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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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静かな暗殺——香の切断

夜道には、香がなかった。

王都の外れ――香都にあるまじきほど、空気が澄みすぎている。

クラリッサはその“無香”の静けさを踏みしめながら、粗末な木造の工房へと歩いた。


小さな看板。薄い灯。

客の気配はまるでない。

ここが、貴族の裏の呼吸を支える《影の調香師》の巣だ。


扉の前で彼女は一度も迷わない。

ただ指先を添え、押す。


――ギィ。


その軋みだけが、不自然なほど響いた。

夜の空気が、ひと筋に切り裂かれる。


ヴェルノは机に向かっていた。

乾いた音で瓶を磨き、殺傷香の試薬を調えていたはずの男は、

振り返った瞬間、その手を止める。


そこには、年端もいかぬ少女――

だが“客”の気配ではない。


一目で悟ったのだ。

本能が、危険を告げていた。


「……誰だ。」


かすかに震える声。

息の奥に、ほとんど香のない恐怖が混じっている。

調香師である彼自身が、無意識に呼吸を乱していた。


クラリッサは答えない。

返事の必要がないからだ。


ただ一歩、また一歩――

夜気に混じった微細な恐怖を吸い込むように、

静かに工房の奥へ進む。


瓶の影が揺れ、

揺れたのは瓶だけではなかった。


“影の調合法師”ヴェルノ・ラトの胸の奥、

そこに潜んでいた自信と傲慢が、

音もなく崩れ始めていた。


クラリッサは、調香台の前で立ち止まった。

瓶の列、乾いた香木、調合器具――

そのすべてを、淡々とした視線でひと巡りする。

そして、まるで古い友に挨拶するように言った。

「あなたの香は、美しい。」

ヴェルノの肩がわずかに跳ねた。

脅しでも告発でもない。

予想の外側――ほころぶような賞賛。

「構造も、重ね方も、

 残り香の逃がし方まで……とても繊細で、好き。」

その声音には嘘がない。

敵に向けたものでも、怒りを含んだものでもない。

ただ“正しい評価”として紡がれた言葉。

ヴェルノは戸惑った。

胸の奥で、どこかくすぐったい誇りが芽生え、

だがその誇りがすぐに、ざわりと揺れる。

この少女は――自分の香を“見て”いる。

構造の核に触れ、丸裸にするような眼で。

クラリッサは、もう一歩だけ近づいた。

そして、賞賛の余韻がまだ工房に漂ううちに、

静かに、淡々と言葉を置いた。

「でも。」

わずかなその一語で、空気が張りつめた。

「その技が、殿下を殺すために使われるなら――」

瞳は揺れず、声も震えない。

だが、未来が“ひとつだけの結末”に閉じられる音がした。

「止める。」

静かで、優しいほどに冷たい。

決定だけを告げる無香の刃。

ヴェルノの喉が、ごくりと鳴った。

殺意などないはずの彼女の言葉に――

“殺されるより怖い予感”だけが、確かにあった。



工房の空気が、わずかに揺れた。

クラリッサが歩いた軌跡が、香の層を切り分けるように澄んでいく。


棚の瓶に触れもしない。

花材を摘むことも、計量器を傾けることもない。


ただ“見る”だけ。

それなのに――彼女の視線が触れた場所はすべて、

内部の構造まで解体されたように静かになる。


そして、歩みを止めた彼女は淡々と告げた。


「この香材の比率……綺麗に重ねているようで、

 揮発の順が少しずれている。

 だから、最後に“焦げた残り香”が出ます。」


ヴェルノの指が震えた。


「殺傷香なら、もっと冷却層を厚くするべき。

 今のままでは、香が逃げてしまう。」


彼は息を呑む。

誰にも気づかれたことのない欠点だった。

自分にしか知られない“癖”のはずだった。


クラリッサは続ける。


「それに……この調合台。傾いていますね。」


指先で軽く天板を押すと、かすかに沈む。


「香量が毎回、0.2滴ぶれる。

 気づいていないでしょう?

