第一章 記録の終端 第五節 揮発
静寂。
光の粒が、呼吸の速度で浮遊している。
音はない。
ただ、分子の震えがかすかに肌を叩く。
クラリッサは、自分の身体がどこにあるのか分からなかった。
境界はもう消えていた。
視界はすべて青。
触れるものはなく、
彼女自身が空気の一部になっていた。
——
思考の奥底で、微かな言葉が形を取る。
「情報は揮発する。記録は香る。」
それは祈りにも似た、理性の残響。
意味を保つ最後の粒。
彼女は理解する。
自分は死んでいる。
だが、失われてはいない。
情報は消滅しない。
ただ、揮発し、香になる。
——
青い光が、彼女の輪郭をなぞる。
それはやさしく、冷たく、完全だった。
細胞が分解され、
血が香へと変換されていく。
息が、空へと溶ける。
「青は記録の匂い。
忘却は、甘い香りのする毒。」
彼女の声が、香の中に滲む。
発話と揮発が同義になる。
言葉は空気に漂い、
やがて意味を失い、
それでも、香りとして残る。
——
画面が静止する。
ノイズ。
砂嵐のような音が微かに広がる。
「……呼吸、香のように揮発。」
報告記録の最後の一行が、
空間に浮かび上がっては崩れる。
文字の輪郭が香煙のようにほどけ、
青の中に溶けていく。
——
そして、完全な暗転。
沈黙。
呼吸の気配も消え、
ただ一つ、花の香が残る。
その香が、
ゆるやかに形を持ち始める。
床。
布。
陽光。
誰かの声。
——
彼女は目を開けた。
薔薇色の天蓋。
見知らぬ天井。
手には、白い絹の肌。
香はまだ、彼女の周囲に漂っていた。
それは、彼女自身の記録の香。
「……転送、完了?」
誰も答えない。
代わりに、花の香が微笑んだ。




