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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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犯人の特定——香の“運び手”を追う女

王子の衣に残った“微細な濁り”は、

ほんの一瞬、廊下をすれ違っただけのクラリッサの指先に、

淡い薄皮のように絡みついた。


彼女は歩みを止めない。

ただ、流れる空気をすくうようにそっと手を上げ、

その指先に沈む香の粒を読む。


(……やっぱり、変。)


香は本来、茶器 → 湯気 → 衣の順に定着する。

だが今、王子の衣に付いた濁りは——

まるで流れを逆なでしたような、奇妙な層を成していた。


(茶器じゃない。第三の香源……誰かが、途中で香を触っている。)


指に残る微かな“薄皮”が、彼女の感覚を刺激する。

調香の際にしか生まれない、香膜。

経験豊かな調香師ほど、配合に“癖”が出る。

香の世界では、それはほとんど指紋と同じ。


クラリッサは、指先を軽くこすり合わせる。

そこに含まれる、脂質の比率——。


(宮廷の調香師じゃない。あの均質な膜とは違う。)


茶会で茶器に触れるのは、給仕と調合係のみ。

だが、この香膜は誰のものでもない。

王宮の記録に存在しない“外の手”。


さらに、香の奥底で揺らぐ一筋の“異物”。

王宮に流通しない、外香独特の苦い筋。


(この香料の系統……扱える工房は三つ。

 でも、この香膜の“癖”が決定的ね。)


すべてが一つの名に収束する。


(……《ヴェルノ・ラト》。

 人の呼吸を読む、影の調合法師。)


この濁りは、彼にしか作れない。


そして——

それが意味するところは、ただ一つ。


(誰かが……ヴェルノを使って、殿下の“反応”を測っている。)


茶会での暗殺ではない。

本気でもない。

だが、その前段階——。


王子の命を測る“予備実験”。


クラリッサは小さく息を吸い、

その香を指先から払った。


まるで、その濁りごと切り捨てるように。



 王都の外れに、

誰も気に留めない小さな工房がある。


昼間は、ほこりの積もった棚に安物の瓶が並ぶだけ。

客足もまばらで、職人も名を名乗らない。

王都の調香界で噂にすら上らない“無名”の店。


——しかしそれは、昼の姿にすぎない。


日が落ち、街路が暗く沈む頃。

工房の裏通りにだけ、妙な気配が生まれる。


革をぴんと張った高級馬車。

家紋を布で覆い隠した灯籠。

そして、馬車から降りてくる“上流の靴音”。


その者たちは決して表口を使わない。

誰にも見られたくない客——

つまり、貴族の裏側だ。


工房の奥から現れる影。

背は低く、ひどく色の薄い目を持つ男。

その男が、王都の闇で囁かれる名——


影の調合法師ヴェルノ・ラト


彼は公には存在しない。


・主家の名乗りを許されず

・弟子も持たず

・王宮の調香名簿にも載らず

・過去の仕事も記録されない


だが、その腕は確かだった。

香の流れを自在に操る技量は一流。

そして何より——


殺傷香を作る技術を持つ。


それゆえに、表舞台に立てない。

香文化の国は美と礼節の世界だが、

その裏では“香で殺す”という技が常に潜んでいる。


ヴェルノは、そこを生き場とした男。


かつて幾つかの香毒事件に名が挙がったが、

証拠はいつも消える。

証人は語らない。

香膜は風に散り、記録は破られる。


——最初から、痕跡を残さないよう作られているのだ。


そんな危険人物を“裏の武器”として抱える貴族がいる。


その貴族は——

今日の王子の茶会に、確かに出席していた。


ごく少数、選ばれた者たちの中の一人。


クラリッサは、名をまだ口にしない。

しかし、すでに心の内では絞り込んでいた。


(……動くべき“根”が、見えた。)


クラリッサは、すべての香筋を読み終えた瞬間、

まるで一枚の紙を折るように静かに心を決めた。


(殺す必要はない。

 むしろ……殺す価値もない。

 でも——“調香の腕”だけは、必ず奪う。)


彼女の中には、残酷な怒りではなく、

ただ淡々とした算術のような判断がある。


●クラリッサの価値観——香は“呼吸”である


この国では、

貴族の顔も名誉も地位も——

すべて“香”で決まる。


香を操る者は息遣いそのものを作る存在であり、

調香師とは、

主家の人生を形づくる“第二の臓器”だ。


ゆえに、調香師を失うということは、


香の社交において死ぬのと同義。


貴族本人を刺すより深い傷を与える。


クラリッサだけが、その事実を静かに理解していた。


●“切断”とは——静かで致命的な処刑


彼女が選ぶのは、剣でも毒でもない。


香の世界からの追放。


ひっそりと、しかし確実に人を殺す方法。


・香材の供給路を断つ

・工房の信用を壊す噂を、必要最小限だけ流す

・王宮の香警備隊に“影の調香師”の密告

・あるいは、事故に見せかけてその手を使えなくする


どれも血を流さずに人を消す手段だ。


だがクラリッサが選ぶのは——


最も静かで、最も痕跡を残さない“切断”。


(この国では……

 香を失えば、人はもう生きられない。)


