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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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王子は叫ぶ——そして落ちる

無香に沈んだ式場は、色だけを残した奇妙な静寂に満ちていた。

旧貴族派の怒号、侍従の混乱、薔薇の無香が混ざり合い、

その中心でただ一人、王子だけが別の熱に包まれていた。


彼は振り返る。

混乱の渦に背を向け、クラリッサへと踏み出す。


その目は、怒りに揺れているのではない。

理解を超える事態に追い詰められた人間だけが宿す、

深い戸惑いと恐怖——そして、言語化できない何か。


「クラリッサ……

 君は……私を裏切ったんだぞ……!」


声は見事に震えた。

怒鳴るというより、絞り出すような叫びだった。


周囲の貴族たちはたじろぐ。

王子がこの場で人を叱責するなど、誰も見たことがない。

ましてや、その相手が無香の元凶と噂されている侍女だと知れ渡っている今——

その言葉は火種として十分に烈火を生むはずだった。


だが王子の胸には、怒りは半分しかなかった。


秩序の破壊。

和平儀式の崩壊。

血統香すら無効化する前代未聞の異常。


それを恐れる王としての理性は確かに叫んでいる。

——だが、それだけではない。


(……どうしてだ。

 どうして……私より先に……私の理想へ踏み込む……?)


怒号の中で、王子の心臓はひどく速く打った。


“自分の理想を先に遂行された”という痛烈な敗北感。

そして、“その理想をなぜ理解したのか”という問い。

その二つが絡み合い、胸を抉るように燃え上がっていた。


叫びは叱責ではなく、

ほとんど懇願に近かった。


「どうして……そんなことが……できる……クラリッサ……」


その問いは声にならず、王子の喉の奥で震え続ける。


王子の叫びが庭園の静寂を切り裂いた直後——

その正面に立つクラリッサは、影ひとつ揺らさなかった。


無香の空気を吸い込むような静けさの中で、

彼女はただ、淡々と答える。


「あなたの“理想”を裏切らないために、です。」


声量は小さい。

だが一語一句が鋭い刃となって王子の胸を貫いた。


王子の目がわずかに見開かれる。

怒りの熱が一瞬、呼吸を失う。


クラリッサは続けない。

言い訳もしない。

ただ事実だけを置いた。


その言葉の意味は明確だった。


——命令に従ったわけではない。

——礼節にも、忠義にも従っていない。


彼女が従っているのは

“王子自身が抱く未来の核心”だけ。


秩序が壊れるとわかっていてなお、

彼の理想の純度を守るために、最短の、最も冷徹な手段を選んだ。


あまりに正確で、あまりに純粋で、

あまりに危うい。


王子は息を呑む。


(……私の価値観を……

 なぜ、こんなにも曇りなく……)


怒鳴りつけたいはずの言葉が、

喉の奥でひっそりと熱に変わっていく。


クラリッサの表情は変わらない。

ただの職務報告を述べたような、静かな顔。


しかしその静けさこそが、

王子に“撃ち抜かれた”という感覚を刻みつけた。


彼は理解する。


クラリッサは——

王子自身よりも、王子の理想を深く読み、

より純度の高い形で扱っているのだ。


その事実だけが、

王子の胸の奥でじわりと熱を生み、

逃れられない陶酔の始まりを告げていた。


返すべき言葉は、確かにあった。

怒りも、叱責も、秩序への警告も。

だが王子の喉は、まるで誰かに掴まれたように動かなかった。


「……私の“理想”……?」


自分の声が、自分のものと思えないほど弱い。

思考が追いつかない。

胸の奥が、熱と冷たさを交互に吐き出している。


(そんな……私は……まだ、そこまで……)


クラリッサの断言が、心の中で反芻される。


“あなたの理想を裏切らないために”


