第二戦:手紙と贈り物の“毒”
マルセラは、扇の骨を指先で軽く弾いた。
そのわずかな仕草の裏で、呼吸がひとつ静かに切り替わる。
表情は変わらない。微笑の角度も、声の柔らかさも、完璧に保ったまま。
だが内心では、先ほどの一瞬がまだ胸の奥をざわつかせていた。
――無香で返す、ですって?
クラリッサがかすかに茶盃を傾けただけで生じた“曙の無香”。
香を纏わずに香語を返し、しかも香の序列の外側に立つという、
この国の女なら誰もが恐れ、誰もができない返礼。
マルセラは目を伏せた瞬間だけ、その異質さを反芻する。
(……なるほど。あなたは、真正面から香で殴っても揺らがないタイプ。)
ならば、と彼女の思考はすぐに切り替わる。
(香の形式そのものを、強制すればいい。)
香で攻撃してくる相手には無香で返された。
なら、香の“儀式”に巻き込めばいい。
この国では、贈られた香を受け取れば“従属”であり、
拒めば“敵対”になる。
どちらを選んでも、完全に土俵がこちらのもの。
(受け取るなら、私の手のひら。
拒めば、その瞬間にあなたは“無礼者”。
……選択肢のどちらにも毒がある。
避けようがないわ。)
マルセラの微笑は少し深くなる。
その笑みは、誰にも悟られないまま、ひどく静かで致命的だった。
選択肢だけを毒にする――
それが、彼女が次に選んだ戦略だった。
マルセラは、会話の途切れ目をまるで計ったかのように、
扇子をひとつ優雅に閉じた。
その音は、乾いた“区切り”の響き。
次の幕が開く合図のようでもあった。
「……そういえば、クラリッサ様。」
声は柔らかい。
親切そのものに聞こえる、無害な砂糖の層をまとって。
マルセラは袖の内から、小ぶりな紙包みを取り出す。
包装は素朴だが、寸分の狂いもない角。
その“質素さ”ですら計算されているのが、クラリッサには分かった。
「ほんの礼儀でございますわ、クラリッサ様。
殿下の傍に立つ方へ、ぜひ差し上げたくて。」
差し出された手は、優美で、礼儀正しく、断る隙を与えない。
あくまで「ささやかな贈り物」。
だが――その瞬間。
ふ、と空気がひと筋だけ変わった。
ほとんど感じ取れないほど微量。
香の色がひそやかに変調する。
気づく者はごくわずか。
しかし、そのわずかに触れた者は決して忘れない“印”となる類の香。
《抱擁の鴆》
好意のふりをした拘束。
一度受け取った者は、相手の視線から逃げられない。
差し出されたら最後――
その香語は、そういう意味を持っていた。
マルセラは微笑む。
まるで、ただの贈り物を差し出すだけの淑女の顔で。
だがその丁寧さこそが、儀式。
そして罠。
クラリッサの指先に紙包みが触れたとき、
その静かな戦いが、第二幕へ踏み出した。
《抱擁の鴆》――
その名を知る者ならば、紙包みを見ただけで息を呑む。
だが、目にするのは花弁を乾燥させただけの淡紫の香粉。
むしろ可憐で、少女趣味ですらある見た目。
だからこそ、恐ろしい。
香文化においてこれは呪縛系の贈香に分類される。
表向きは「親愛の証」。
内実は――絡め取るための糸。
1つ目の意味は、
「好意に見せかけた監視」。
甘くほのかに漂う香は、香られた側の存在を記憶に焼きつけ、
贈り主の“視線”を象徴する。
2つ目は、
「受け取った瞬間、関係の主導権を握られる」。
贈られた側は、返礼の香を調合しなければならない。
返さなければ礼儀を欠く――
つまり、関係性の第一歩を“贈り主が決める”ことになる。
3つ目は、
「差し出されたら最後、逃れれば“非礼”になる」。
断れば角が立ち、
受け取れば拘束される。
どちらに転んでも、贈り主の意図からは逃れ難い。
香粉そのものは控えめで優しい。
