全員が“無香”になる
――血統香の瓶が開かれた。
銀の栓が外れる乾いた音が、
静まり返った庭園に小さく、澄んで響く。
次の瞬間には本来、光にも影にも似た香色が立ちのぼり、
純血と混じりを残酷なまでに区別するはずだった。
上香は白金にきらめき、
下香は淡く沈む影となる——
それが、この国の“真実の証明”の仕組み。
だが。
立ちのぼるはずの光が、ない。
影も、ない。
そもそも香の層そのものが、
瓶の口元から一つも溢れ出してこない。
まるで空瓶だ。
しかし液面は確かに揺れている。
芳香液はそこにあるのに、“香”だけが存在しない。
旧貴族派筆頭の男が、目を細めた。
「……? 今のは……?」
声量は抑えられているのに、
その一言が周囲の緊張を一気に引き上げる。
最初に気づいた者たちが、
かすかな息遣いで互いの香を探るように視線を交わす。
「香が立っていない……?」
「いや、そんなはずは……少し角度を変えれば……」
庭園のほとんどは、まだ“気のせい”程度のざわめき。
ただの遅れだろう、と自分たちに言い聞かせるように。
だが、瓶を持つ侍従は指先が震え、
王子は静かに眉根を寄せていた。
違和感だけが、確実に世界の中心に置かれ始めていた。
異変は、唐突だった。
血統香が立たなかったことに戸惑う声がいくつか上がった——
その、ほんの一拍後。
ふ、と。
庭園の空気そのものが、音もなく裏返されたように、
すべての香が同時に消えた。
濃厚な古典香を纏う上位貴族の一団が、
まるで霧に触れた瞬間の炎のように
香の存在を失っていく。
若い貴族たちの流行りの軽香も、
侍従たちが儀礼のためにまとった礼香も、
ゆっくりと、しかし抵抗する暇もなく——
消滅した。
薔薇の花弁が風に揺れる。
色は鮮やかなのに、
そこにあるはずの柔らかな芳香がまったくない。
「……え?」
誰かが、喉の奥で漏らした。
人の姿はある。
衣も宝石も光を放っている。
だが、その人らしさを示す“香”が、一つとして感じられない。
無香。
あまりにも完全な、絶対的な無香。
空間そのものが沈黙したような感覚が、
参加者全員の脳を冷たく掴んだ。
「ちょ、ちょっと待て……」
「私の香が——ない……?」
「どういうことだ、これは……?」
ざわりと、空気がひずむ。
香気が消えたというだけで、
人間はこれほどまでに不安になるのかと
誰かが震えた指で胸元を押さえる。
風が吹き抜ける。
その音だけが、生々しく響いた。
世界から“香”という概念が抜き取られたような異常。
理由がわからないからこそ、
恐怖は一気に広がり始めていた。
最初に音を上げたのは、皮肉にも“伝統”を誇る旧貴族派だった。
「わ、私の香が……!
この香は、代々の家にだけ許された——」
震える手で胸元を押さえる男の顔色が、
薔薇の影よりも青くなっていく。
「そんなはずがない、さっきまで濃かったのに!
どうして消える……? どうしてだ!」
「ま、まさか……無香?
無香だと、いうのか……!」
“無香”。
その言葉が、まるで呪いのように周囲へ伝播した。
礼香を身にまとうことこそが、
自己の存在や地位を可視化するこの世界において——
香を失うことは、存在証明の剥奪に等しい。
一人が恐怖を吐き出すと、
それはすぐさま感染した。
「これは儀礼の破壊だろう! 誰がやった!?」
「無礼では済まぬ! これは、我らへの侮辱だ!」
「いや……違う。これは——叛逆だ!!」
叫びが重なり、庭園は一瞬にして混乱の渦へ。
血統香の発表など、もはや誰の頭にもない。
伝統を示すべき“香”が失われた恐怖が、
彼らを我先にと荒れさせていく。
薔薇の庭園は、香を失っただけで——
ここまで容易く崩壊するのかと、
誰もが思い知らされるほどに。
侍従たちですら、動揺を隠せなかった。
「こ、香炉の火は……正常に灯っています!
