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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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王子の葛藤:副官が消えた世界

翌朝、宮廷の廊下は静かだった。

だがその静けさは、王子には“音の失われた機械”のように感じられた。


執務室の机には、整理しきれなかった書簡が積み上がっている。

各部局から届く報告は、どれも“王子の意向を忖度した”回りくどい文面ばかりで、核心に触れない。


王子は一枚の外交文書を手に取り、眉を寄せた。


「……これは、裏に何があるのだ?」


問いかけても、答える者はいない。

本来ならナディアが、瞬時に二十の可能性を洗い出し、三つに絞り、最終的に“王子が見るべき一点”だけを指し示したはずだ。


今はただ、沈黙だけがある。


机の上の砂時計を見ても、時間の流れが掴めなかった。

優先順位の判断が遅れ、書簡は山を増すばかりだ。


近衛隊長が控えめに声をかけた。


「殿下、第二議会から決裁の催促が──」


「……少し待たせてくれ」


それしか言えない。

本当は、“どう判断すべきか決め切れない”と認めるほかなかった。


王子が書簡をひとつめくるたびに、胸の奥で不安が泡立つ。


(……ナディアがいないだけで、これほど迷うのか)


外交政策、国内治安、貴族との折衝──

全ての判断に、微妙な歯車のズレが生じていた。

誰も表では口にしないが、各部局は王子の真意が読めず、気を回しすぎて業務が滞っている。


まるで、王国中が薄い霧の中で足を取られているようだった。


王子は胸を押さえ、深く息を吸った。


(私は……ナディアなしでは、自分の判断がどれほど脆いか──今、嫌でも思い知らされている)


その事実が、静かに、しかし確実に王子を締めつけていく。


昼下がりの執務室には、紙の擦れる音だけが漂っていた。


王子は書簡を一つ読み終えるたびに、視線をわずかに横へ滑らせる。

そこには、壁際に立つクラリッサの姿があった。


彼女は政務の席に座るわけでもなく、助言を口にするわけでもない。

ただ、何かの儀式のように淡々と立ち、静かに王子を見守っている。


その沈黙は、他の誰にも再現できないものだった。


王子は次の文書を手に取り、判断を下そうとする。

しかし紙を置く直前、無意識にまたクラリッサへ目を向けてしまう。


彼女はうなずかない。

否定の気配も示さない。


それでも──

王子にはわかってしまう。


(この判断は……彼女の基準から外れてはいないか?)


その思考が生まれるたび、自分で自分に驚いた。


かつての王子には、ナディアが形づくる理性の線があった。

今はその補助線が消えた代わりに、クラリッサの静かな視線が、王子の判断を包み込む。


決裁書類に署名を落とした瞬間、王子はようやく気づく。


(……私は、知らず知らず、彼女の目を基準にしている)


クラリッサは何もしていない。

だがその“何もしなさ”が、王子の精神の中心に入り込んでいた。


その日、静かに、誰にも気づかれぬまま──

クラリッサは“影”から“軸”へと変貌した。


王子の政権は、この瞬間に重心を変えたのである。


執務机に置いた書簡に、王子の指が触れたまま止まっていた。

周囲には文官たちの足音もなく、ただ自分の呼吸だけが静かに広がっていく。


クラリッサは、相変わらず壁際に立っていた。

視線を投げかければ届く距離に、しかし決して踏み込んでこない距離に。


王子の胸の内では、二つの声がゆっくりとせめぎ合っていた。


【層1:自覚的な恐れ】


(彼女がいなければ……私は、何を基準に判断するのだ)


書類の一行を読むたび、その不安は形を変えて押し寄せる。


(だが……彼女を頼りすぎれば、私は理想に呑まれる)


クラリッサの判断は政治的合理ではない。

彼女の基準は、“世界をどうあるべきか”という純度そのものだ。

それはあまりにも美しく、だからこそ危険だった。


(あの少女の判断は、政治ではなく……“美しさ”で動く)


ナディアのように現実を整える者がいなくなった今、

クラリッサの美学は、王子の視界を少しずつ、静かに侵食していく。


【層2:自覚してはならない依存】


そして──

そのもっと深い場所に、王子は決して認めたくない感情を抱えていた。


(……彼女がそばにいなければ、私は決断を躊躇する)


クラリッサがうなずいたわけでも、何かを助言したわけでもない。

それでも王子は、彼女の存在が消えた瞬間、

自分の中の“足場”が崩れる音を確かに想像してしまった。


(彼女の目を失えば、私は……何も守れなくなる)


