.二人の間に生まれる“沈黙の香り”
王子の私室は、王宮で唯一——
“香を焚かない”という禁忌すれすれの空間だった。
香炉は冷え切り、
燭台には香油の一滴も使われていない。
壁は乾いた石の匂いしかしない。
香を読むことを避け、
ただ“真実だけ”を浮かび上がらせるための部屋。
その中央に、クラリッサは静かに立っていた。
一歩も動かず、呼吸すら乱さず、
影のように、しかし確かに“そこにいる”少女。
香りはない。
どんな香材も漂わない。
それなのに——
王子の胸だけが、じわりと満たされていく。
“存在の気配だけで作られる香”が、
彼の内側でゆっくりと立ちのぼっていくように。
(……これは、なんだ?
香がないはずの空間で……
まるで、彼女の存在そのものが香っているようだ。)
王子は知らず息を吸い込む。
香材も、調合も、技巧もない。
しかし確かに“香”がある。
香の王家に生まれ、
一生を香と共に生きてきた王子が——
初めて触れる種類の香り。
言葉では認識できない。
成分では定義できない。
ただ、ひとりの少女が“そこにいる”だけで立つ香。
王子は胸の奥で悟る。
(……これが、クラリッサの“香”なのか。)
王子は、そっと息を吸い込んだ。
長年の習慣で、香の読み手として
無意識に“成分”を判別しようとする。
どの木々の香か、どの花の影か、どの樹脂の微粒か。
けれど——。
そこに“香材”はない。
調香も技巧も、作為の気配すら存在しない。
ただ、ひとりの少女が立っているだけ。
しかし胸の奥に広がるものは、
どんな香よりもはっきりと、深く、強かった。
・支配ではない。
・従属でもない。
・期待ですらない。
そのどれとも違う、もっと原始的で、もっと深い。
これは香ではなく——
“存在の香”。
誰かが作るものではなく、
クラリッサという人間そのものが放つ“気配”の純度。
王子は喉奥で息を震わせる。
(……香を纏わずに。
ただ立つだけで、世界の匂いが変わるなんて。)
思考が、熱に溶かされていく。
胸のどこかがざわめき、底から震えがせり上がってくる。
初めてだった。
“香のない空間”で——
この世界がこれほど鮮明に色づいて見えたのは。
王子は、抗いようもなく悟り始めていた。
クラリッサに対する、自分自身の“覚醒”を。
クラリッサは、ほんのわずかに王子を見つめているだけだった。
言葉はない。
動きもない。
ただ、沈黙がそこにある。
だがその沈黙は、空白ではなかった。
何も発さず、何も強要せず、
それでも部屋の空気を満たしていく——
“静謐の圧”と呼ぶしかない気配。
王子の胸に押し寄せる波は、
その沈黙が放つ無音の香りだった。
けれど当のクラリッサは、まったく気づいていない。
自分が立っているだけで
空気の密度が変わり、
場の緊張の色が変わり、
王子の世界そのものが塗り替えられてゆくことに。
彼女の無自覚が、かえってその香を深くする。
王子は、ひとり息を呑む。
(……彼女は知らないのか。
自分がこれほどまでに、世界を、俺を……変えていることを。)
クラリッサはただ静かに立つ。
その沈黙の香りだけが、王子の心を満たし続けていた。
王子は、胸の奥でそっと何かがほどけていくのを感じた。
(……これが、クラリッサの“香”なのか?)
香炉もない。
香油も焚かれていない。
技巧も意図も、まるで存在しない。
それなのに——
彼女がそこに立つだけで、
世界の香りが沈黙してゆく。
雑味が消え、
気配のざわめきがほどけ、
ただ一つ、透明な静寂が残る。
ほかの誰にも読めない、
王子だけが嗅ぎ取る“特別な香”。
危うく、美しく、
人の生き死にを左右する香よりもなお強烈な——
存在の香り。
(香料でも、力でもない……
これは、彼女そのものだ。)
王子の呼吸は浅くなり、
胸の奥に熱いものが灯る。
この世界のどんな香よりも
鮮烈で、不可侵で、
決して他の誰にも触れさせたくない。
クラリッサの“沈黙の香”。
王子はただ、その圧倒的な気配に打ちのめされていた。
王子は、胸の奥で渦を巻く熱に気づいていた。
それは警戒でもない。
恐怖でもない。
まして、支配欲でもない。
——もっと、深くて危うい。
陶酔。
(俺は……この危険を愛し始めている。)
そう認めた瞬間、体内のバランスが静かに崩れた。
クラリッサという存在が持つ、
“静かに世界を変える力”に触れたせいだ。
彼女は香を使わない。
技巧も誇示しない。
ただ、そこに立つだけで世界の輪郭を変えてしまう。
王子は自分がいま吸っている息が、
もはや空気ではなく——
クラリッサという“香”そのものなのだと悟る。
どこまでも澄みきった、
しかし決して逃れられない香。
(恋、ではない……これは——)
崇拝に近い。
あるいは、それよりもっと深い領域。
この瞬間から王子は、
彼女の危険に、彼女の静寂に、彼女の存在そのものに——
抗いようのない陶酔を抱き始めてしまった。




