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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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事件の発端——王子の茶に混ざる“歪んだ香”

午後の陽光がガラス越しに差し込む、王宮の小広間。

賓客を迎えるために整えられた茶席で、リオネルは穏やかな会話に耳を傾けていた。


黄金の茶が、白磁の器の中で静かに揺れる。

宮廷御用達の最高級の香茶——本来なら、花の香りが柔らかく鼻腔に抜け、心を和ませるはずだった。


だが、その湯気の隙間に、リオネルはふと異物を感じた。


(……今のは?)


湯気に溶け込んだ香の糸が、かすかに揺らぎ、

ひと筋だけ“影”のような濁りが走った気がした。


香文化に長けた者でさえ見逃すほど淡い、微細すぎる揺れ。

だが——クラリッサの香を“読む”視点に触れてしまったリオネルには、

それは小さな棘となって感覚に引っかかった。


(この香……どこか“死の色”がある。)


“死臭”ではない。むしろ香自体は調和を保っている。

だが、香が立ち上がる“仕草”だけが、かすかに歪んでいた。


成分は正常、毒も反応しない。

常ならぬ不安を抱えつつ、それでも王子は一口、茶を含んだ。


のどを通り過ぎる感覚はいつも通りなのに、

胸の内に沈む違和感だけが、じわじわと広がっていく。


賓客が下がったあと、侍医と調合師が呼ばれ、茶器と香を検分した。


「毒性反応はありません、殿下」

「香の質も申し分ありません。何かの気のせいかと……」


侍従たちが頭を下げるなか、リオネルは静かに器を見下ろした。


気のせい——そう言われればその通りなのかもしれない。

だが、その“影”は確かにあった。

湯気の奥で、香の流れをひそかに捻じ曲げるような、細い細い指の跡。


(発香の仕方が……おかしい。

 誰かが“香を誤魔化そう”とした気配……?)


胸の奥のざわつきだけが、消えずに残った。


彼は無意識に、そっと息を吸う。

香の流れを読むという、かつての自分なら絶対にしなかった行為。


——どこかで、世界の見え方が変わりはじめている。


それは、クラリッサに触れた日から始まった変化だった。



執務へ戻るため、静かな回廊を歩くリオネル。

その角を曲がった先で、クラリッサとすれ違った。


彼女はいつものように、空気のように淡い無香を纏っている。

礼儀正しく、深くではない一礼。

ほんの数秒の、儀礼的な交差。


——そのはずだった。


王子の衣がふと揺れ、

そこに染みついていた“微かな残り香”が、空気にほどけた。


その一瞬、クラリッサの瞳がわずかに細くなる。

足を止めたわけでも、声を上げたわけでもない。

ただ、見る者がいれば分かる程度の緊張が、彼女のまなざしを横切った。


(……この濁り。

 これは、殺す気じゃない。“試し”だ。)


王子の背中を見送りながら、クラリッサは心の中で結論を下す。


香の成分は正常。

毒も触れていない。

だが——香の立ち上がる“仕方”だけが、人工的だった。


(毒殺じゃない。これは“毒見”。

 暗殺に移る前の……予備実験。)


香文化に熟練した者だけが行う、極めて高度で卑劣な“プローブ”。

王子がどの程度香で動揺するか、どのくらい体調に変化が出るか、

あるいは“香を読める者が傍にいるか”を測る試し。


(まだ“本気”ではない……。

 まだ、根を断てる。)


彼女は一歩、王子へ声をかけようとして——


指先がわずかに震える。


彼に説明すれば、防げる。

情報を渡せば、王子は動くだろう。

感謝さえ向けられるかもしれない。


だが。


(……ダメ。

 言えば、殿下は私を“頼る”。

 それは……期待だ。)


期待は毒。


彼女の足は、そこで止まった。


王子の背はそのまま回廊を進み、視界から消えていく。


クラリッサは静かな息を吐きながら、

手のひらを胸元に押し当てるようにして、目を閉じた。


(言わない。

 私の役目は……殿下に“期待されないこと”。

 だから、私だけで片をつける。)