まるで呼吸を奪うような方法で、

クラリッサはヴェルノの世界を閉ざすつもりだった。


どれほど彼が熟練しようと、

どれほど裏で力を持とうと、関係ない。


“香を扱う資格”そのものを奪えば、

彼は社会の空気から消える。


クラリッサは、誰にも悟られぬまま、

その準備を淡々と始めていた。



狙われたのは王子リオネルだった。

しかし罰されるのは、

刃を振るった者でも、毒を混ぜた者でもない。


—— “手を汚していない”と信じ切っている貴族本人。


彼は影の調合法師ヴェルノに任せただけだ。

自分は何も知らず、何も触れていない。

だから罰されるはずがない、と。


その思い込みこそが、

この国の貴族たちが抱えた致命的な傲慢だった。


●クラリッサは“本人”ではなく、“呼吸”を殺す


クラリッサは、貴族の屋敷に指一本触れない。

怒りさえ抱かない。

必要なのは——ただ判断だけ。


(罰を与える必要はない。

 罰など生ぬるい。

 呼吸を奪えばいい。)


彼女が狙うのは、貴族の命でも地位でもなく、


その貴族が生きるための《香の呼吸》そのもの——

専属調香師ヴェルノ。


調香師が消えれば、

貴族は自分で立っていることすらできなくなる。


それはこの国では、

王族に牙を向ける以上の禁忌だった。


●調香師を失った貴族の“ゆっくりした死”


ヴェルノが姿を消した翌朝から、

貴族の世界は音もなく崩れ始める。


・朝の香浴が“乱香”になり、体調が狂う

・社交の場で発する香が不安定となり、信用を失う

・香語の会議で香の流れが読めず、発言が通らなくなる

・“香格”(香を読む力の階級)が急落し、周囲から距離を置かれる


香文化の国において——


香を失うことは、人格を失うことと同じだった。


誰も手を出さない。

誰も刃を持たない。


ただ、空気がその貴族を拒む。


●それは“名誉の死”よりなお重い


人は、死ねば苦しまない。

葬られれば悲劇として美化される。


だが——


香の呼吸を奪われた貴族は、“生きながら透明になる”。


社交の会話からも、

香の流れからも、

人々の視線からも消えていく。


彼が王子を試した理由すら、

誰も追及しないほどに。


存在が薄れ、

立場が揺らぎ、

香の世界から落ちていく。


——誰も刃を抜かず、

  誰も血を流さず、

  ただひとりの女が、

  静かに“呼吸”を殺した。


その残酷さに、

クラリッサは一片の迷いも持たなかった。


クラリッサは、誰にも気づかれぬよう静かに屋敷を出た。

足取りは軽い。罪を背負う人間のものではない。

むしろ――余計なものをひとつ落とした者の歩き方だった。


夜気には香がない。

それが彼女には心地よかった。


(これで……殿下はもう、狙われない。)


ただそれだけの事実を胸に、

クラリッサは淡々と次の一歩を踏みしめる。


彼女自身、何も“殺していない”。

ただ、ひとつの呼吸の源を取り除いただけ。

その結果、貴族ひとりが

“香の世界から落ちた”というだけのこと。


●一方その頃、王子リオネルは――


王子はまだ何も知らない。

茶の“濁り”の正体も、

クラリッサが何を読み、どこへ向かったかも。


ただ胸の奥に、

説明できないざわめきだけが残っていた。


(……彼女は、なぜあんな顔をした?

 何を見て、何を決めた?)


わからない。

だがわからないまま放置できるほど、

彼はもう“普通の王子”ではなかった。


クラリッサに影響されてしまったのだ。

世界の香の流れを、

以前より深く感じ取れるようになっている。


その変化に、彼自身はまだ気づいていない。


●“殺さずに殺す”という存在


翌日になって、社交界に微かな噂が走る。


——ある貴族の香格が突然落ちたらしい。

——専属調香師が忽然と消えたという。

——誰も刃を振るわず、ひとりが没落した。


それはまだ、王子の耳には届かない。

だがこれが、

クラリッサが持つ異質な残酷さの“初発動”だった。


人を殺しはしない。

ただ、呼吸を奪う。


誰にもとがめられず、

誰にも見つからず、

確実に“社会的な死”をもたらす。


そんな静かな処刑を、

クラリッサはためらいなく行う。


●そして――王子の胸に芽生えるもの


その夜、王子はふと気づく。


(……彼女は俺より、ずっと暗い場所で生きてきたのか。)


恐怖でも、猜疑でもない。

近づくほど姿を消すような、危うい光。


彼は理解できないものを、

初めて“理解したい”と思ってしまった。


その衝動こそが、

陶酔の始まり。


まだ恋ではない。

信頼でもない。


——未知への渇望。

 彼女がどれほど深い闇を歩いてきたのか、

 知りたくて仕方がない。


その欲求が、

次章の扉を静かに開いていく。


▼次章は——


第七章:王子の覚悟と、マルセラの“無香への恐怖”


クラリッサの行動が王子の価値観を揺らし、

マルセラの焦燥が異常へ転じる。


そして三人の“香の距離”が、決定的に変わり始める。



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