通信断絶:CIA由来通信網の喪失
執務室の奥、石壁に埋め込まれた旧式の通信盤が、かすかな振動を残したまま沈黙した。
本来なら──
外務省の暗号線が脈打ち、
亡命者ネットワークの短波が交錯し、
経済筋の裏ルートが微細な応答を返し、
CIA系の特殊プロトコルが金属のような高周波を発しているはずだった。
だが今、そのすべてが無音。
ナディアが捕らえられた瞬間から、世界そのものが音を失ったようだった。
宮廷技官が、青ざめた顔で通信盤の計器を見つめる。
「殿下……リンクが……沈黙しました。各回線、応答がありません。」
王子は振り返る。
声は冷静だが、目の奥に焦りが滲む。
「バックアップ回線は? 非常暗号はまだ生きているはずだ。」
「……殿下。」
技官は視線を落とし、喉を鳴らした。
「ナディア殿以外、扱える者がおりません。
形式も、解読手段も……我々には……」
その言葉が終わる前に、
執務室の空気は冷たく沈んだ。
王子の目が、通信盤の暗くなった灯を見つめる。
灯りは、まるで誰かの死を告げるように完全に落ちている。
技術はそこにある。
回路も鍵も全部残っている。
しかし──動かす手がない。
宮廷の誰ひとりとして、
ナディアの築いた“外界への回路”を理解できなかった。
王子は低く呟く。
「……世界が、消えた。」
その言葉が、執務室の静寂に落ちた。
各国からの非公式線は、まだ“こちらが生きている”と信じていた。
しかし、その信号は
王子の手元に届くだけで──
返す術がない。
一方通行の悲鳴のように、暗号波だけが執務室の受信盤に溜まっていく。
最初の短波は、小国の防衛参謀からだった。
『次の会談は予定通りか? 国境が動き始めている。指示を。』
続いて、亡命者ネットワーク。
『支援物資の投下地点を更新したい。応答を求む。
……殿下?』
欧州ルートからは、焦燥のにじんだ急信。
『動きが不穏。あなたの方で調整を急ぎたい。
すぐに返答を──』
だが、王子は返せない。
送信用の暗号盤は“死体”のように沈黙している。
ナディアが開いていた裏ルートは、
彼女の思考と癖と判断でしか維持できない特殊体系だった。
その鍵は、誰にも扱えない。
王子は受信盤に光る未読の信号を見つめたまま、息を止めた。
(……返せない。)
(私に届く声が……私からは届かない。)
その現実が、胸の奥で冷たく落ちる。
世界がまだ王子を求めているのに──
王子だけが、世界に触れられなくなった。
孤立は、沈黙の形でやってくる。
外交は死んだ。
王子は、世界から切り離された。
王子は、まだ続く怒号の海の中で、
ふと“自分の立っている場所”が変質したことに気づいた。
広間の隅。
クラリッサを非難する声、旧貴族派の罵声、侍従の報告──
それらが渦巻くただ中で、王子はゆっくりと呼吸を失う。
(……私は……
世界と繋がる回路を奪われた。)
胸の奥に落ちるその実感は、
怒りでも悔しさでもなく、もっと冷たいものだった。
(私は、また“国内政治の籠”に戻ったのか……?)
その言葉は、王子自身を締めつける。
彼が最も忌み嫌っていた構造──
教会の枠内で、
議会の監視下で、
古びた香政制度に縛られ、
今やクラリッサひとりの問題だけが炎上している閉鎖空間。
外へ伸ばした唯一の細い線は、
ナディアの消失とともに断ち切られた。
世界を見渡す窓は、いま閉ざされている。
視界に入るのは、
腐った内政と、濁った派閥争いと、
自分を束縛する古い秩序の檻だけ。
王子は握りしめた拳を緩められず、唇を噛む。
(……戻ってしまった。
私はまた、この国の籠の中に……)
その瞬間、彼は知る。
自分が失ったのは通信網だけではない。
“未来へ伸びる自由な手”そのものだった。
健次郎は、扉をくぐった瞬間に理解した。
ここは会議ではない。
議論の場ですらない。
ただの“感情の渦”だ。
怒声、非難、泣き言、責任転嫁──
大人の社会で何十回も目にしてきた、
「誰も論理的ではなく、誰も結論に近づかない場」の典型。
(ああ……これは、完全に破綻している。)
王子派と旧貴族派、侍従、神官。
全員が“自分の正しさ”だけを叫び、
誰も現実を見ていない。
(このまま感情任せで進めたら、
誰も得しないし、誰も救われない。)
呼吸ひとつで、健次郎の“社会人の顔”が切り替わる。
長年の経験で身についた、
地獄のようなカオス会議を沈めるための技法。
声色、立ち位置、視線の配り方、
沈黙と介入のタイミング──
それらを、ここに持ち込む。
健次郎は歩を進め、騒音の中心に立つ。
そして、沈黙を打ち込むように一言。
「……皆さん。
一度、整理しましょう。」
その声は不思議と通った。
怒鳴り合いが、まるで水をかけられたようにすっと静まる。
健次郎は、少しだけ空気の温度が下がったのを確認してから続ける。
「今は“感情”ではなく、“状況”を扱うべきです。」
その言葉で、場はようやく“会議の形”に戻り始めた。
健次郎は知っている。
混乱した場を救う方法はひとつしかない。
まずは、人の心の熱を下げること。
そして、ここからが本番だった。
広間の喧噪が一瞬だけ弱まり、
まるで心の隙間から風が吹き込むように、
王子の内側である“確信”が静かに形を取った。
(……私は、ナディアに依存していた。
いや……違う。)
胸の奥がひどく冷える。
ナディアが消えた今、その空白を埋める存在を考えると──
すぐに一人の名が浮かぶ。
(私を支えているのは……クラリッサだ。)
その結論は、言葉にするより早く身体が知っていた。
政治の荒波を前にしても動じず、
香りを持たない“無香の判断”で状況を切り分け、
誰よりも冷静に、誰よりも鋭く、
王子の進むべき方向を整えていたのは──
いつだって彼女だけだった。
通信網が死に、
貴族と神官が互いを罵り合うなかで、
王子の視線だけが自然と一点へ吸い寄せられる。
混乱の中心で、
ただ一人、音に飲まれず、
白い髪を静かに背へ落として立つクラリッサ。
その背中は、揺らぎを知らなかった。
(私は……彼女なしでは立てない。)
その気づきは甘くも苦く、
しかし否定のしようがなかった。
今の自分の権力構造は──
すでに偏りはじめている。
外務官僚でも、議会でも、軍でもない。
王子の政治は、クラリッサという一点に頼っている。
それは後に、
彼自身を縛り、
彼女を孤独にし、
二人を共に沈める“破滅的な共依存”の種となることを、
この時の王子はまだ知らなかった。




