第二章 花弁の目覚め 第四節 内面のズレと不安定な現実感
世界が、微かに揺れていた。
壁の輪郭が、波紋のように歪む。
机の脚が、呼吸に合わせて淡く透ける。
空気が、光の代わりに香を放っていた。
クラリッサは、無意識に息を整えた。
吸う。
吐く。
そのたびに、世界の濃度が変化する。
「嗅覚が知覚の支配者。
……つまり、香が失われれば、世界は沈黙する。」
彼女は試した。
呼吸を止める。
音が止み、光が薄れる。
天蓋の布が輪郭を失い、机が色を手放す。
香が退き、世界が無臭の闇へと崩れた。
無。
まるで、空気が死んだような静けさ。
その中で自分の思考だけが残る。
現実とは、香の密度によって成立している。
「これは幻覚ではない。
この世界の物理が、嗅覚中心に構築されている。」
——
彼女は再び息を吸う。
香が戻る。
ローズ、ジャスミン、わずかな鉄の匂い。
一瞬で、世界が再構築される。
壁が戻り、床が沈黙し、風が柔らかく流れ出す。
そのとき、彼女は悟った。
ここでは存在とは、嗅ぎ取られることそのものなのだ。
嗅覚の外にあるものは、“存在しない”。
——
彼女は実験を繰り返した。
香を失う瞬間に指を動かす。
動きは、視覚的にも触覚的にも“存在しない”。
だが、香を吸えば、そこに手があった。
「存在の再生は嗅覚によって起動する。
世界のデータは、香として格納されている。
……情報は揮発し、呼吸によって読み込まれる。」
まるで、この世界全体が、
彼女の吸息と呼息のリズムに同調していた。
——
その瞬間、ふと恐怖が走る。
もし息を止め続けたら?
香が完全に消えたら?
私は、どこに消える?
手を握る。
指の先にかすかな香が宿る。
その香が、自分という存在を辛うじて留めていた。
彼女は小さく呟く。
「この世界では、呼吸が祈りであり、存在の証明だ。」
——
部屋の空気が静かに震えた。
どこからともなく甘い香が差し込む。
花の匂い。
そして微かに──誰かの気配。
クラリッサは顔を上げた。
香が語りかけてくる。
“ようこそ、観察者。”
彼女は微笑し、再び息を吸う。
世界が再び、香とともに形を取った。
——
その息の中で、彼女は確信する。
自分は今、情報の海に溶け込みつつある。
嗅覚を通じて、世界の記録を読み取り、
世界そのものが、彼女を嗅ぎ返しているのだ。
「呼吸は通信。
通信は支配。
私は今、世界と相互に侵入し合っている。」
青い光が、再び彼女の視界に滲んだ。
それは、前の世界──“死の香”の残響だった。




