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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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.王子とクラリッサ——二人だけの密室

夜の王宮――

ふだんなら淡い香煙が流れ、王族しか扱えぬ高貴な香が室内に満ちているはずの私室。

しかし今夜、王子リオネルがクラリッサを呼んだ部屋には、ひとつの香も焚かれていなかった。


香のない王宮の部屋。

それは“真実に触れるときだけ”王族が使う、特別な密室。


香で嘘も虚勢も飾れない。

ただ、声と視線と沈黙だけが鋭利に存在する空間。


クラリッサは足音も立てず扉を閉め、深く一礼した。

香がないせいか、彼女の気配は普段よりも輪郭がはっきりして見える。

陰翳そのものが姿を取ったような佇まい。


リオネルは椅子に座らなかった。

壁際に寄りかかり、片足を交差させ、まるで捕食者が距離を測るようにクラリッサを観察している。


沈黙がひと息、ふた息と、刃のように長く伸びた。


「……君がやったのか。」


声は低く、静かで、逃げ道を与えない。


クラリッサは瞬きすら惜しむように目を細めた。

恐れも動揺もない。

ただ事実を告げるだけの口調で答えた。


「殺してはいません。

 ただ、香の“刃”を奪っただけです。」


王子の指が壁を軽く叩く。

わずかに、呼吸が乱れた。


「殺さずに殺す……か。」


その言葉には厳しさも咎めもない。

むしろ、陶酔に近い震えが混じっていた。


香のない空間だからこそ、感情の細かな波が隠せない。

リオネルの視線は、クラリッサの影の形を追い、逸らせずにいる。


(これほど静かで、

 これほど完璧に、

 美しい“暗殺”を成す者がいるとは……。)


ヴェルノが筆を折った瞬間――

あの犯人貴族の香は“根元から死んだ”。

それを理解できたのは自分だけだ。


そしてその“死”を生み出したのが、目の前の少女。


クラリッサは一歩も動かず、ただ呼吸を整えたまま王子を見返している。


リオネルの喉がわずかに鳴った。

抑え込みきれなかった感情が、肌の下で脈打つ。


「……クラリッサ。」


名前を呼ぶ声音は、問いでも命令でもない。

陶酔と畏怖が混ざり合った、ただの“欲”の響き。


王子はまだ距離を保ったまま。

だがその目だけが、彼女の影の奥深くまで沈み込んでいく。


香のない密室。

逃げ場も偽りもない空間で、

二人の関係は、確実に“次の段階”へ踏み出していた。



香のない密室は、まるで外界から切り離された深海のようだった。

わずかな衣擦れの音さえ、互いの胸に沈んでいく。


王子リオネルは壁に寄りかかった姿勢のまま、

言葉を選ばず、核心だけを口にした。


「……君がやったのか。

 あの男の“香の根”を断ったのは。」


静かだった。

怒りも糾弾もなく、ただ事実を確かめるためだけの声音。

けれど、その静けさがかえって断罪じみていた。


クラリッサは瞬き一つせずにその声を受け止めた。

視線を伏せても逸らしてもいない。


彼女は、隠す必要など最初からないと言わんばかりに答えた。


「殺してはいません。

 ただ、香の“刃”を奪っただけです。」


謝罪もなく。

ためらいもなく。

罪悪感を装うことすらしない。


それは自白というより、

“気象情報でも報告するような”、ただの事実の陳述。


部屋に満ちる香の欠片もない空気が、

その無造作さをさらに際立たせる。


リオネルの胸に、寒いものが走った。


(……怖い。)


そう思ったのに、

その恐怖の奥に、確かな熱があった。


(なのに、なぜ……こんなにも惹かれる。)


香を断たれた貴族の崩壊――

あれは偶然ではなく、意図した“処刑”だ。

それも、肉体には触れず、香だけを殺すという異常な手法。


目の前の少女は、自分がどれほどのことをしたか知っている。

それでも揺れない。


リオネルは気づく。


彼女は“影”ではない。

“影そのものを操る者”だ。


王子は息をひとつのみ込み、

それでも声を震わせないように続けた。


「……君は、恐ろしいほど静かだな。」


その言葉の裏に潜むのは、恐怖ではなく――

抑えきれないほどの、陶酔だった。



王子は、気づけば一歩、また一歩と近づいていた。

香のない密室の空気が揺れ、クラリッサの細い影が床に伸びる。


その影の輪郭に触れそうな距離で、リオネルは低く問う。


「……殺さずに殺す——か。

 君は、いつもそうするのか?」


問いかけは責めではなく、純粋な興味だった。

理解したかった。

あの異常な静けさと、その奥にある“基準”を。


クラリッサは淡々と、しかし一瞬だけ考えるように首を傾げた。


「必要なら。」


その二文字はあまりに軽く、

それでいて、あらゆる“命”すら秤にかけられる重さだった。


その瞬間、王子の胸の奥がひどく熱を帯びた。


(——恐ろしい。

 けれど……美しいほどの覚悟だ。)


彼女の判断は、誰の命に届くのか。

その枠の中に“自分”が含まれているかもしれない。

その可能性が、まるで刃を喉元に当てられたようにぞくりとする。


だが、恐怖だけではない。


(もし——その刃が自分に向いたとしても……

 この少女なら、受け入れてしまうかもしれない。)


王子は自分でも理解できない感情を、

喉の奥でひっそりと飲み込んだ。


価値観の衝突など最初から存在しない。

ただ、異質な二つの“真実”が、

いま触れ合い、形を成し始めた。


“理解”という名の、危うく甘美な影を。


王子は視線をそらすように、

まるで胸の奥の熱から逃れるように、

ゆっくりとクラリッサに背を向けた。


窓の外、夜の王都。

灯りは遠く、音もなく、ただ静かに呼吸している。


その静けさに頼るようにして、

王子は胸に渦巻くものを押しとどめた。


(……これほど静かで、

 これほど美しい“暗殺”をする人間がいるのか……?)


