表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

59/72

淡々とした“決意”の独白

密室の扉が静かに閉じる。

クラリッサは振り返らず、そのまま夜の廊下へ歩み出た。


夜気は乾いて澄んでいる。

香炉も灯りもない長い廊下には、ただ王宮の冷たい空気だけが流れていた。


彼女の足取りは一定で、影も揺れない。

呼吸の深さ、歩幅、視線——どれ一つ乱れていない。


(殺さないで済むなら、それでいい。)


靴音が規則正しく響く。

その音にすら感情の揺らぎはない。


(無用な血は、世界を濁らせるだけ。)


淡々とした思考。

彼女にとって暗殺は快楽でも誇示でもなく“不要”。

ただし、例外が――ひとつだけある。


(でも——殿下を狙う香は、すべて断つ。)


決意ではあるが、熱はない。

忠誠の向きではなく、祈りでも、献身でもない。

あらゆる危険物を処理する時と同じ、乾いた合理性。


だからこそ迷わない。

ためらわない。

重さを感じない。


それが彼女の“普通”であり、

そして——その無機質な優しさが、

王子リオネルの心を狂わせてゆくのだと、

クラリッサ自身はまだ知らない。


彼女はただ静かに歩き続けた。

断つべき香の気配が、

またどこかで生まれていないかを確かめながら。



密室には、もうクラリッサの姿はない。

だが彼女が立っていた場所だけ、空気がわずかに沈み、

まるで温度が変わったような錯覚すら残していた。


香炉は空。

香油も焚かれず、風もない。


それでも——

王子リオネルの胸の奥には、確かに“香り”が残っていた。


静寂の、沈黙の、

気配だけで構成された、あの不可思議な香。


リオネルは深く息を吸う。

香らないはずの世界に、彼女だけが残したものを探すように。


(静かに、冷たく、正確に。

 君は——誰よりも美しい。)


美しいのは容姿ではない。

声でも、仕草でもない。


――断つべきものだけを正確に断ち、

 救うべきではないものを容赦なく斬り捨てる、

 あの“静かな判断”そのもの。


(俺は……彼女に惹かれているのか?

 いや……違う。)


リオネルは壁に手を置いた。

さきほどまでクラリッサが立っていた空白を見つめる。


惹かれているのは、

彼女という“個”ではなく、

彼女が生きている“世界の構造”そのもの。


静寂が世界を塗り替え、

常識が音もなく裏返される——

その瞬間を、生涯で初めて味わった。


(クラリッサ……君は。

 世界の“読み方”そのものが、あまりに美しい。)


王子は、胸の奥に生まれた熱を抑えきれなかった。

まるで彼女の沈黙の香に、呼吸までも支配されるように。



廊下を歩くクラリッサの瞳は、

ただ前だけを向いていた。

振り返らない。

余韻にもひたらない。


(殿下を狙う香は、すべて断つ。)


それだけが、彼女の思考の中心にある。

忠誠ではない。

献身でもない。

ただ“処理すべき危険の排除”という、無機質な結論。


その頃、同じ城の別の場所。

王子リオネルは、まだ香のない密室に立ち尽くしていた。

窓も開けられず、香炉も沈黙したまま——

しかし胸の奥には、確かに彼女の“気配の香”が残っている。


(静かに断つ……そんな人間が、この世にいるのか。

 これほど冷たく、それなのに……目が離せない。)


彼は知らない。

その“断ち方”こそ、クラリッサにとって日常であることを。


そしてクラリッサも知らない。

その静謐な断罪こそが、王子の心を最も強く震わせていることを。


二人は互いを見ていない。

視線は交わらない。

言葉も交わさない。


だが——

その沈黙の中で、同じ一点へと収束していく。


クラリッサは“守るために断つ”。

王子は“その断つ静けさ”に魅了される。


目的は違うのに、

辿り着く結論だけが、まるで合わさるように重なっていく。


言葉なきまま、

ふたりの心は同じ影へと沈んでいった。


廊下の床に、クラリッサの足音が静かに響く。

石畳を踏むたび、微かな振動だけが残る。

香はない。香炉も消えている。

だが、その足音が放つ微妙な気配は、王子の胸にすぐ届いた。


密室の奥でリオネルは息を整える。

香の読み手としての本能ではなく、

ただ存在そのものに意識を集中させる——

目に見えず、香に頼らない、微かな空気の揺らぎを、

王子だけが確かに嗅ぎ取っていた。


互いは視線を交わさず、言葉も発さない。

それでも、気配は静かに交わる。

香の技術ではなく、沈黙そのものの“香り”が、二人をつなぐ。


誰も知らぬ、香のない共鳴。

その沈黙の中で、二人は確実に——

同じ空間を、同じ時間を、同じ重みで共有していた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