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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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教会による強制拘束

無香の儀式が崩れ落ちた直後の宮廷回廊は、

本来あるべき声をすべてどこかに置き忘れたように静かだった。


倒れた香炉だけが、最後の務めを果たすかのように

薄い煙をまっすぐ天井へと送り続けている。

誰も片付けていない。

広間へ参列者が殺到したことで、

この一角だけが時間から切り離されたように取り残されていた。


回廊の灯りは控えめで、

壁にかけられた金細工の燭台がぼうっと揺れているだけ。

その淡い光が、石壁に長い影をつくる。


ナディアはその静けさを踏みしめるように進んでいた。

革靴の底が石畳に触れるたび、乾いた小さな音が反響する。

回廊に人の気配はない。

彼女の足音だけが、広い空間にぽつんと残された。


(早く……戻らないと。)

(殿下の通信網、あれだけの混乱なら一度完全に落ちてる。

 再起動して、優先度の高い連絡経路だけでも復旧しないと……)


儀式後の王子は、国内外の政治判断が一気に押し寄せる。

そのすべてに必要なのが、

ナディアの扱う“外部通信”だった。


本来であれば、今この瞬間──

王子のすぐ近くで彼の視線と声を受け取りながら、

動き続けているはずだった。


だが回廊は、あまりに静かだった。


煙の匂いだけが、彼女を包む。


ナディアは歩を速め、肩をひとつ強く揺らした。


(おかしい……。この時間帯に、こんなに誰もいないなんて……)


その違和感が胸の奥を掠めたちょうどそのとき。


“音のない気配”が、

回廊の奥から、ゆっくりと近づいてきた。


ナディアが違和感に首を傾けた瞬間だった。


回廊の奥──灯りの届かない石畳の暗がりから、

“白”がゆっくりと滲み出るように姿を現した。


白衣の審問官が二人、続いて三人。

歩幅は寸分違わず、足音も一つの音のように完全に揃っている。

その無機質な規律性が、人の形をした生き物というよりも、

“教会の意思そのもの”が歩いてくるような印象を与えた。


彼らは口を開かない。

冷たい石畳の上を進み、淡く揺れる燭光の前に立つと、

先頭の審問官が羊皮紙を掲げた。


羊皮紙は、歳月を吸い込んだような鈍い金色を放っていた。

教会治安局の令状──

古い形式ゆえに、それはどんな王命より重く扱われる。


ナディアの背筋に、冷たいものが走る。


審問官は一切の前置きなく、

人間的な抑揚を欠いた声で告げた。


「暗号士ナディア・レヴァレンタ──

 あなたを拘束する。」


その言葉は、予告でも警告でもなく、

ただ“確定した事実”を周囲に宣言するだけの響きだった。


ナディアは瞬きを一度だけして、

反射的に漏らす。


「……は?」


理解が追いつかない。

だが、白衣たちはその困惑すら“想定のうち”という顔で、

静かに距離を詰めてきた。


先頭の審問官が、淡い光を帯びた羊皮紙を静かに広げた。

紙が開くわずかな音さえ、この場では異様に大きく響く。


「王子殿下に対し、外部技術情報を不正に提供した疑い。

 教皇庁技術倫理条項、第二十六条に基づく拘束とする。」


感情の一滴すら混じらない声。

読み上げているというより、

“文章に刻まれた決定事項そのもの”が空気を震わせているようだった。


ナディアの喉が小さく震える。


「そんな……。私は殿下の命で動いただけです。」


審問官たちは応じない。

正面の男の瞳は、反射する光以外の何も映していない。


代わりに、後列から静かに二名の兵が進み出てきた。

無言のまま左右に立ち、金属の拘束具を開く。

油の匂いを含んだ鉄のきしみが、

場の緊張を鋭く切り裂く。


ナディアは、胸の奥に生まれた焦りを押し殺し、

かすかに息を整えた。


(これは“形式的な誤解”のはず。

 少し説明すれば──きっと解ける。

 だって、私は正規の命令で動いて……)


だがその希望は、

兵の無表情な手つきによって、静かに粉砕されていく。


拘束具を構える角度。

退路を塞ぐ位置どり。

審問官たちの沈黙と、微動だにしない態度。


──最初から説明の余地など、存在しなかった。


それは、ナディア自身よりも先に、

この場の空気がはっきりと告げていた。



兵の手がナディアの腕を拘束具へ導く寸前、

正面の審問官が、ふと視線を落とした。

その瞳は氷のように冷たく、

彼女を“個人”としてではなく、

解析済みの危険物として見下ろしていた。


「女性が、王子の通信基盤にアクセスしていた。

 これは重大な危険因子だ。」


言い方は事務的。しかし、その内容はあまりに露骨だった。


ナディアは思わず口を開く。


「……“女性”だから、ですか。

 私ではなく、技術ではなく。」


短い沈黙があった。

が、それは逡巡ではなく、

ただ返答の順番を確認するための時間に過ぎなかった。


審問官はためらいなく言い放つ。


「そうだ。」


その一言が、回廊の空気から最後の体温を奪った。


ナディアの背に冷たい理解が落ちていく。


(ああ──そういうことか。)


