表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/71

この章の終止符

クラリッサは扉を閉めた瞬間、微かに肩を落とした。

部屋は静かだった。

静かすぎて、心のざわめきがそのまま反響してくる。


(……今日は、少し騒がしすぎた。)


香の波がぶつかり合う茶会の気配。

マルセラが放った刺々しい香語。

貴族たちの視線、探るような空気。

そして——王子リオネルの、あの目。


ひとつひとつが、薄膜のように彼女の“無香”に貼りついて離れない。


クラリッサはゆっくり息を吸い込み、

それを長く、細く吐き出した。


彼女が確かめるように指先を空気へ滑らせると、

香は立たない。

香語の余韻も残らない。

室内に満ちるのは、ただの“空気”だけだった。


(……そう。ここは私の世界。)


香に侵されず、香で評価されず、

誰の感情も匂い立たない“無香の領域”。


彼女だけに許された、安全地帯——

はずだった。


しかし、その静寂の中で意識は必ず同じ一点に戻っていく。


王子の視線。


香を纏わず、探らず、

ただ「理解しよう」とするような、真っ直ぐな眼差し。


(……どうして、あんな目で見たの?)


胸の奥が、またわずかに波打つ。


せっかく香のない世界に戻ったのに、

静けさは、思ったほど守ってくれなかった。


王子の視線を思い返した途端、

胸の中心がひやりと震えた。


茶会の終盤——

ざわめく香語の波の向こうで、

リオネルだけが静かに、まるで“目だけで触れてくる”ように彼女を見ていた。


(……どうして、あんな目で?)


思い出すたび、その視線の輪郭がくっきり蘇る。


警戒ではなかった。

興味本位の好奇心でもない。

同情とも違う。

ましてや、香文化特有の“支配のまなざし”では決してない。


もっと静かで、もっと深くて、

彼女の言葉の奥を確かめようとするような——


「理解しようとしていた目」。


クラリッサは唇を噛む。


(……いちばん、危険な目。)


期待でも、欲望でも、見返りでもなく。

ただ“知ろうとする”だけの視線。


それは、彼女が最も弱いところを突く毒だった。


言葉で話してほしい。

香ではなく、真っ直ぐに向き合ってほしい。

自分でも気づかないほど深く沈んだ渇望が、

その視線に触れた瞬間だけ、ふっと浮かび上がりそうになる。


(ダメ……)


過去が囁く。


期待されることほど、

裏返った瞬間に人を無慈悲に傷つける毒はない。


だからこそ——

どんな形であれ、殿下からの期待だけは受け取ってはいけない。


逃げなければ、と本能が告げるのに、

思考はまた王子のあの目へと戻ってしまうのだった。



机の上の《双鴉》は、

他のどんな贈り物とも違う存在感でそこにあった。


黒曜石を思わせる深い艶。

二羽の鴉が寄り添うように彫られた小さな装飾具。

王子リオネルが、あのとき迷いもなく差し出したもの。


(……捨てなきゃ。)


そう思って、何度も手を伸ばしたはずなのに——

触れた瞬間、わずかな“温度”が返ってくる。


人が触れた温もりではない。

もっと淡く、残響のような熱。


まるで「まだ、ここにいる」と告げるような。


クラリッサは《双鴉》をつまみ上げ、しばし見つめる。


(どうして……

 どうして私はこれだけは捨てられないの?)


答えを探して、心の中をひとつずつ確かめていく。


友情?

違う。彼と友人になった覚えはない。


感謝?

恩を受けたわけでもない。


義理?

そんな感情で、この温度に惹かれるはずがない。


弱さ?

——違う。

彼女の弱さはもっと冷たい場所にある。


(じゃあ……何?)