なのに、香が……立ちません!」
「殿下……殿下の礼香まで薄れて……いえ、完全に……!」
「これでは……儀式が……成立いたしません……!」
儀式の場にふさわしい端正さを保っていたはずの侍従たちが、
薔薇の影の中で右往左往し始める。
旧貴族派はさらに惨状を深めた。
胸元、袖口、襟元——
それぞれが自分の“香の在り処”を確かめるように
衣服を何度も握りしめる。
だが、そこにあるはずの誇りの香はどこにもない。
「な……ない……!
我が家の古香が……!」
「嘘だ……香が、消えるはずが……!」
「香階が……判別できん……!」
一人、また一人と顔色が抜け落ちていく。
香の階級を重んじるこの世界で——
香が消えることは、自分たちの“存在根拠”が消えること。
千年続いた階級制度が、
ただの白い霧一つで“空白”になってしまった。
旧貴族派にとってその瞬間は、
王家の威光でも、改革の理念でもなく、
たった一瞬の無香化によって“自分たちの世界が終わった”
と理解せざるを得ない、絶望の時だった。
王子は、混乱が渦を巻く庭園の中央で、
そっと浅く息を吸い込んだ。
——その瞬間、悟る。
(……これは、クラリッサの仕業だ)
周囲では叫び声と怒号が飛び交い、
侍従は走り、旧貴族派は蒼白になり、
儀式の秩序は完全に崩れ落ちている。
だが王子だけは違った。
その無香の静寂の奥——
ごく微細に揺れる“調和”を嗅ぎ取っていた。
一般の香官なら絶対に気づけぬ、
わずか一筋の均質な流れ。
香が消えたのではない。
すべての香が、意図的に——均一の“ゼロ”へ整えられている。
(……美しい)
胸の奥で、そんな言葉が自然に立ちのぼる。
階級の香も、血統の香も、
嫉妬も、優越も、支配欲も。
すべてをいったん“無”に戻し、
全員を同じ始点に立たせる、
冷徹で、正確で、そして——どこまでも静謐な技。
(すべてを無にして、すべてを等しくした)
混乱の中心で、ただひとり。
王子だけが、そのゼロの美しさに息を呑んでいた。
クラリッサは王子の背後、
定められた位置から一歩も動かず——
崩壊する庭園の喧噪を、まるで別世界の出来事のように眺めていた。
旧貴族派の叫びも、侍従の混乱も、
血統香の失敗に震える空気も。
彼女のまぶたは、微動だにしない。
眉も口元も、ひとつの揺らぎすら見せない。
ただ、均質な無香の静寂だけが、
クラリッサの周囲に薄い膜のように漂っていた。
内心に浮かんだのは、
たった一行の、確信だけ。
(これで、誰も殿下を“香で裁けない”)
それ以上の感情はない。
勝利の喜びも、敵への嘲笑も、自己の誇示も——どれも必要なかった。
ただ目的を果たした、
正確な香官としての静かな結論。
クラリッサは無表情のまま、
再び“沈黙という香”に戻っていった。
薔薇の色は変わらず鮮やかだった。
しかし、その下で築かれてきた秩序は、
香一つで形づくられた砂の城にすぎなかったと、
誰もが初めて思い知る。
貴族たちが守り続けてきた文化——
階級を香で示す誇示。
血統を香で計る残酷な儀礼。
政治を香で支配する、目に見えぬ鎖。
そのすべてが、
クラリッサの散布したたった数滴の霧によって
一瞬で“無効化”された。
風に乗った中和剤が過ぎ去った後に残ったのは、
完全なる無香の静寂。
王子はその静寂に立ち尽くし、
胸の奥で確信する。
(この“ゼロの香”……
これこそが、クラリッサが世界を救うときの——
“刀”だ)
香を加えるのではなく、
香を消すことで、世界の形を変える。
その異端の才を、
薔薇の午後に集った者たちはまだ理解できない。
だが同時に、肌の奥で本能的に震えていた。
——この少女は危険だ。
——この少女は、美しい。
そして王子だけが知る。
今、目の前で静かに立つ無香の少女こそ、
後の時代を変える最初の風であることを。