窓硝子に映る自分の表情は、驚くほど冷静だ。

だがその裏で、心の奥は焼けるように熱い。


クラリッサの声、姿勢、淡々とした呼吸。

どれも、刃より鋭く王子の世界を切り替えていく。


(彼女は俺の守護ではない。

 そのつもりもない。

 ——俺の世界そのものを、無音で変えてしまう。)


理解している。

これは危険だ。

彼女の手に触れるということは、

“毒”を抱きしめるようなものだ。


けれど——


恐怖が胸を締めつけても、

それ以上に強い感情が湧き上がる。


(恐ろしい……なのに、どうしてこんなに——惹かれる。)


陶酔という名を、まだ王子自身は認めていない。

だがその熱は確実に、

彼の心の中心へ向かって燃え広がっていた。


王子はゆっくりと振り向く。

まるで、その一歩で世界が変わると知っているかのように。


暗い部屋の中央、クラリッサは静かに立っている。

影が揺れ、彼女の瞳だけが淡く光を宿していた。


王子はその光を捉えたまま、

沈むような声で問う。


「……俺のためにやったのか?」


クラリッサは瞬きすらしなかった。

否定も肯定もない。

けれど——逃げずに、ただ王子を見返す。


その沈黙は、言葉より残酷で、

言葉より真実だった。


(……肯定だ。)


胸が詰まり、呼吸が乱れる。

この国で“香の呼吸”が乱れるのは、

極めて個人的な動揺を意味する。


王子の喉がかすかに震えた。


(俺は、彼女に守られたのか。

 いや……違う。

 これは、もっと根の深い——)


クラリッサは王子を守ったのではない。

“王子の世界を保つために、障害を静かに消した”。


その判断の中に王子自身も含まれている。

彼女は誰に従ったわけでもなく、

ただ必要だと思ったから、そうした。


(支配……かもしれない。)


そう思った瞬間、王子の背筋を戦慄が走る。

だが次の瞬間、その戦慄は甘い熱に変わった。


(……どちらでもいい。

 どちらでも……構わない。)


守られることも、支配されることも、

クラリッサの手によるものならば。


王子は一歩近づく。


その距離は、もう取り戻せなかった。


クラリッサは、王子の動揺を読むでもなく、

慰めるでもなく——ただ自然な歩幅で一歩近づいた。


影と影が触れあう距離。

その静けさの中で、彼女はふいに言った。


「殿下。

 ……危険な香には、私が先に触れます。」


囁きではない。

誓いの言葉でもない。


それはまるで、

“天気が変わる”と告げるような自然さで放たれた一言だった。


けれど、その意味だけはあまりに重い。


どんな毒でも、

どんな陰謀でも、

どんな闇でも——


「あなたに届く前に、私が嗅ぐ」

という、静かで私的な決断。


王子リオネルの心臓が、

一歩踏み外したように跳ねた。


(……これは忠誠じゃない。

 義務でも、命令への従属でもない。

 彼女は……“俺だから”先に触れるというのか。)


全身から熱が昇る。

呼吸が、自分のものではないように乱れる。


クラリッサは淡々とした表情のまま、

その乱れを見ても何も言わない。


(……落ちた。

 俺は、完全に。)


王子の胸の奥で、何かが静かに崩れ、

同時に、美しく組み直されていく。


その瞬間、

クラリッサは王子リオネルにとって、


“守る者”ではなく

 “世界を支配する影” になった。


そして——

彼はそれを望んでしまった。

王子は、無意識に手を伸ばしていた。


しかし——

その指先がクラリッサに触れる直前、

自分の行為に気づき、はっと止まる。


影を斬るように、指先の空気が震えた。


(……俺は、なんてことをしようとした?)


触れたい。

確かめたい。

近づきたい。


その衝動のすべてが、

王子リオネルの理性を裏返す。


彼はゆっくりと手を下ろした。

呼吸が浅く、胸の奥がひどく熱い。


(俺は……この少女に魅入られている。)


ようやく、はっきりと理解が追いつく。


クラリッサは——


 自分の臣下ではない。

 忠誠を誓わせた覚えもない。

 所有し、支配できる存在でもない。


彼女はただの少女でありながら、

“世界の構造を読み、必要な線だけを切る”者。


その無音の判断の前では、

王子の権力すら意味を失う。


(俺が彼女を守る立場ではない。

 ……むしろ、俺が読まれている側だ。)


自分はいつのまにか——

彼女の世界の中で、

“読み取られる対象”になっていた。


その立場の反転に気づいた瞬間、

王子の心はさらに深く囚われていく。


触れられなかった指先が、

まだ微かに震えていた。

密室を出る直前、

王子リオネルは、抑えきれなかった。


喉の奥から零れた声は、

誰に聞かせるでもない、秘められた本音だった。


「……クラリッサ。

 君は……恐ろしく、美しい。」


その言葉は、

香のない部屋の空気を震わせ、

まるで“禁句”のように静かに沈む。


クラリッサは振り返らない。


扉へ向かうその背は、

影でも光でもなく、ただ無音のまま。


ほんの一瞬だけ、歩みが止まり——

しかし彼女は何も言わず、

淡々と一礼し、去っていく。


扉が閉まる。


残された王子は、深い息を吐いた。

胸の奥で燃える陶酔が、

もう押さえきれず、音を立てて広がっていく。


(……どうしてこんなにも、

 心を奪われてしまうのだ。)


香のない密室に、

彼ひとりの熱だけが残った。





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