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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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クラリッサ、“独立した毒”として成立

石畳の奥で扉が閉まった音は、宮廷の空気をわずかに震わせた。

その震えが何を意味するのか、即座に理解した者は少ない。

しかし“欠落”だけは、誰の耳にもはっきりと届いた。


まず、王子の背後に常に寄り添っていた通信の気配が消えた。

執務室に立つ副官が、魔術端末を叩きながら青ざめる。

暗号線の光が弱まり、やがて完全に沈黙した。


「……応答がない。どのルートも……。」


外交補佐官が眉を寄せる。

つい先ほどまで外国からひっきりなしに届いていた微弱な光信号が、

すべて、同時に、死んだ。


小国の参謀からの暗号。

亡命者ルートの合図。

欧州連合の協力者による警告。

数え切れない“裏の回線”が、一斉に静まり返った。


誰かが呟く。


「……暗号士殿は?」


返事はない。

尋ねるまでもない。

彼女は、もう宮廷の側にいない。


その沈黙の裏で、ただ一人──

人々の視線が吸い寄せられる影があった。


クラリッサ。


広間の片隅、背筋を伸ばし、手を組み、

まるで春の陽の下に落ちた影のように静かに立っていた。


彼女は動かない。

表情も、視線も、彫像のごとく。


なのに、空白を埋めるように“存在感だけが浮き上がる”。

誰も彼女を排除できない。

彼女の背後に、教会も議会も、軍閥の影すら見えない。


完全な“無所属”。


その異常さに、数名の貴族が息を飲んだ。

審問官たちが残した冷気がまだ壁に残っているのに、

その真ん中に立つクラリッサだけは温度を奪われていなかった。


権力の奔流が渦巻く広間で、

ただ一人、外側に立つ者。


そしてその存在だけが──

ナディアのいない“欠落の世界”に、不自然な曲線を描いていた。



広間のざわめきの中心で、

クラリッサだけが淡い影のように佇んでいた。


彼女の周囲には、どの派閥の色もついていない。


教会の白衣も、

旧貴族派の濃紺も、

議会の金飾りも、

護衛隊の赤の紋章も──

いずれも彼女の肩には刻まれていなかった。


彼女は“誰の庇護も受けず”、

“どの組織の許可もなく”、

ただそこに存在しているだけ。


宮廷の人間であれば、

どこかの派閥に属さなければ立ち続けることすらできないはずなのに。


にもかかわらず。


王子は、彼女だけを“絶対に離さない”という態度を、一言も発さずに示していた。

振る舞いも、視線も、呼吸すらも、クラリッサを中心に構築される。


その“力の流れ”は、宮廷の古い者たちにはすぐに分かった。

権力者が誰かを特別扱いするとき、

理由より先に、圧力の形が変わる。


そして現在、宮廷の天秤はわずかに傾いていた。


王子は、クラリッサだけを保持している。

王子は、クラリッサだけを見ている。

王子は、クラリッサだけを手放せない。


忠誠を誓ったわけでもない女に。

どの組織にも属さない、正体のない“影”に。


その矛盾こそが──

宮廷全体への、最初の不穏な圧力となっていった。



広間の空気が、目に見えるほど歪んでいった。


クラリッサは、静かに立っているだけだ。

その背筋も、呼吸も、いつもと変わらない。

しかし周囲の人間の視線は、彼女の存在を“異物”として扱い始めていた。


まず、教会。


白衣の神官たちは互いにひそひそと囁き合い、

目の端でクラリッサを射抜くように見つめていた。


(教義に属さない。

 儀式体系にも接続しない。

 それでいて“王子の中心”に立つなど、あり得ない。)


彼らの視線は、純粋な恐怖だ。


次に、旧貴族派。


彼らは眉間に深い皺を刻んでいた。

政治家がもっとも嫌うのは“読めない存在”。

利益も、損得勘定も、出自の力も見えない。


しかも──

いつの間にか王子の決裁のすべてが、

クラリッサの方へ向かって流れている。


(彼女は誰の代理人だ?

 いや……あれは誰の代理でもない。

 そんな存在が一番危険だ。)


そして、官僚たち。


机の上の書類を抱えたまま、

ひとりがぽつりと呟く。


「……あの人、どの部署の配属記録にもないんだよな。」


「権限コードも下りていないのに、広間の中央に立ってる。

 あり得ないだろ。」


彼らは“制度の外側にいる者”を直感的に恐れていた。


だが、誰よりも正確に現実を見ていたのは王子その人だった。


彼は激論に囲まれながらも、

ふとした瞬間にクラリッサの方へ視線を送る。


ただ一度も彼女を呼ばない。

ただ一度も命じない。

ただ……“彼女が中心だ”というように、視線の軌跡が語っている。


その瞬間、全派閥は悟る。


王子の意思決定の核にいるのは──

教会でも、旧貴族でも、議会でもなく。


あの“無香の少女”、クラリッサだ。


これを説明できる理屈は、宮廷のどこにも存在しない。

だからこそ──全員が、彼女を恐れた。



ヴァチカン治安局の地下分析室。

淡い香炉の煙が漂う薄闇の中で、白衣の分析官たちは静かにモニターを見つめていた。


その中心に映し出されているのは──

儀式広間で、ひとり異質な静寂をまとって立つクラリッサの姿。


分析官A

「……あれが、王子の判断を変えた少女か。」


分析官B

「所属は不明。

 旧貴族でも、王子派でも、教会系でもない。

 出自データも曖昧だ。」


分析官Cが、長い沈黙のあとで結論を示す。

淡い声が薄闇に落ちた。


「コードネームを付ける必要があるな。

 ……Silent Poison(沈黙の毒)。」


一瞬、空気が凍りつく。


理由は明確だった。


***


■一、命令を受けずに動く“指揮系統外の存在”


