みこんでくれたのだ。
本来ならば、これはありえないことだ。
男爵家と伯爵家とでは、家格というものが違い過ぎる。
けれど、優しいお兄様はその場で一蹴することなく検討させてほしいと言ってくれ、先日にそれを承諾してくれたのだった。
とはいえまだ正式な婚約ではなく、徐々に話を進めて行くということになったのだけれど、昔からあたしを可愛がってくれたお兄様であればきっと悪いようにはしないだろう。
これで、近いうちにあたしは伯爵夫人となる。
そんな未来予想図を夢見ていたときに、入ってきたのがシルヴァンフォード侯爵の訃報だった。
さすがに口には出せなかったけれど、あたしは内心で快哉を叫んだ。
傷心しているであろうあいつのことを思えば、とてつもなく胸がすいた。
だから、その話を切り出された瞬間、あたしの頭の中は真っ白になった。
「え、今、なんて仰って……」
「すまない、リナ」
明るい青の目を曇らせ、ケインお兄様は硬い声であたしの名を呼んだ。
普段のお兄様であれば、こんなに暗い顔で、沈んだ声音であたしに話すことはない。
お兄様はいつもにこやかな、優しい口調であたしに接してくれていた。
だが、今日のお兄様は普段とは明らかに違った様子だった。
家に来てくれたときから違和感はあったから、疲れているのかと心配していたのだけれども。
「……お兄様、悪い冗談はおやめになって」
強張りそうになる顔に、あたしはどうにか笑いを張り付ける。
けれども頑張って誤魔化そうとするあたしに、お兄様は容赦なく言った。
「いいや、冗談じゃない。伯爵家としても改めて場を設けて話をするが、君との婚約の件は取り止めるということになった」
「…………」
あたしは黙って首を横に振った。
お兄様は一体何を言っているのだろう?
しかしあたしの拒絶に構うことなく、お兄様は話を続けた。
「申し訳ない、リナ。僕は君と結婚できない」
はっきりと言い切るお兄様の表情もその声の響きも、本気だった。
「っ! 何で! どうして!?」
あたしは叫んで、お兄様の上着にしがみつく。
話を進めると、お兄様は確かにそう言った筈だ。
縋るあたしに、お兄様は少し苦しげに眉を寄せる。でも、それだけだった。
「――伯爵家のために、もっと益になる相手と結婚しろと父に言われた。当主としての命令である以上、僕はそれに逆らえない。だから、ごめん」
もう、ここには来ない。
そう言って、お兄様は服を掴んでいたあたしの手を引き離し、そのまま部屋を出て行った。
「お兄様、待って!」
けれどお兄様が、必死に呼び掛けるあたしの声に振り返ることはなかったのだ。
あたしがお兄様の両親である伯爵夫妻の目論見を知ったのは、それからすぐのことだった。
あたしに別れを告げた後、お兄様が向かった先はシルヴァンフォード領。
そして会いに行った相手はあの女――ソフィア・シルヴァンフォード侯爵夫人だった。
聞くところによると、あいつの夫であったシルヴァンフォード侯爵は、妻のために多額の財産を残していたらしい。
本来であれば家の資産はあくまでその家のものだから、余所から来た嫁――しかも子供のいない妻――が夫に先立たれた場合はろくな金銭もなく放り出されることすらままある。
だが、シルヴァンフォード侯爵は法的効力のある遺言書を作成していた上、更には最も身近な血縁者である甥に対しても妻の処遇をよくよく頼んでいたということだった。
それゆえにあの女は、跡継ぎもおらず夫に早世されながらも、幸運にもこの先困ることのないくらいの財産を保証されているらしい。
しかも次の侯爵となる義理の甥との関係も良好とのことで、もしあの女が望むのであれば侯爵家の人間としてそのまま留まることにも異論はないのだそうだ。
(……どこまで)
そういった話を聞いて、あたしは悔しさに歯噛みした。
あの性悪女は、どこまで運がいいのだろうか。
お兄様を蔑ろにして婚約を解消されたのに、家を飛び出て侯爵家当主の妻の座を射止めた。それだけでも充分だろうに。それなのに、子供が持てないまま夫に先立たれても、侯爵家に滞在を許されているなんて。しかも、今後のために財産までも残されているのだ。
