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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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クラリッサの静かな“介入”

王子の背後で、空気がわずかに揺れた。


ほんの指先で触れたような、かすかな波紋。

衣擦れの音すらない。

だが、その沈黙の向こうで——クラリッサが一歩、動いた。


庭園の薔薇が風に撫でられたのかと思うほど、些細な変化。

貴族たちの視線はなお血統香の小瓶に注がれ、誰一人として気づかない。

誰も、あの無音の一歩が何を意味するのか知らない。


ただ一人、王子だけは息を止めた。


(……動いた)


背後の気配が、ごく細い線のように研ぎ澄まされる。

彼が振り返らなくても、そこに立つ女がいま何を決めたか、はっきりわかる。


——始めたのだ。

クラリッサが、静かに、確実に。


その一歩が、この薔薇の午後における“介入の始まり”であることを、

王子だけが感じ取っていた。



クラリッサの表情は、薔薇の影よりも静かだった。

呼吸も姿勢も変わらない。まるで、この場に立つただの香官。


だが、その内側では——

怒りとはまったく異なる、冷たく乾いた評価が進んでいた。


(血の香で階級を縛る?

 そんなもの、香としての持続性も再現性もない。

 環境香に影響されればすぐ歪む。

 “真の秩序”どころか、混乱の種でしかない)


旧貴族派が誇らしげに掲げる小瓶を見ながら、

彼女は淡く、淡く思う。


(……粗雑)


政治利用に値する精度も、

人を操るだけの安定もない。

ただ“差別の儀式”を飾るためだけに作られた、愚かな香。


怒る価値すらない。


だからこそ、彼女は静かに結論へ至る。


(——断つべきものは、あれだけ)


その冷笑じみた無表情は、誰の目にも映らない。

けれど、その瞬間すでにクラリッサは

薔薇庭園の運命を決めていた。

クラリッサは、わずかな布の揺れすら生まれないように

袖口へ指をすべらせた。

白い指先が、長衣の内側を静かに探る。


そこに隠していたのは——

細く、軽い、小さな香袋。


ほんの数刻前、

旧貴族派の“血統香”が式次第に組み込まれていると察した瞬間、

彼女が即興で調合したものだった。


香料というより、ほとんど“霧”だ。

香を上書きするのではない。

香を打ち消すのでもない。


——香そのものを、根元から“無香”へ戻す。


(短時間しかもたない。

 でも、この場を崩すには十分)


その落ち着きは、

まるで料理人が塩の量を見極めるような精度。


敵が何ヶ月も準備した香を、

彼女は即興で破壊する算段をつけている。


香袋の口を、指先が静かにひらく。

外見は沈黙のまま。

けれどその動作の裏には、

圧倒的な“香の支配者”としての力が潜んでいた。


クラリッサは、香袋の口をわずかに傾けた。


ほんの数秒。

呼吸すら揺らさない静寂のなかで、

彼女の意識は庭園全体を精密な図面のように走査していた。


——南東から吹く微風、秒速一未満。

——薔薇の香層は膝下から胸元まで三段。

——貴族たちの立ち位置が生む“香の影”。

——血統香の瓶が開くときに発生する軽い上昇気流。

——円庭中央の噴水がつくる、風のわずかな乱れ。


それらすべてが“見える”。


彼女の頭の中で、透明な線がいくつも交差し——

霧が最短で、均一に、すべての者へ届く角度が導き出される。


(……ここ)


クラリッサの右手が、ほんの5度ほど傾く。


それだけの動作に、

“血統香”の効果を無効化し、

貴族たちの誇示も、罠も、政治もまるごと無化するための

恐るべき計算が詰まっている。


※その計算は、ほかの香官には不可能だった。

※香の流れを“予測”ではなく“確定”させる才。


——静謐にして致命的な天才。


白磁の茶器が触れ合う微かな音に紛れて——

クラリッサの袖が、ほとんど“影の揺らぎ”ほどの幅で動いた。


一見して気づく者はいない。

だがその内側で、彼女の指が香袋をほんのわずかにひねる。


――ぱさり。


音ではなく“感触”だけの変化。

次の瞬間、袋の口から白銀めいた細霧がふわりと立ちのぼった。


光を受けた薔薇の花弁の反射にも見える、柔らかい粒子。

香の専門家ですら「埃か?」と錯覚するほど自然で無害に見える霧。

人為的な匂いは一切しない。


霧は風に抗わない。

薔薇の隙間をくぐり、

庭園の曲線に沿って、

そこに“もともと存在していた空気”であるかのように溶け広がっていく。


微風がその道を案内する。

陽光が霧に触れ、反射して消える。

気づく者は一人もいない。


だがクラリッサだけが知っている——

今、庭園の空気が“均一”になり始めたことを。

どの血統香も、どの誇示の香も、

薄れ、混ざり、やがて“無香化”へと落ちていく。


その様はまるで、

政治の匂いを静かに溶かし消す、

透明の革命だった。


ChatGPT:


数秒後——。


庭園の空気は、誰にも気づかれないまま“別のもの”へと変質していた。


薔薇の香がまず、音もなく揺らぐ。

花弁の層から立つ芳香の“高さ”が、わずかに低くなる。


次に、貴族たちの纏う人工香がふっと“重さ”を失う。

古典的な香調も、誇示のための強い香りも、

どれも輪郭が曖昧になり始める。


旧貴族派の上香も、

王子派の軽やかな香も、

すべてが薄膜のようにほどけ、混ざり、均されていく。


だがその変化には、音すらない。

劇的な揺らぎもない。

風が少し向きを変えた、と言われれば信じてしまうほどの自然さ。


王子は、一瞬だけ胸のざわめきが和らぐのを感じた。

理由は分からない。

ただ、場の“圧”がわずかに減った。

血統香が放つはずだった差別の緊張が、

どこかへ流れ落ちたように感じられた。


(……気のせいか?)


その違和感に気づけるのは、

王子の背後に立つ少女だけだった。


クラリッサの霧は——

庭園全体を、

“血統香が決して発動しない空気”へと変え終えていた。


クラリッサは依然として、王子の背後で一切動かない。

庭園の空気が静かに変容しつつあることを、

彼女だけが“確定事項”として受け止めていた。


わずかに伏せられた睫毛。

揺れない呼吸。

そのすべてが“準備完了”を物語っている。


彼女の沈黙は、王子にだけ届く。


(殿下。どの言葉を選ばれても大丈夫。

 どの道を踏んでも——もう、敵の香は届きません)


それは忠告ではなく、報告に近い。

既に罠は無効化されているという、

彼女なりの“先に斬っておきました”の合図。


王子はまだ気づかない。

自分がこれから踏み出す言葉の地面が、

すでにクラリッサの手で静かに整えられていることに。


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