クラリッサの動きには、

命令書も承認印も、派閥の指示もない。

にもかかわらず、その行動が王子の決裁に先回りし、

周囲の力学を変えていく。


痕跡も、責任の所在も残らない。

だから厄介だった。


分析官A

「軍でも教会でも説明できない軌跡だ。

 命令権が存在しないのに、環境を動かしている。」


■二、気配も立場も示さず、しかし“場”を支配する


彼女はほとんど喋らない。

どの場でも、儀礼も政治言語も使わない。

それなのに、王子の視線だけが自然に彼女へ向かう。


分析官B

「中心にいるのに、中心の座に座っていない。

 ああいうタイプが一番つかめない。」


■三、毒のように効き、誰も解毒法を持たない


クラリッサには忠誠の誓約がない。

組織にも所属していない。

だから“排除の大義”が立たない。


同時に、取り込むこともできない。

従う気配が一切ないからだ。


分析官C

「権力の外側にある毒は、解毒できない。

 既存の秩序に属さないから、排除も管理もできない。」


***


こうして記録された。


Silent Poison──沈黙の毒。


“誰にも飼えず、しかし確実に王子の判断を変質させる存在”。


その名はまもなく、ヴァチカン内部で密かに共有されることになる。


そして誰もが気づき始めていた。


この毒はもう、王子の中に入り始めている。



クラリッサは、広間の片隅に立っていた。

人々の怒号も、激論の波も、彼女の耳にはほとんど届いていない。

その眼差しは、あくまで一点──王子の立つ場所を静かに見守っている。


だが彼女の内側には、恐れも昂ぶりも、葛藤もなかった。


あったのはただ一つ。


王子の理想が実現されるかどうか。

その一点だけで、彼女は動く。


他のすべては、最初から存在しない。


国家への忠誠も、

王家への愛着も、

教会への信仰も、

自らの野心すらも──

彼女の内部には影も形もなかった。


ただ、王子が掲げたあの“未来像”が、

人物としての彼を越えて、

彼女の行動基準をすべて支配している。


クラリッサ(内心)

(殿下が望む未来は、今の世界構造では実現しない。

 だから……私が、周囲を整えなくてはならない。)


それは、忠誠ではない。

服従でもない。

愛情ですらない。


純粋に、目的の一点だけを選び続ける者の思考だった。


政治世界において、それは最も扱いづらく、

最も危険な存在となる。


派閥も、利害も、恐怖も、誘惑も、

何一つクラリッサを動かすことができない。


ただ王子の理想だけが、

彼女の行動を決める。


そのあまりに純度の高い“孤立”が、

周囲の政治家たちには、毒のように見え始めていた。


彼女は気づかない。

この孤立が、同時に“王子の心の中心”を占め始めていることに。



宮廷の空気が変わったのは、ナディアが姿を消したその翌日だった。


議場のざわめきは同じはずなのに、

どこか一本、軸が欠けている。

支えが抜け落ちたような、不自然な軽さが漂っていた。


そして、その空白を埋めるように──

クラリッサが“存在してしまっている”ことに、

誰もが遅れて気づき始める。


彼女は王子のすぐ背後に立つ。

しかし、側近席にも、女官列にも、諮問団にも属さない。


誰の命令も受けず、

誰にも従属せず、

誰の系統にも所属しない。


なのに王子は、明らかに彼女を必要とし始めていた。


(殿下が、彼女だけには口を閉ざさない……)


(あの女だけが、王子の決意を変えられる……)


(だが、彼女は誰の“味方”でもない……)


恐怖は、明瞭な形を取らずに広がる。


クラリッサには、行動原理の痕跡がない。

取引もしない。

利害も示さない。

恩を売ることも、求めることもない。


周囲は推測しようとするが、

推測するための材料がそもそも存在しない。


彼女は国家構造の外側に立ち、

内部に一歩も踏み込まぬまま、

王子政権の“決定”に静かな影響を及ぼし続ける。


排除しようにも、正当性がない。

王子の私的助言者に過ぎない者を排斥すれば、

それは宮廷全体の弱さを晒すだけだ。


だが、放置すれば──

王子の判断は確実に、

クラリッサという不可視の基軸に寄っていく。


ある参事官は、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。


「……沈黙の毒が、根を張ったな」


その瞬間、皆が理解する。


ナディア不在の政治空間は、

もはや元には戻らない。

均衡は崩れ、政権は片側に大きく傾いた。


そしてその“軸”に座するのは、

宮廷のどの派閥にも属さない、

ただ一人の異物──クラリッサだった。


この日を境に、王子政権は静かに変質を始める。

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