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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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第二章 花弁の目覚め 第二節 肉体の再認識と異化

指先が動いた。


その瞬間、空気が微かに鳴った。

音ではない。

香の振動だった。

彼女の皮膚が空間の芳香を撫で、分子が互いに名乗り合う。


白磁のような肌。

触れた場所に、微かな光が走る。

だがそれも光ではなく、“香の粒子”が視覚を模している。

空気の密度が濃くなり、指先の動きに沿って香がきらめく。


——


クラリッサは、冷静に観察した。


肌表面の温度、均一。

毛細血管の反応、異常なし。

呼吸による分子交換、安定。


ただひとつ異常がある。

この身体は香を発している。


それも、訓練された感覚でも分類できない複雑な構造。

薔薇の甘さと、微量の金属臭。

死と記録の匂いを内包した香。


「白磁の皮膚、薔薇の香……。

まるで人体という容器が、香を生成する機械のようだ。」


呼吸がわずかに乱れる。

彼女の脳は、この感覚を「異常」ではなく「環境の常態」として再分類する。

ここでは嗅覚が、知覚の中心。

香がすべてを定義する。


——


部屋の奥に鏡があった。


鏡面は光沢ではなく、芳香の反射面だった。

そこに映る像は、光ではなく“香の密度”で形を持つ。

濃い部分が輪郭となり、淡い部分が影になる。


彼女はその前に立った。


香の粒が微かに震え、輪郭が立ち上がる。

薔薇と毒を思わせる、青白い少女。

目元に宿る冷たい知性。

見知らぬ顔。

だが、そこにある呼吸のリズムは、彼女自身のものだった。


クラリッサ・ヴェイルではない。

クラリッサ・ヴァーレント──この世界における“彼女”の名。


「香水の匂い。肌の香。空気の香。すべてが情報だ。

ならば、私はどこまで分析すればこの夢が解ける?」


——


その問いは、報告でも祈りでもなかった。

嗅覚の海に投げられた、小さな信号。

世界は応答しない。

代わりに、鏡の中の少女が、同じ香を返す。


薔薇の香に、ほのかな毒の甘さが混じる。

それが、この世界における“微笑”だった。


——


クラリッサは理解する。

この身体は彼女のものではない。

けれども、この香の文法で呼吸する限り、

世界は彼女を「クラリッサ・ヴァーレント」と認識する。


そして彼女は、

その欺瞞をひそやかな快楽として受け入れた。


「了解。

新しい容器、問題なし。

作戦を続行する。」


——


空気が薔薇色に波打つ。

香が笑い、世界が微かに頷いた。

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