表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/69

薔薇の午後——和平茶会の開幕

初夏の光が王宮外苑の「薔薇の円庭」を満たしていた。

白、深紅、淡紫——数百種の薔薇が輪を描くように咲き乱れ、

その香気は層になって空気を震わせている。


だが、庭園が放つはずの豊かな香りは、今日に限って押し返されていた。


貴族たちが身にまとう“人工香”が、

薔薇の息づかいをねじ伏せるように濃く、重く、空を占領していたからだ。


軽やかな柑橘と草原の香——王子派。

古典的な重香木と黒薔薇の香——旧貴族派。


両陣営の香の層が、目に見えぬ刃のように互いを牽制し、

ただ華やかであるはずの空間に、微かな刺のような緊迫を刻んでいる。


庭園中央には白磁のテーブルが整然と並び、

紅茶の湯気がふわりと立ちのぼる。

茶葉の香りと薔薇の甘さが混じり合う——

しかし最も濃く漂うのは、どの花でも茶でもない。


政治の匂いだった。


白磁のテーブルが半円を描くように並べられた中心、

主賓として王子が静かに腰を下ろす。

日差しに淡く照らされたその姿は穏やかに見えるが、

胸中には薄い警戒の膜が張っていた。


その背後に——影のように、クラリッサが控える。

肩幅すら取らぬ距離で、しかし存在感を押し出すこともなく。

ただ“香官”としての位置に立ち、

必要以上の気配を発しない淡々とした佇まい。


それとは対照的に、旧貴族派の貴族たちは

王子のほうへ向けて香をわざと濃くしていた。

誇示のための香、

威圧のための香、

示威のための香。


重く、くぐもり、濃厚な香調が、

薔薇の庭に不自然な影を落とす。


(……聞かせたい、というわけか)


王子は表情ひとつ変えずに受け止めるが、

クラリッサはまるで“何も感じていない”かのように微動だにしない。


その無反応さが、逆に相手の思惑を空回りさせる。

重ねた香の圧力は、彼女の沈黙に吸い込まれてしまうのだ。


テーブルの端で控える侍従たちは、

慣れているような顔をしながらも

どこかぎこちなく視線を動かしていた。


——旧貴族派が“何か”を準備しているらしい。


そうした噂は、下働きの耳にも十分届いている。

湯気の立つポットを運ぶ手つきにも、

かすかな落ち着きのなさが滲んでいた。


圧力と沈黙が、

薔薇の庭の風を重くしていく。



薔薇が満開のはずの庭なのに、

王子の胸には薄い膜のようなざわめきが張りついていた。


ひと息吸う。

花の香、茶の香、そして貴族たちが纏う人工香——

そのすべてが層となって流れているはずなのに、

どこかが歪んでいる。


“待っている香”だ。


(……来る。

 何か仕掛けてくる気配が濃い。)


薔薇の柔らかな甘さの下、

別の香りが潜んでいるような、

しかし実際には存在しないはずの“匂わない匂い”。


それが胸にひっかかり、

指先の血の気をひとつだけ奪っていく。


王子はゆっくりと呼吸を整えた。


(この歪み……

 香の政治に、また一手が打たれる。)


危険に敏感になりつつある自分を、

少しだけ自覚しながら。


クラリッサは、王子の半歩後ろに立っていた。


庭の薔薇が濃密に香ろうとも、

旧貴族たちが誇示する重い香気が渦巻こうとも、

彼女の呼吸は微塵も乱れない。


その静けさは——

まるで**「すべてはもう読み終えた物語」**を前にしている人間のものだった。


王子は振り返らない。

だが、その沈黙の意味だけは確かに読み取れる。


クラリッサの沈黙は、いつも同じだ。


「敵の動きは、すでに把握しました」


そう告げる音のない合図。


王子の胸の奥で、予感がわずかに熱を帯びる。


(……クラリッサ。

 君は、もう対処法まで決めているんだな。)


黒漆の箱が、旧貴族派の輪の中心へと静かに運び込まれた。


漆黒の面には一切の装飾がなく、

ただその“異様な存在感”だけが周囲の香気を押し返す。


その上にかけられた薄い金布は、

下に隠された物の輪郭をわずかに映し出していた。


——香炉の形。


その瞬間、旧貴族たちの表情がわずかに引き締まる。

まるで合図を受けた兵のように、緊張が一斉に眉間へ収束する。


彼らは“それ”が何であるかを知っていた。

そして、それを隠すつもりもない。


王子は視線だけでクラリッサを探る。

問いかける気配を瞳に込める。


だが——

彼女は微動だにしない。

呼吸の深さも、瞼の位置も、髪の揺れも変わらない。


完全な沈黙。


しかしその沈黙こそ、王子には確信の証だった。


(やはり……あれは“噂の新香料”か。)


血統を可視化すると囁かれていた、あの差別の香。


薔薇の香りが濃いはずなのに、

王子の鼻には、黒い箱が放つ“未来の悪臭”だけが刺さっていた。




旧貴族派の輪の中央で、

金糸の刺繍を施した礼服の男がゆっくりと立ち上がった。


薔薇の風が一瞬止む。

庭園全体が「次の言葉」を待つように静まる。


男は顎を上げ、芝居がかった声音で宣言した。


「本日は、我らが血統と歴史の尊厳を示すため——

 新たなる“香の真価”をお見せいたしましょう」


その一言は、庭に咲く薔薇をすべて“背景”に変えてしまうほどの傲慢さを帯びていた。


薔薇の午後は、

平和のための茶会から——

血統の匂いを暴く“儀式の午後”へと姿を変えていく。


王子の胸に、さらに濃い嫌な予兆が押し寄せた。

冷たいものが背を撫で、指先がわずかに震える。


(来る……これは、大きく場を歪める香だ)


王子の半歩後ろに立つクラリッサは、やはり何も言わない。


だがその沈黙が告げていた。


——これは破壊するしかない、と。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