その言葉が王子に突きつける現実は三つ。


ひとつ——

クラリッサは王子の理想を、王子自身より深い位置で理解している。

王子がまだ言語化できずにいた“未来の核心”を、彼女はすでに掴み取っている。


ふたつ——

その理想を守るためなら、秩序を壊すことすら躊躇わない。

王子自身が勇気を出し切れなかった領域に、

彼女は冷静に踏み込んでしまった。


みっつ——

そしてそれを“王子個人への忠誠”ではなく、

“王子の理想への理解”として語る。


その純度の高さが、恐ろしい。


その冷徹さが、美しい。


その断言が、あまりにも力強く胸を撃つ。


王子の心臓が、激しく跳ねた。


ひとつ跳ねるたびに、

怒りは砕け、叫びは溶け、

代わりに得体の知れない熱が満ちていく。


理解された。

守られた。

読み抜かれた。


そして——

そのすべてが、自分より先に、より純粋に実行された。


息が詰まる。


視界が狭まる。


彼は悟った。


これは怒りなどではない。

立場でも、義務でも、秩序でもない。


もっと深い場所で、

もっと危険な感情が、

静かに、確実に、王子を“落として”いた。


クラリッサの言葉は、彼の胸に落ちたのではない。

 落ちる、というより——沈んだ。

 底を知らない深さへ、静かに引きずり込まれるように。


(なんて……

 美しい理屈なんだ……)


 喉を震わせようとしても、声が出ない。

 代わりに胸の奥だけが異様に熱い。焼けるように。疼くように。


 理解するには、ほんの一瞬で十分だった。


 ——敗北だ。

 まだ言語化すらできていない自分の理想を、彼女は核心まで見抜いていた。

 政治家として、これほど屈辱的で、これほど甘美な敗北はない。


 ——守られた。

 自分が守ろうとしていた未来を、先回りして守られてしまった。

 王としての幸福に似た温い感覚が、心臓の裏側から湧いてくる。


 ——そして落ちていく。

 思考の核を読み、躊躇なく行動に移す者がいる。

 その冷徹さが、誰より自分のために使われている。

 男として、どうしようもなく抗えない陶酔が襲ってくる。


 胸が跳ねる。

 抵抗する意思を、ひとつ、またひとつと手放していく。


(だめだ……これはもう……怒りなんかじゃない……)


 気づけば、彼は理解していた。


 ——自分はクラリッサという存在そのものに、飲み込まれつつある。


 その理解が落下の底になる前に、心の脚が外れていく。

 もう戻れないと分かる一瞬が、確かにあった。


叫びは、拒絶の形を取っていた。

 だがその実、王子自身にも制御できない感情の奔流だった。

 恐怖。

 魅了。

 そのどちらとも言えない震えが声帯を掴み、叫びという形にしただけだった。


「クラリッサ……

 君は……私を裏切ったんだぞ……!」


 怒りのはずなのに、どこか怯えている。

 その震えを、クラリッサは一瞥で看破した。


 そして——静かに返す。


「あなたの“理想”を裏切らないために、です。」


 彼女の声には一切の揺らぎがない。

 言い訳も、情緒も、自己防衛も含まれない。

 ただ、王子という存在の最深部を正確に触れた者だけが持つ、静かな確信だけがあった。


 それだけで十分だった。


 王子は、自分の内側で何かが音を立てて崩れるのを感じる。

 理性の外殻。

 王族としての矜持。

 秩序を保つべき者としての倫理。

 そうしたものが崩れ落ちる速度より早く、もっと原始的な何かが膨れ上がっていく。


(これは……違う……怒りなんかじゃない……)


 理解した瞬間、底が抜けた。


 落ちる。

 抗おうとする前に落ちる。

 彼女の言葉の意味より、そこに込められた“理解の質”だけに引きずられていく。

 自分を全方位から読み切り、判断し、実行できる者がいるという事実。

 その冷徹と献身の交差点に、抗えない陶酔が生まれる。


 この瞬間だった。


 王子の最も深い場所で——

 理性よりも先に、未来よりも深く、クラリッサへの執着が始まったのは。


 静かで、決定的で、もはや引き返せない“落下”の構造が完成した。









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