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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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犯人貴族の崩壊

朝の光が満ちる大広間には、

いつもどおり百の香が漂っていた。

花、木、霧、果実、火……それぞれの階級と礼儀を示す“香の呼吸”が、

静かに重なり合ってひとつの楽曲を作り上げている。


その場に、一つだけ“空白”があった。


***


「……おい、見ろ。あれ……」


「嘘でしょう……? 香が、ない?」


ざわめきが波紋のように広がる。

視線が一斉に向いた先で、

犯人貴族――ふだんは香礼会の華である男――が、

ひどくおぼつかない足取りで現れた。


彼は確かに“そこにいる”。

だが、香がない。


“固定香”と呼ばれる上位貴族の証すら纏っていない。

香袋は閉じたまま、肌には香浴の痕が一つもなく、

呼吸の節々でわずかな濁りが漏れる。


まるで、

香気だけが死んでしまった空の器――。


「昨日、調香師を見かけなかったが……」

「まさか失踪?」

「いや、あの男が香を纏えないなど……考えられん」


囁きは次第に蔑みへと変わる。

香の国において“無香”で社交会に立つことは、

裸で出歩くより無礼で、より残酷な恥とされる。


男自身もそれをわかっていた。

だが隠せない。

呼吸が整わない。

手の震えが止まらない。


それも当然だった。


原因は――

ただひとつ。


影の調香師ヴェルノが、

昨日を境に存在しなくなった。


彼の香格は、ヴェルノの手によって作られた。

自分には技術も構造理解もない。

ただ彼の調えた香を纏い、

彼の整えた呼吸法に身を預け、

彼の導くまま“貴族らしさ”を演じていたにすぎない。


その同調儀が途絶えた瞬間――

均衡は崩れた。


焦り。

猜疑。

劣等。

普段は香で覆い隠していた“濁り”が、

すべて香として漏れはじめる。


香は嘘をつけない。

隠してきた本性ほど濁る。


結果、

男の香は“ゼロ”へ。


いや、ゼロではない。

負の香へ。


それはこの国における、

完全な“死”と同義だった。


周囲は距離を置き、

彼の周りにはぽっかりと空間が生まれる。

どれほど美辞麗句を並べても、

香のない者はこの場で“存在しない”のと同じだ。


男は必死に胸を張ろうとした。

いつものように優雅に歩こうとした。

だが香は応えない。


香を失った貴族は、

ただの脆い人間だった。


それを示すように、

彼の足元で小さな震えがひとつ、

音もなく落ちた。


その場にいた誰もが悟る。


――この男は、もう終わりだ。



香の国において、

礼儀は“言葉”ではなく“香”で成立する。


香は、

立つ順番、

会釈の深さ、

会話の抑揚までも指し示す“見えない道筋”だ。


その香がないということは――

地図を失ったまま儀礼の迷路に放り込まれるようなもの。


***


犯人貴族は、

自分がどれほど無防備であるかを理解しないまま、

長年の習慣どおりに場へ歩み出た。


最初の失敗は、

挨拶の一瞬に訪れた。


本来なら、

香の高さに応じて一拍置き、

揮発とともに軽く呼吸を合わせるべきところ。


だが香がない彼には、

合わせる“拍”すら存在しない。


結果――


「……っ」


息が噛み合わず、

語尾が濁り、

僅かな乱れが空気ににじむ。


その乱れこそ、

礼儀の崩壊の始まりだった。


周囲の貴族たちは一歩、また一歩と距離を取る。


「香礼の順番さえ誤った……?」

「まさか、香を読めなくなったのか」

「いや、読めないどころではない。呼吸が乱れている」


香を読めない者は“無能”。

この国ではそう断じられる。


濁った香は、

嘘も取り繕いも許さない。


男は平静を装い、

微笑みを浮かべようとするが、

呼吸がうまく整わず、

その所作はぎこちなく崩れ続ける。


周囲はさらに囁く。


「彼はもう終わりだ」

「影の調香師を失ったか」