彼女の無香が、いつもより冷たく揺れた。


クラリッサは人気のない回廊で一度立ち止まり、

王子の衣に残っていた“歪み”の記憶を反芻した。


ほんのわずかな濁り。

香文化の高位者でも気づかないほど繊細な、

それでいて意図の痕跡だけがはっきり残る歪み。


(この“入れ方”……宮廷の香ネットワークを熟知している者。)


香を濁らせるには技術がいる。

まして“死の色”を隠しつつ、毒見として成立させるなど、

そこらの職人にできる芸当ではない。


だが、その一方で——。


(量が軽すぎる。本気で殺す気はない。

 慎重で、計算高くて……貴族の性質だ。)


貴族は致死量を使わない。

なぜなら失敗したとき、自分の立場が危うくなるからだ。

だからこそ“試験的な量”が選ばれていた。


ならば、犯人は?


(……貴族本人ではない。)


確かな断定。

貴族は香を“読む”ことはできても、“作る”ことはほとんどない。

調合は専門職の領分だ。


となれば——。


(いる。この歪みを生み出せる者が。

 どこかに“専属の調合師”が。)


クラリッサの目が静かに細められる。


狙うべき標的が見えた瞬間だった。


(……殺す必要はない。

 けれど——“切れば”いい。)


貴族本人を落とす必要はない。

支配の中枢である“香の供給源”を断てば、その者は戦えなくなる。


香文化の国における、もっとも非情で、もっとも効果的な攻撃。


“香の切断”——調合師を消すこと。


それは、クラリッサが唯一行使できる絶対的な武力の予告でもあった。



リオネルは、侍医たちの

「異常はありません」という結論を聞き終えると、

わずかな不安だけを胸に執務へ戻っていった。


——本当に、気のせいだったのかもしれない。


茶会は平穏だった。

体調にも変化はない。

毒も混入物も検出されていない。


それでも、あの微細な“影”のような違和感は、

肺の奥にまだ張り付いたままだった。


そして何より、離れないのは——

クラリッサの表情である。


彼女はいつも通り無香で、静かで、淡々としていた。

だがあの一瞬だけ、

目の奥に薄い影が落ちた。


説明のつかない“読み取った気配”。


(……彼女は、何を見ていた?)


香に異変があったと確信したわけではない。

ただ、クラリッサが反応した。

それだけが、王子にとって決定的だった。


(俺の知らない“香の層”……

 そんなものを、彼女は読んでいたのか?)


その推測はまだ幼い。

まだ大きく誤っている。

だが、確かに一歩だけ踏み込んでいた。


クラリッサの異能へと近づく、

王子リオネルの最初の“理解欲”の萌芽だった。


茶会が終わり、夜の帳が宮廷に落ちたころ。

リオネル王子の私室には、まだ淡い香の残滓が漂っていた。

微細で、揮発しきらない、ほとんど“死”の気配。


成分解析では「無害」。

毒でも薬でもない。

だがクラリッサだけは、その意味を正確に理解していた。


——あれは“死の香”。

 ただし、殺す量ではない。

 王子の反応を測るための、暗殺者の予備実験。


王子の衣に残った、ほんの一筋の濁り。

それだけで、クラリッサには暗殺者の癖も技量も、

そして“香料調合師”の存在まで視えていた。


(狙うべきは貴族本人ではない。

 その裏側にいる——調合師。)


それは、標的の“切断”を意味した。

毒を断つのではなく、香を断つ。

最も静かで、誰にも悟られない暗殺方法。


リオネルはまだ気づいていない。

自室で肩の力を抜き、

「異常なし」という侍医の言葉を半ば信じてしまっている。


けれど、クラリッサだけは違った。


王子が安心して背を向けたその瞬間から、

彼女はもう、歩き始めていた。


調べ、辿り、割り出し、

必要とあらば——消すために。


“香の切断”へ向かう、

静かで不可視の殺意が、

いま、確かに動き出していた。



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