「お前との婚約は重荷だった」と言われたので笑顔で身を引いたら、王太子が没落していきました
五年間の婚約生活に、終止符が打たれた。
「お前との婚約は重荷だった」
王太子アルヴィン殿下は、まるで天気の話でもするかのように言った。
「……そうですか」
私——フィーネ・ヴァルトシュタインは、ゆっくりと息を吐いた。驚きはなかった。むしろ、ようやく、という気持ちの方が大きい。
「それだけか? 泣いて縋るとでも思っていたのか?」
アルヴィン殿下が眉を顰める。私は穏やかに微笑んだ。
「いいえ。ただ、五年間お疲れ様でした、と申し上げたかっただけです」
殿下の顔が強張る。予想外の反応だったのだろう。私が泣き喚いて「なぜ」と問い詰めることを、きっと期待していたに違いない。
けれど私は、もう疲れていた。
五年間、王太子妃教育を受け続けた。社交界で殿下の評判を守り、陰口を叩く令嬢たちに笑顔で対応した。殿下の散財を補うために実家の人脈を使い、なんとか帳尻を合わせてきた。
それでも殿下は、私を見なかった。
「では、これで失礼いたします」
深々と頭を下げ、私は踵を返した。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
——ああ、身体が軽い。
王城を出る足取りは、五年間で一番軽やかだった。
◇
辺境伯領に戻って三ヶ月が経った。
「お嬢様、今日のお茶はいかがなさいますか」
「レモンバームでお願い。あと、午後は第三農区の視察に行くから、馬車の手配をしておいて」
「かしこまりました」
侍女が下がった後、私は窓辺に立って領地を見下ろした。
王都にいた頃は気づかなかったが、実家の領地経営はかなり傾いていた。父は領主としての仕事より社交を優先し、帳簿は五年以上も放置されていたのだ。
私は婚約破棄を機に、領地の立て直しを買って出た。王太子妃教育で学んだ財務知識と、社交界で培った交渉術。それらを総動員して、三ヶ月で赤字を黒字に転換させた。
「お嬢様、お客様です」
侍女の声に振り返ると、見知らぬ騎士が立っていた。黒髪に灰色の瞳。端整な顔立ちだが、どこか硬い印象を受ける。
「近衛騎士団副団長、ガイウス・オルテガと申します。辺境伯領の視察に参りました」
近衛騎士団の副団長が、わざわざ辺境まで? 私は内心で首を傾げながらも、客人として丁重に迎え入れた。
「遠路はるばる、ありがとうございます。どうぞ、こちらへ」
応接室に案内し、茶を振る舞う。ガイウス殿は黙って茶を口に運んでいたが、ふと私を見た。
「失礼ですが、貴女がフィーネ・ヴァルトシュタイン嬢ですね」
「ええ」
「王太子殿下の元婚約者の」
直球の質問に、私は苦笑した。
「元、ですね。今は辺境伯領の帳簿係です」
「……帳簿係?」
ガイウス殿の眉がわずかに動いた。驚いているのだろう。王太子の元婚約者が、地方の帳簿を管理しているなど、想像もしなかったに違いない。
「ええ。なかなか楽しいですよ」
私は窓の外を見た。畑には麦が青々と実り、遠くでは農夫たちが働いている。
「王都にいた頃より、ずっと」
◇
ガイウス殿の視察は三日間の予定だった。
初日は領地の概要を説明し、二日目は農区と商業区を案内した。彼は終始無表情だったが、質問は的確で、メモを取る手も止まらなかった。
「この灌漑設備は最近のものですか」
「はい。三ヶ月前に着工しました。来月には完成予定です」
「三ヶ月? 予算は」
「領地の余剰金と、隣領との物資交換で賄いました。現金の支出は最小限に抑えています」
ガイウス殿の目が、初めて感情を見せた。それは、驚きだった。
「……貴女が立案されたのですか」
「ええ。農業改革は領地経営の基本ですから」
私は事も無げに答えた。王太子妃教育で学んだことを、実践しているだけだ。机上の知識が役立つかは不安だったが、やってみれば案外うまくいくものだった。
その夜、夕食の席でガイウス殿が口を開いた。
「失礼を承知で申し上げます」
「はい」
「王太子殿下は、愚かな方だ」
私は手を止めた。ガイウス殿は真っ直ぐに私を見ていた。
「貴女のような人材を手放すなど、正気の沙汰とは思えない」
「……お褒めいただき、ありがとうございます」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