「もう上位の席には座れまい」


香こそが貴族の“格”であり“尊厳”であり“武器”でもある。


そのすべてを失った男は、

いまや誰とも呼吸を合わせられない、

ただの“無香の影”。


立ち位置ひとつ、

目線ひとつ、

語尾の温度ひとつまで、

香が定めるこの国で――


香のない彼は、

もはや礼儀を行う資格すらなかった。


彼の周りには、

早くも“空席”のような空白が広がりはじめていた。

王子リオネルは、公務ゆえに静かな表情で社交会を歩いていた。

だがその中心で起きている異常――

“香の空白”に、足が自然と止まる。


周囲が微妙に距離を置く中、

犯人貴族の周囲だけがぽっかりと沈み込んだように静まり返っていた。


漂うのは、

整わない呼吸、

割れたような濁香、

そして、本来あるべき“調え”の不在。


リオネルは、ただ一歩だけ近づく。

それだけで充分だった。


ゆっくりと息を吸い込み、

男の香の揺らぎを読む。


(……これは……ひどいな。)


揮発の層が縦にも横にも裂けている。

本来なら補うべき“下香”が消え、

高香は倒れて自立しない。

香格を支える“支柱”そのものが折れていた。


(調香師が不在? いや……もっと根本的だ。)


そこまで考えたとき、

昨日の光景が脳裏を駆けた。


クラリッサのあの横顔。

王子の衣に残った濁りを指先で掬い取ったときの、

一瞬だけ深まった沈黙。


そして――

影の調合法師ヴェルノの工房に潜んでいたあの、

“声を持たない香”。


(根元から……斬られた匂いだ。)


香を読む者だけが分かる、

“技を折られた者の香”。


犯人貴族は自覚していない。

周囲の貴族もただ嘲っているだけだ。


しかし。

香の根を断たれた者の呼吸がどう崩れるか、

理解できる者はほとんどいない。


だからこそ――

気づくのはリオネルだけだった。


息がかすかに震える。


(……まさか。

 クラリッサ、お前……)


名を呼ぶことすらはばかられる衝動が胸を打つ。


確信はまだない。

だが、

「彼の香が昨日を境に死んでいる」

という事実だけが、

動かしようもなくそこにあった。


その因果をつなげてしまった瞬間――

リオネルの心には、

冷たく澄んだ戦慄と、

理由の分からない熱とが、同時に灯った。


それはまだ“恐怖”ではなく、

まだ“恋慕”とも名付けられない。


ただ、

胸の奥でゆっくりと燃えはじめる、

得体の知れない陶酔の火だった。



香礼会のざわめきの中、

ひとりの貴族だけが“香を失った者”として立ち尽くしていた。


上級貴族であれば当然纏うべき固定香もなく、

呼吸は乱れ、所作は濁り、

香格の階梯から転げ落ちた者の匂いが漂っている。


社交界の視線は冷たい。

同情は一つもない。

香を読めない者は、この国では存在しないも同じだった。


だが――

誰一人としてその“死”の理由を知らない。


彼の影にいた調香師ヴェルノ・ラトが、

前夜、静かに筆を折らされたことも。

その“切断”が、貴族の呼吸を根元から崩壊させたことも。


それを知るのはただ一人。


王子リオネル。


濁った香を嗅いだ瞬間、

彼は直感で悟った。


(……これは、意図的に根を断たれた香だ。)


香文化の奥底に潜む“香の死刑”。

それを実行できる者など限られている。


クラリッサのあの眼差し。

わずかに揺れた沈黙の香。

そして、昨日の“濁り”を見抜いた反応。


点が線へとつながる。


リオネルは胸の奥に冷たい光が走るのを感じながら、

同時に、抗いがたい熱を抱いた。


(……お前なのか。

 クラリッサ。

 “殺さずに殺す”などという、あまりにも静かな残酷を――)


恐怖ではない。

軽蔑でもない。


それはむしろ、

彼の知らぬ領域に立つ少女への陶酔。

この国で誰よりも静かに、

誰よりも正確に“死”を運ぶ意志への魅了。


犯人貴族が崩れ落ちるその朝、

リオネルの心に芽生えたものは、

香よりも深く、

毒よりも甘い感情だった。


そしてそれは、

後戻りのできない始まりでもあった。






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