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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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王子の気づき(伏線)

茶会が終わると同時に、宮廷庭園を包んでいた香の層はゆっくりと散っていった。

夕暮れの陽が回廊に斜めの影を落とし、そこだけ現実が表れているようだった。


王子リオネルは人払いを拒み、ひとり歩いた。

靴音が石畳に乾いたリズムを刻む。だが、その軽快な音とは裏腹に胸の中では重い何かが沈んでいた。


(……何かが、決定的におかしかった。)


歩くたび、思考が足元に落ちるように、違和感が形を成していく。


一つ目の違和感


マルセラが、クラリッサに怯えていた。


香文化の申し子とも呼ばれる女。

香語の扱いでは王都随一の才を持ち、誰もが彼女を“社交界の完成形”と認める。


そのマルセラが――クラリッサのたった一言で、あんな表情をした。


(あれほど香の意味を支配する彼女が……揺らいだ。)


王子は思い出す。マルセラの指先の震え、香の乱れ。

彼女が“負け”を悟ったとき特有の、冷たい焦燥。


(……恐れていた。確かに。)


それは初めて見る光景だった。


二つ目の違和感


クラリッサは香を返さず、言葉で返した。


あの場にいた全員が、香で語り、香で刺し、香で護り、香で嘲る。

王家の存在でさえ、例外ではない。


なのに——

クラリッサだけが、香語の渦に乗らず“言葉”という原始的な刃を選んだ。


(香を使わないのではなく……香で戦う意思がそもそもなかった?)


もし香語の海を泳げないなら、溺れるはずだ。

だがクラリッサは、沈まなかった。むしろ、中心に立って水を割った。


それは“沈黙”よりも異常で、

“反抗”よりも危うく、

“拒絶”よりも深い意味を持つ。


三つ目の違和感


クラリッサだけが、香語の波に沈まず立っていた。


香の揺れ、重さ、温度。

社交界の空気は常に満ち潮と引き潮があり、慣れなければまともに呼吸もできない。


しかしクラリッサは、まるで香が存在しない世界の住人のようだった。


(……あれは、“無関心”ではなかったな。)


ただ香を読まず、ただ無視しているだけでは起こり得ない落ち着き方。

彼女は“香の意味”を理解し、あえて乗らずにいた。

その静けさは、知性か、本能か、あるいは——危険か。


王子リオネルは足を止めた。

回廊の果て、夕闇の色が濃くなる。


(クラリッサ……君はいったい何を見ていた?

 あの場で、何を読んでいた……?)


違和感は不安ではなく、

未知への強い興味へと姿を変えていく。


彼女の沈黙と言葉の矛盾。

マルセラの動揺。

貴婦人たちのざわつき。


どれもクラリッサ一人が原因だった。


王子は気づいていない。

この瞬間、彼の中で“理解したい”という欲求が芽生えたことを。

それがいずれ、逃れられない「執着」へ変わることを——今はまだ知らなかった。



回廊の先に灯る燭火が、揺れながら王子リオネルの影を伸ばす。

彼は歩きながら、茶会でのクラリッサの振る舞いを反芻していた。


(クラリッサは……香を使えなかったのか?)


それは最初に浮かんだ疑念だった。

香文化に不慣れな異国の娘なら、香語の応酬に巻き込まれてもおかしくはない。

発香が弱い貴族は珍しくはないし、香が読めなくて沈む者も多い。


だが——


(いや、違う。)


彼女は“読んでいた”。

マルセラの微香が放つ意味を、寸分違わぬ精度で掴み、

その本質を言葉で返した。


香の層に飲まれるどころか、

香の裏を見通し、剥ぎ取り、

まるで自分の呼吸のように扱っていた。


(……読める。しかも、誰よりも正確に。)


王子は思わず立ち止まった。


香を読める者は、必ず――

自分も香を放つ。


それはこの国では“呼吸”に等しい自然現象。

問いかければ期待の香が生まれ、

護ろうとすれば庇護の香が揺れ、

怯めば濁りが生じる。


香は感情と言葉の延長であり、

使わないという選択はほとんど不可能に近い。


しかしクラリッサは——


(使わなかった。完全に。)


香を抑えたのではない。

弱かったのでもない。

読み取れない鈍さでもない。


――“使わない”意志があった。


香文化という巨大な土俵に、

最初から一歩も足を踏み入れていなかった。


(香で戦わない……?

 つまり、戦う場そのものに立つ気がないということか。)


ではなぜ、香なしでマルセラを退けられたのか。


言葉だけで、香文化の申し子を屈服させるなど、

普通なら不可能だ。


(どうして……?

 どうして香を使わずに、彼女は“勝てた”?)