……おそらく、アルノーの伯爵夫妻はそれを狙っているのだろう。
(あいつはあたしより二歳上だったから、まだ二十一歳だものね。子供が期待できないわけでもないし)
自由になる金を持った若い未亡人。
しかも、前に婚約関係にあった点も含めれば、上手く取り込むことができると伯爵側は考えたのだろう。
たいした資産のない男爵令嬢よりも、初婚でなくとも裕福な元侯爵夫人の方が結婚するメリットがあると判断したのだ。
……そして、お兄様がどちらを選んだのかは口にするまでもないことだった。
ただ、物事はお兄様たちの思う通りには進まなかった。
お兄様は何とかあの女と顔を合わせることはできたらしいが、それからすぐに現当主の侯爵に文字通り屋敷から叩きだされたそうだ。
自身の叔母に無礼をはたらく輩は斬る、と面と向かって罵倒されたらしい。
そう言えば、先の侯爵も剣技に優れていたそうだから、その腕は確かなのかもしれない。
あの後、お兄様とアルノー伯爵家から謝罪の手紙が届いたけれど、あたしはそれを読まずにお父様にお渡しした。
中身についても聞かなかったから、あたしはそこに何が書かれていたのかは知らない。
もう、知る必要のないことだ。
それからあたしは、お父様の勧めで一人の男性と会うこととなった。
あたしは最初、その人のことを聞いてひどく警戒した。
お兄様との婚約が叶わなかったあたしが、社交界でどう噂されているかくらいはさすがに知っていたからだ。
そんなあたしに持ち込まれる話が、まともなものとはとても思えなかった。
けれど、実際に目にした相手はあたしの予想とは随分と違っていた。
子爵家の四男だというその青年は、実家から離れ商人の仕事をしているとのことだったが、その身形も立ち居振る舞いも随分と洗練されたものだった。
お兄様のようなきらびやかさはないけれど、彼の品の良さと穏やかな物腰、そして落ち着いた眼差しに、あたしは不思議なくらいに安心した。
たまに会ってお茶を飲んだり、ささいな日常を記した手紙の遣り取りを交わして一年が過ぎた頃。
二人で庭を散歩しているときに、あたしは彼から求婚された。
「あたしでいいの?」
問いかけるあたしの声は震えていた。
でも、彼から返ってきた言葉はきっぱりとしたものだった。
「君がいいんだ」
私と結婚してほしい。
そう真っ直ぐに告げる彼の迷いのない眼差しに、あたしは泣きそうになりながら頷いた。
新しい名前に馴染んだ頃、あたしは彼女の――かつてのシルヴァンフォード侯爵夫人の――噂を耳にした。
どうやら彼女が、再婚したというのだ。
それ自体は特に驚くことではないけれど、そのお相手についてはいささか想定外だった。
彼女の夫となった人物は、なんと平民なのだという。
けれども彼は広大な農地を持っており、その豊かな土地はこの国の穀物庫とすら呼ばれているのだそうだ。
そして彼女は新しい夫とともに、その地の近隣にある痩せた大地の新たな開墾に手をかけているのだという。
そういえば、とあたしは思い出す。
彼女がかつて婚約者の誘いを断って会っていたのは、土壌を専門にしている研究者や土木作業に詳しい建築家、水害や冷害が起きることの多い土地の出身者などだった。
あの当時、忙しいからと言っていた彼女の言葉は、きっと偽りではなかったのだろう。
……あたしはふと、その光景を思い浮かべた。
赤い髪をなびかせながら荒地に立つ彼女と、その隣にいる顔も姿も知らない男性の姿を。
彼女が新たな結婚相手に爵位も称号も持たない相手を選んだことに、今のあたしは不思議と疑問を抱かなかった。
「……そっか」
ぽつんと呟く。
あたしが欲しい物を全て持っていた彼女。
彼女が一体何を思っていたのか、あたしには知るよしもないことだ。
けれど――……。
あたしは溜息ではない小さな息を吐く。
根拠も何もない。ただ、何となく、だけれど。
今の彼女はきっと、幸せなのだろう。
それは多分、あたしと同じくらいに。
扉の外から、リナ、と名前を呼ぶ声が聞こえる。
あたしは微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。
あたしの誰より大切な、旦那さまのところへ行くために。