その思考が脳裏に浮かんだだけで、王子は小さく息を呑んだ。

依存だと認めた瞬間、

王家の後継者としての自分が壊れる──

その未来が、直感だけで理解できてしまう。


だから彼は、意識的に思考を切り捨てた。

切り捨てたふりをした。


机の上の書簡に視線を戻し、

ほんの一度だけクラリッサの方を見る。


彼女は、変わらず静かにそこにいた。


王子は知っていた。

この沈黙こそが、最も強い支配だということを。



ナディアが姿を消して二日。

宮廷の空気は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。


教会の揺さぶり


「殿下のご判断は……本当に適切なのでしょうか?」


教会代表のその若い司祭は、言葉こそ丁寧だったが、

“判断能力への疑念”を公然と示し始めていた。


「暗号士が不在のままでは、危うい。

 殿下には、より慎重な補佐が必要かと。」


王子は反論しようとして──喉が固まった。

ナディアの不在は、言い訳の余地なく現実だった。


旧貴族派の侮り


「若い殿下は補佐を失われた。

 今こそ我らが導かねば。」


その声は陰で囁かれていたが、

王子の耳にも十分に届いていた。


あからさまに自派への引き込みを試みる者まで現れ、

王子の周囲は途端に“奪い合い”の場と化した。


官僚の混乱


決裁は滞り、書類の優先順位は狂い、

各部局は次々と“王子の意向”の解釈で揉め始める。


「殿下の意図が読めない」

「判断基準が変わったのか?」

「……迷われているのかもしれん」


噂は壁を越えて広まり、

宮廷そのものがじわりと崩れていく。


そして、ただ一人だけが“異質な安定”を与える


混乱の中心で、クラリッサは壁際に立っていた。

何も言わず、何も示さず、ただ静かに王子を見ているだけ。


誰も頼んでいないのに──

その存在は、王子の精神の重心を自然と引き寄せていた。


ある会議で、王子がふと迷った時。

クラリッサが一歩だけ前に出て、

王子の耳元にかすかに囁いた。


声は小さく、意味は単純だった。

しかしその一言で、王子の思考は一瞬にして整列した。


「……そうだ。その通りだ。」


王子の回答は鋭く、簡潔で、誰も反論できないほど美しかった。


部屋は静まり返った。

その場にいた全員が理解した。


「あの少女がいなければ、政務は回らない」


そんな視線が、王子の背に突き刺さる。


選択肢の消失


王子は会議後の回廊で、ひそかに拳を握りしめた。


(……私は。

 政治に追い込まれているだけなのか?)


クラリッサを頼るべきではないと、

頭では分かっている。


彼女の純度はあまりにも危険だ。

あまりにも、美しすぎる。


だが王子は同時に理解していた。


(彼女を使う以外……この混乱を止める手段は、残されていない)


ナディアが奪われた世界で、

政治そのものが彼をクラリッサへ押しやっていく。


頼りたくない。

だが頼らざるを得ない。


その構造こそが、

前例のない“共依存”の始まりだった。



政務室には、夜の冷えた空気が滲み込んでいた。

机の上には整理されきれない書簡が山のように積み上がり、

ろうそくの火がそれらを不規則な影に変えている。


王子はその影を見つめたまま、静かに息を吐いた。


(……ナディアを救うべきだ。

 理性を取り戻さねばならない。)


ナディアの不在が政務をどれだけ歪ませているか、

彼は痛いほど理解していた。


(だが、今この状況で……

 彼女を欠いたまま進むには……)


考えたくはなかった。

だが、どれだけ目を背けても、答えは残酷なほど一つしかない。


(……クラリッサの力を使うしか、手段がない)


クラリッサの助言は、

驚くほど美しく、そして正確だ。


そして危険だった。

彼女自身も、その純度も。


本来なら頼ってはならない。

あの静かすぎる存在に重心を寄せすぎれば、

王子としての自分がどこへ向かうのか──

誰にも予測できない。


(だが……私は、もう選べないのか)


ゆっくりと、王子は振り返った。


部屋の隅。

壁際に寄りかかることもせず、ただ“立っていた”クラリッサ。

まるで王子の影が形を持ったような、静謐な存在。


呼吸すら音を立てない。


彼女の目は王子の目を見ていなかった。

ただ、王子の決断が落ちる“地点”だけを見つめていた。


王子は、無意識に一歩彼女へ近づいた。


「クラリッサ。」


少女のまつ毛がわずかに震える。

それだけで空気が動いたように感じられた。


沈黙が、王子の心を押し上げる。


そして──

彼は、決定的な一言を口にした。


「……しばらく……私の隣にいてくれ。」


クラリッサは何も言わなかった。

ただ、わずかに首を傾け、立ち位置を半歩だけ王子に寄せた。


応えではない。

了承でもない。

しかしそれは、どんな言葉より確かな“存在の返答”だった。


その瞬間、

王子政権は静かに、決定的に偏った。


そして王子は、

自らその偏りへ足を踏み入れたのだと理解していた。



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