この三日間、ガイウス殿は私の仕事を見続けてくれた。帳簿の確認も、農民との交渉も、すべてを傍らで見守り、時折質問を挟んできた。
五年間、アルヴィン殿下は一度も見てくれなかった私の仕事を、彼は三日間で理解しようとしてくれた。
「ガイウス殿」
「はい」
「ありがとうございます」
彼は少し驚いた顔をして、それから、初めて笑った。
「……いえ。私こそ、多くを学ばせていただきました」
その笑顔を見て、私は思った。
ああ、この人の笑顔は、なかなか素敵だ。
◇
視察が終わり、ガイウス殿は王都へ戻った。
けれど一ヶ月後、彼は再び辺境伯領を訪れた。今度は「休暇で」と言いながら。
その翌月も、その次の月も。
「また来たのですか」
「ええ。王都より空気が美味い」
「空気が目当てなら、もっと近くの保養地がありますよ」
「ここがいいのです」
ガイウス殿は、相変わらず真っ直ぐに私を見つめる。
「貴女がいるから」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
◇
婚約破棄から半年が経った頃、王都から噂が届いた。
王太子アルヴィン殿下の横領が発覚したという。
「まあ、そうでしょうね」
私は淡々と言った。侍女が驚いた顔をする。
「お嬢様、ご存知だったのですか?」
「五年間、帳簿の帳尻を合わせていたのは私ですから」
私がいなくなれば、殿下の金遣いの粗さは隠しようがない。新しい婚約者——噂では男爵令嬢だそうだ——に、私と同じことができるとは思えなかった。
案の定、三ヶ月も経たないうちに国庫から多額の金が消えていることが発覚したらしい。
「お嬢様のところに、殿下から連絡はないのですか」
「ありません」
あったとしても、応じるつもりはなかった。
私はもう、あの人のために動く理由がない。
◇
「聞いたか。王太子が廃嫡されるそうだ」
ガイウス殿が、いつものように茶を飲みながら言った。彼の訪問は、今や月に二度になっていた。
「ええ、聞きました」
「感想は」
「特にありません」
私は肩をすくめた。
「もう、私には関係のないことですから」
ガイウス殿が、じっと私を見つめる。その視線は、いつも真剣だ。
「……フィーネ嬢」
「はい」
「私は、貴女を見ている」
彼の言葉に、私は目を瞬いた。
「貴女の働きも、貴女の笑顔も、貴女の涙も——すべてを、私は見ていたい」
彼が立ち上がり、私の前に膝をついた。
「私と、婚約してくれないか」
窓の外で、鳥が鳴いている。風が麦畑を揺らしている。
私は、涙が溢れそうになるのを堪えた。
「……私で、いいのですか」
「貴女がいい」
「王太子の婚約破棄相手ですよ」
「だから何だ」
ガイウス殿の声は、静かだが力強かった。
「私が見ているのは、フィーネ・ヴァルトシュタインという女性だ。王太子の元婚約者ではない」
その言葉が、私の中で何かを溶かした。
五年間、私を見てくれなかった人がいた。
けれど今、目の前に、私だけを見てくれる人がいる。
「……はい」
私は、彼の手を取った。
「喜んで」
◇
後日談がある。
廃嫡された元王太子が、私に復縁を求めてきたらしい。
らしい、というのは、私が直接会っていないからだ。ガイウス殿が門前払いにしたと聞いた。
「会わせるわけがないだろう」
彼は眉間に皺を寄せて言った。
「私の婚約者に、何の用だ」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いえ。嬉しかっただけです」
私を「重荷」と呼んだ人がいた。
私を「宝物」と呼ぶ人が、今は隣にいる。
「ガイウス殿」
「何だ」
「……私も、貴方を見ています」
彼の耳が、少しだけ赤くなった。
窓の外では、麦が黄金色に実っている。
辺境伯領の夏は、穏やかで、温かい。
私は今、とても幸せだ。
——元婚約者がどうなったかは、もう知らない。
興味もない。
ただ、風の噂では、元王太子は国外追放になったとか、ならなかったとか。
まあ、どうでもいいことだ。
私の隣には、私を見てくれる人がいる。
それだけで、十分だから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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