 でも致命的です。

 殺すための香なら、誤差は許されません。」


ヴェルノの顔から血の気が引いていく。


クラリッサは最後に、彼そのものへ目を向けた。


「あなたの呼吸の癖も……わかります。」


たった一言。

だがそれは、全技術を丸裸にされたという宣告に近かった。


ヴェルノの膝が震え、後ずさる。

逃げたいのに、逃げられない。

圧倒的な力の前で、身体が凍りつく。


クラリッサは追わない。

責め立てもしない。

ただ、まっすぐ見下ろす。


まるで――

技そのものの死を告げる“執行者”のように。



工房の奥で揺れる一本の燭火が、

いま終わろうとしている“人生”を照らすように細く揺れた。


クラリッサは、静かに彼の前へ立つ。

影がひどく長く伸びる。

その細い影の先端が、ヴェルノの胸元を指していた。


彼女の声は、囁きでも、怒号でもない。

ただ“事実を告げる音”だった。


「——今日限りで筆を折りなさい。」


その一言が、工房に落ちた瞬間――

まるで炉の火が消えるように、部屋の香が止まった。


強制でも脅迫でもない。

しかし、逆らえるものではない。

それを拒めば、明日には世界のどこにも自分の香は残らない。

そんな未来の気配が、冷たく広がる。


ヴェルノは乾いた呼吸を一つ吐き、

力の抜けた足で崩れ落ちた。


膝が床に触れた音が、妙に大きく響く。


棚の瓶が一つ揺れ、

その震えが微かに“香の音”を立てた。


「……わかった……」

彼はかすれる声で呟く。

「もう……調えない。二度と……」


その瞬間、彼の肩が落ちる。

背が縮む。

まるで、体内の“香”という名の生命が消えたかのように。


香を作れない調香師は、

呼吸のない歌い手に等しい。


生きていても、その存在は“香の国”では死と同義。


クラリッサは彼を見下ろし、

何も言わずに踵を返した。


彼女は人を殺していない。

刃も、毒も使っていない。


ただ、その“香の人生”を終わらせた。

静かすぎる暗殺として。


翌朝――

王都の社交は、ひどく静かなざわめきに包まれていた。


香をまとった貴族たちは、挨拶より先に“香気”で相手を測る。

それがこの国の礼儀であり、秩序であり、階級そのものだ。


だが、その朝じゅう、

ひとりの貴族の周囲だけが妙に空いていた。


◆1.影の調香師が消えた“翌日”


まず最初に乱れたのは、彼の香浴だった。


本来なら、朝の香は周囲の空気を澄ませ、

本人の格をひと目で示すはず。


しかし――


「……香が……濁っている?」

「いや、筋が……切れてる?」

「昨日まであれほど整っていたのに……」


侍従たちは混乱し、

本人は理由が分からぬまま焦りの汗で香をさらに崩す。


そして昼、評議会――。


議場に満ちる貴族たちの香は、

政治の空気を決める“戦場”でもある。


だがその男は、


・香の層が合わず

・主張の香が弱く

・話すたびに香気がぶれる


周囲の者たちは露骨に顔をしかめた。


「……呼吸が不安定だな」

「香の支えが、ない?」

「まさか調香師が……?」


その噂は、香のように瞬く間に広がっていく。


そして夕刻――

彼の名は“香格が崩れた者”として囁かれはじめた。


貴族にとって香は、外見でも肩書でもない。

“呼吸そのもの”。

生命線。


香の乱れは、

社交界における死の宣告に等しい。


◆2.それこそがクラリッサの照準


クラリッサは何もしない。

叫びも告発もしない。

ただ“香の源”を静かに切っただけ。


結果として――


血は一滴も流れず、

死体も出ず、

罪にも問われない。


だが、貴族ひとりの“呼吸”が断たれ、

その名は静かに終わった。


クラリッサの言葉が空に浮かぶようだ。


(殺さずに、殺す。)


香の国で最も残酷で、

最も静かな“暗殺”の形だった。



夜の帳がすっかり落ちた頃。

クラリッサは薄闇の中をひとり歩いていた。


足取りは軽くもなく、重くもない。

まるで、ただ散歩から帰ってきただけの少女のように淡々としている。


工房を出るときにまとっていた“影”の気配は、

もうどこにも残っていなかった。

影の調香師ヴェルノという存在そのものが、

世界からすっと抜け落ちたかのように。


◆1.クラリッサの帰還


屋敷に戻ると、侍女たちは特に怪しむ様子もなく頭を下げた。

クラリッサの衣からは、いつものように

“香のない静寂”が漂っている。


何かを成した気配は一切ない。

血の匂いも、怒気も、勝利の香もない。


ただの、無色。


しかしその無色が――

この国からひとつの香を消し去った証でもあった。


彼女は部屋に戻り、

扉を閉めた瞬間、小さく息を吐く。


(……これで、いい。)


その言葉には後悔も、誇りも、安堵もない。

ただ“そうするべきだったからした”という、

凪のような確信だけがあった。


◆2.王子は、まだ何も知らない


同じ夜。

王宮の高い塔で、リオネルは眠れずにいた。


“濁った香”を嗅いだときの違和感。

クラリッサが一瞬だけ見せた、あの鋭い目。


胸の奥で小さな針が刺さるように疼き、

その感覚だけが夜を支配していた。


(……彼女は、何を見ていた?

 俺には読めない“何か”を。)


不安なのか、興味なのか、

惹かれているのか、自分でも分からない。


ただ確かなのは――

リオネルはその胸騒ぎから逃げようとせず、

むしろ深く沈んでいっていること。


彼は知らない。


その不安が、

既にクラリッサと同じ“沈黙の香”に触れつつあるということを。


そして、彼女が今この瞬間、

彼のためにひとつの“影”を消し去って帰ってきたことも。


夜風が塔を撫でる。

王子の胸騒ぎは、静かに、しかし確実に深まっていった。


――この違和感こそが、

リオネルがクラリッサへと“陶酔”していく最初の香。


彼はまだ何も知らない。


だがクラリッサはすでに、“静かな暗殺”を終えて帰還していた。






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