彼らの本当の恐怖は、

自分が王子へもたらした技術でも、

解析した異文化データでもない。


“女性という異物”が、

王子の中枢──通信、判断、視界、権力の流れ──

そのどれかに入り込むこと。


それが教会の秩序と価値観を揺るがす“兆候”だったのだ。


つまり、ナディアはただの一例ではない。

“最初に切り捨てるべきサイン”だった。


審問官の視線がその全てを物語っていた。

彼らはナディアを敵視しているわけではない。

理解する気すらない。

ただ、排除すべき“構造上のリスク”として処理しているだけ。


(だから私が最初……。

 殿下の周囲を封じ込めるには、まず私が邪魔だった……)


理解した瞬間、

拘束具が金属音を立て、ナディアの手首を固く閉ざした。



審問官は、淡々と息を吐くように命じた。


「連行せよ。」


その瞬間、左右の兵士が同時に動く。

ナディアの腕を掴む手は容赦がなく、

まるで彼女の骨格まで把握しているかのような精密な力加減で拘束した。


ナディアは反射的に身体をひねる。


「離し──ッ!」


だが抵抗は、ひどく軽い抵抗にしかならなかった。

兵士たちは無表情のまま、彼女の腰のポーチを外し、

懐に差し込んでいた通信端末と暗号鍵を次々に没収していく。


金属片が手袋に触れる微かな音が、

彼女の“仕事”と“王子への道”が剝ぎ取られていく感覚と重なった。


ナディア(胸中)

(王子殿下……助けを──)

(いや……駄目。殿下は今、動けない。

 あの方の周りは……教会と議会の火種だらけ……)

(クラリッサの件で、国家が揺れている……)


心臓の鼓動が喉元にせり上がる。

呼び出しコードさえ入力できれば──

ただひと声かけられれば──

そう思った瞬間、その手段はもうすべて奪われていた。


兵士たちは、ナディアの宮廷通行証を確認し、

審問官へ差し出した。


審問官は証を掌で裏返し、

あまりにも簡単に、

羊皮紙の中へと押し込んだ。


「通行権は剥奪した。

 以後、宮廷施設への進入は許可されない。」


無造作に言い捨てられたその言葉が、

鎖より重い拘束だった。


(殿下……ごめんなさい……)

(私……最後まで、“仕事”として守りたかったのに……)


彼女はようやく悟る。

“王子を煩わせてはいけない”

そう思った、その一瞬のためらいこそが──

彼女に残された、最後にして最大の失敗だった。


兵士の手が彼女を引きずるように前へ進める。

石畳の回廊が遠ざかる。

香煙の漂う宮廷の空気が、背後で静かに閉じていく。


ナディアの世界は、音も匂いも色も、

すべてが奪われていった。



広間は、蒸気のような熱気を帯びた怒声で満ちていた。


「クラリッサを即刻排除すべきだ!」

「危険因子です、殿下。前例がありません!」

「儀式結果を説明していただきたい!」


王子の周囲には、旧貴族、神殿代表、王宮官僚──

立場も思惑も違う十数名が、渦のように押し寄せていた。


王子は喉奥にわずかな違和感を覚える。


(……ナディアが見当たらない)


いつもなら、広間の隅で控え、

暗号端末を抱えて次の指示を待っているはずだった。


だが思考を割く隙間は、

一瞬で激論に呑まれる。


「殿下、香政制度の再定義が必要だ!」

「クラリッサの立場を明確に!」

「教会はすでに声明を──」


次から次へと押し寄せる報告書、要求、圧力。

王子は視線を巡らせるだけで精一杯だった。


その視界の端で──

白衣の審問官兵が、静かに広間を横切っていく。


ゆら、と白衣が揺れる。


王子はその影に一瞬だけ視線を止めた。

しかし誰かが肩を掴み、怒声を浴びせる。


「殿下、回答を!」


白衣の影は、そのまま人の波に吸い込まれた。


王子は──

“その意味”を、まだ知らない。

知らされるには、あまりにも遅すぎる。


石畳の回廊は、もう誰の気配も残していなかった。

ただ、白衣の兵士たちに囲まれたナディアの足音だけが、

冷たい壁に淡く反響していた。


両腕は固く掴まれ、指先の血が引いていく。


(殿下……まだきっと気づいていない……

 でも……それでいい。あの方は今──)


白衣の兵たちは一切話さない。

淡々と歩き、回廊の終端にある“白い扉”の前で止まった。


地下聴問室──

教会治安局が誇る、もっとも閉ざされた空間。


鉄ではなく、石でもなく、

磨り減った大理石に薄い金膜が張られた扉は、音すら飲み込む。


兵士が無言で扉を押し開けると、

下から冷気が吹き上がった。


ナディア

「……殿下……どうか……無事で……」


呟きは吐息よりも弱く、

誰にも届かない。

だが彼女の胸の底から自然に漏れた祈りだった。


次の瞬間──


ガチャン、と重い錠の落ちる音が響いた。


扉は容赦なく閉じ、

その音が回廊の静けさを切り裂いた。


音が完全に消えたとき。

王子の外交能力、通信網、秘密の連絡経路は──

すべて断ち切られていた。


ナディアという“王子の外界への唯一の窓”は、

いま閉ざされた扉の向こう側に消えたのだ。


続けて「8.王子がナディア拘束の報を聞く瞬間」「9.クラリッサが“代替不可能な毒”として動き出す」を展開可能。


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