疑問はやがて、答えの方から王子に近づいてくるようだった。


香は、期待の言語。

期待を放つ者ほど香は強くなる。


その逆を行く者がいるとしたら――


(……もしかして。

 クラリッサは、“期待から外れたところ”で戦っている?)


香文化の核そのものを理解し、

しかしその外に立ち、

期待の連鎖を断ち切る。


それは香文化に依存する者にとって、

最も恐ろしい“無効化”の形。


王子リオネルの背筋を、静かな戦慄が走った。


(香を読むのに、香を使わない……

 そんな戦い方、聞いたことがない。)


クラリッサという少女は、

香文化の枠の外側に存在する——


そう直感するには、十分すぎる異質さだった。


王子リオネルは、歩みを再び進めながらも、頭の中では茶会の光景が繰り返されていた。


クラリッサの言葉は——

あの静かな声音は、香語よりも鋭かった。


(核心だけを抜き取る……

 あれは、ただの洞察ではない。)


マルセラが放った香の意図。

周囲の婦人たちが揺らした感情の波。

失望、期待、牽制、攻撃、従属——

それらすべての“意味”を、クラリッサは即座に見抜いていた。


それも、香で読み取ったというより——

その根にある欲望や意図そのものを掴んでいるように見えた。


(……香に影響されない?)


香文化に生きる者は、誰もが香に反応する。

期待を受ければ温かな香が、

脅されれば濁りの香が、

愛を向けられれば淡い花香が揺れる。


だがクラリッサは一切揺れない。

香を返さないどころか、

香の価値観に巻き込まれる気配すらない。


(香の流れを読むのに……

 香そのものには関与しない?)


そんな矛盾が、王子の胸に重く沈む。


普通の才ではない。

香文化の才能とは別系統の、異質な力。


王子の脳裏に浮かんだのは、茶会で彼女が放ったあの言葉だった。


“期待が毒になる国ですから。”


あれは単なる皮肉や反抗ではなかった。

香文化の構造を——

その根本を見抜いた者の言葉。


(まるで……香そのものではなく、

 もっと深い層で人を見ているようだった。)


香語は“感情の表層”を読む言語だ。

しかしクラリッサはその下の——

感情が生まれる前の動機

欲望が姿を取る前の気配

その領域まで掬い取っているように見えた。


香文化に生きる者が辿り着けない場所。

香が意味を持つ以前の“本音”。


(……そんなことができる人間が、存在するのか?)


謎は深まるばかりだったが——

王子の心には確信に近い感覚が芽生えていた。


クラリッサは、香より弱いのではない。

香に頼らずとも成立する、

別の力を持っている。


(もし彼女が、本当に“別の言語”で世界を見ているのだとしたら……

 その孤独は……どれほどのものだっただろう。)


胸の奥に疼くものを抱えながら、

王子は気づかぬうちに、

彼女の謎へ踏み込む一歩をすでに踏み出していた。



回廊の端に差し込む夕光が、王子リオネルの足をふと止めた。

静謐な空気の中で、彼は先ほどの茶会の余韻を胸の奥で転がし続けていた。


そして——ようやく、ひとつの答えに行き着く。


(クラリッサは……香の世界の“外”にいる。)


香語が常識で、

香が感情で、

香が礼儀で、

香が武器で、

香が階級そのものであるこの国において。


クラリッサだけが、そこに立っていなかった。


(だからこそ……傷つかないのか?)


マルセラの強烈な挑発にも、

周囲の婦人たちの期待の風にも、

彼女は揺れなかった。


まるで香の波が、

彼女の足元をすり抜けていくようだった。


(誰よりも真っ直ぐに、誰かと向き合える……

 そんな、不思議な強さ。)


王子はそう“思い込む”。

——それが誤解であることに、この時点では気づかない。


本当のクラリッサは、外に立ちたくて立ったわけではない。

排除され、踏み外され、

香語を使う資格すら与えられなかった少女の“必然の在り方”だ。


しかし王子の胸に芽生えた理解は、未熟であっても強烈だった。


(クラリッサ……

 君は危ういほど、真実を見てしまう人だ。)


それは他人が触れたがらない“核心”に指を置く力。

香の覆い隠す嘘を剥がし、

人の本音を暴くような、透明な視線。


その透明さゆえに——

壊れやすそうで、放っておけなかった。


(もっと知りたい……

 彼女の見ている世界を。)


胸に芽生えたのは恋ではない。

淡い情動の影すらまだない。


ただ、クラリッサという“例外”への——

理解欲求。

解き明かしたいという、理性的でいて不可思議な衝動。


この瞬間から、王子という青年は、

クラリッサの謎へと深く踏み込んでいくことになる。


自覚もなく、

戻れぬ一歩を踏み出していた。


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