問いかければかけるほど、胸の奥がざわつく。

理由が分からないからこそ、余計に恐ろしい。


《双鴉》はただの贈り物ではない。

触れれば、期待の匂いも、支配の香りもまとうはずなのに——

どれもない。


だからクラリッサは混乱する。


(……この“温かさ”だけは、読み取れない。)


読めない香。

読めない意図。

読めない想い。


それは彼女にとって、最も危険な未知だった。


にもかかわらず——

彼女の手は、そっとそれを掌に包んでしまう。


捨てようとして握りしめたはずなのに、

離すことができないまま。


クラリッサは《双鴉》を掌に包んだまま、

そっと目を閉じた。


胸の奥に、じわりと広がっていく違和感。

それは温もりではなく、もっと重い——“圧”。


(……駄目。

 これは、手放さなきゃいけないもの。)


そう思うのに、胸が固く、痛むほど強く拒絶する。

なぜなら――彼女は知っている。


期待されることが、どれほど自分を壊すか。


期待は優しさの皮を被った毒だ。

善意の名を借りた支配だ。

親切のふりをした、拘束具だ。


(期待は毒。

 期待は、私を壊す武器。)


過去に、期待という名の香を浴び続け、

そのたびに自分の価値が揺らぎ、

そのたびに失望という毒が返ってきた。


優しい香ほど危険だった。

「あなたならできる」という香ほど暴力だった。

「望んでいる」という香ほど逃れられなかった。


だからこそ、クラリッサは誓ったのだ。

もう二度と、誰の期待も受け取らないと。


——その誓いが、彼女の生存戦略になり、

——彼女の心を守る唯一の壁となった。


にもかかわらず、王子リオネルのあの眼差しだけは。


(……どうして、あんなふうに見るの?)


理解したいと願う光。

寄り添おうとする気配。

香ではない、純粋な意志の熱。


それはクラリッサにとって、毒そのものだった。


もし受け取れば、

彼は彼女の世界の深淵に踏み込むことになる。

そしてその先にあるのは、きっと——

彼にとっても、彼女にとっても破滅。


(だから……絶対に、受け取れない。)


彼女は《双鴉》を握りしめた拳を震わせる。


その震えは恐怖か。

拒絶か。

それとも、ほんのわずかな未練か。


クラリッサ自身にも、まだ分からなかった。


クラリッサは、掌に収めた《双鴉》をそっと見下ろした。


小さな装飾具。

金属でできているはずなのに、どこか柔らかい。

冷たいはずなのに、ひどく温かい。


(……どうして、これだけは。)


期待は拒む。

好意も拒む。

善意も、庇護も、憐れみも——全部、毒。


そう決めたはずだ。

そうして生き延びてきたのだ。


なのに、この小さな《双鴉》だけは——


捨てるべきだと分かっていながら、

手が離れない。


(これは……期待じゃない。

 ……ほんとうに?)


胸の奥が、ひどく痛む。

香ではない痛み。

言葉にもならない、名もない圧迫。


指先に伝わる微かな体温は、

王子リオネルが“理解しようとした”痕跡のように思えてしまう。


(あれは勘違い。

 誤解。

 それ以上でも以下でもない。

 なのに……どうして。)


捨てれば楽だ。

手放せば、もう誰の期待にも触れずに済む。


分かっている。

分かっているのに——


《双鴉》だけは、掌が拒む。


まるでこれを手放した瞬間、

取り返しのつかない何かが壊れてしまうと、

身体が勝手に知っているかのように。


(……やっぱり、離れた方がいい。

 殿下にも、私にも。)


そう結論づけるのに、

手の中の《双鴉》は、なおもあたたかく沈黙していた。


その沈黙こそが、

——“感情の矛盾”という名の導火線となる。


クラリッサは、そっと拳を握りしめた。


掌の中で《双鴉》が、

かすかな温もりとともに沈む。


金属のはずなのに、どこか生き物のような体温。

それは茶会の終盤——

王子リオネルが彼女に向けた、あの“理解しようとする眼差し”の残滓だった。


(期待は毒。)


長い年月で骨の奥まで刻み込まれた真理。

逃れられない呪いでもあり、最も確かな防御でもある。


(ならば私は——殿下からの期待だけは、絶対に受け取れない。)


そう決めた。

決めたはずだった。


だというのに——


握りしめた指先には、

まだ温もりを帯びた《双鴉》が確かに残っている。


捨てられない。

拒めない。

拒むべきなのに、拒まない。


——期待を拒む女が、

 唯一拒めていない“毒”。


その矛盾が、静かに、しかし確実に彼女を侵食していった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