第二章 花弁の目覚め 第一節 香の世界への帰還
暗闇の底で、まず香が生まれた。
光よりも早く、音よりも確かに、
香だけが世界を形づくっていく。
それは透明な波として漂い、見えない手で闇を撫で、
空間の骨格を組み立てていった。
「まず、匂いがあった。
それが光を押しのけ、世界を描いた。」
香の層が重なり、
布が生まれ、空気が生まれ、肌が再構成される。
すべての物質は、分子の匂いによって輪郭を持つ。
まるで嗅覚が神の筆跡であるかのように。
——
クラリッサは、目を開く前に呼吸を意識した。
訓練の記憶が自動的に作動する。
呼吸数、心拍、環境反応。
全てが静かに、異常だった。
息を吸う。
世界が立ち上がる。
薔薇の甘さ、金属の冷たさ、朝の空気の湿度。
すべてが一斉に形を取る。
息を止める。
輪郭が崩れ、世界が凪ぐ。
音も光も遠のく。
再び吸えば、光が戻る。
「呼吸は、ここでは通信だ。
吸えば世界が更新され、吐けば記録が消える。」
——
彼女はゆっくりと瞼を上げた。
その動作すら香の動きとして翻訳され、
まつげが微かに動くたびに、空気が甘く震えた。
視界は淡い薔薇色。
しかしその色は、光ではなく香によるものだった。
香りが目に見える。
薔薇の香が天蓋を染め、
布の香が風の形を取る。
クラリッサの理性は警鐘を鳴らす。
この世界は知覚の構造が違う。
五感の主軸が嗅覚へと組み替えられている。
——
息を深く吸う。
すると、遠くの何かが応答する。
壁の薔薇の花がわずかに震え、
香の粒子が空中に文字のように散った。
彼女は無意識に解析を始める。
香りの成分、濃度、拡散速度。
だが計算の途中で、言語体系の破綻に気づいた。
「これは情報の匂い……?
違う。ここでは、香そのものが意味だ。」
——
静寂の中、世界はまだ柔らかい。
呼吸ひとつで更新され、消えていく。
彼女は息を整え、冷静に記録する。
「状況確認──世界の構成原理、嗅覚優位。
呼吸による情報同期。
無臭領域の発生は、存在の欠落を意味する。」
淡々と分析するその声が、
この甘く揮発する世界で唯一の“現実”だった。