淡紫の色は夕暮れのように柔らかく、
香りは甘いのに、不思議と脳裏にこびりつく。
忘れようとしても、ふとした拍子に思い出させるような――
そんな“残り香の呪い”を持っている。
この国の香文化において、
《抱擁の鴆》は逃げ場のない贈り物だ。
受け取れば絡め取られ、
拒めば敵対を表明し、
沈黙すれば未熟と蔑まれる。
だからこそ、
マルセラがこれを差し出した時点で、
それはただの贈り物ではなく、
**“結界としての贈与”**だった。
その瞬間から、戦いの第二幕が始まる――。
クラリッサは紙包みを受け取った。
その所作は、淀みなく静かで、無駄がない。
ただ、それだけ――のはずだった。
だが次の瞬間、
彼女は封を破らず、指先で軽く重さを確かめるだけで、
何の感情も乗せずに机の端へそっと置いた。
まるで、
薄紙の中身が“存在しない”かのように。
本来ならば、この場で封を開け、
香りを確かめて、ひと言礼を述べるのが常識だ。
贈り物とは、香文化において小さな儀礼そのもの。
開封は、贈られた想いに応じる行為だ。
クラリッサは、その儀礼を――まるごと抜いた。
その所作が意味するものは、
香語を知る者たちにはあまりに明白だった。
“縁を切る者の手つき”
しっかり受け取り、
しかし中身を開けず、
自分の世界の外側に置く。
それは、
「あなたの香は、
私の境界に入ることを許されません」
という、
最も冷たく、最も非情な拒絶。
目に見える侮辱はひとつもない。
声も荒げず、表情も変えず、香すら纏わない。
なのに――
周囲の貴婦人たちは、一斉に息を飲んだ。
(……開けない?)
(返礼どころか確認すらしない!?)
(あれは……完全な拒絶……?)
世界がわずかに凍りつく。
香りの流れさえ、数秒だけ止まった。
クラリッサは、ただ静かに茶盃を置き直し、
何事もなかったかのように姿勢を整える。
その無言の一手が、
マルセラの第二の攻撃に対する、
完璧な“沈黙の返礼”だった。
マルセラは微笑を保っていた。
扇を握る指先の角度ひとつ乱れない。
周囲の視線もすべて計算したまま、完璧な社交の顔を崩さない。
――だが、胸の奥を、冷たい電流がひと筋走った。
(……今のは、ただの“無礼”ではないわ。)
クラリッサが封を開けず、机へ置いたあの所作。
優雅ですらある無関心。
拒絶を宣言したわけでもない。
怒りを見せたわけでもない。
だからこそ、なおさら異質だった。
(香を返さない……?
いえ、“返す気がない”のね。)
香を理解していないのではない。
無視するほど無知なのでもない。
クラリッサは香語を“読めている”。
それは第一戦で証明された。
読めるのに従わない。
意味を知りながら乗らない。
土俵そのものを拒む。
マルセラは静かに呼吸を整えながら、
内心ではぞくりとした危機感を覚えていた。
(香文化を拒否する者――
そんな人間、貴族社会では存在しえない。)
香語は階級を示し、
感情を装飾し、
外交を円滑にし、
時に敵対を避けるための最低限の共通言語だ。
そこから降りてしまえば、
社会のルールを逸脱した者として扱われる。
普通は、そんな愚を犯す者はいない。
だが。
(この娘……
“香で支配する”という前提を無視している。)
支配が通じない相手ほど、
扱いにくい存在はない。
香攻撃も、
階級香も、
縛香も、
すべて“香を価値とする者”にしか効かない。
その基盤を拒むクラリッサは――
(……危険ね。)
香語を読めて、
けれどその秩序に染まらない。
香文化から見れば異端。
排除すべき存在。
しかし、同時に。
(こんなの……初めてだわ。)
恐れと、微かな高揚が、
マルセラの胸中で静かに混ざり合う。
そして結論は一つ。
(香で支配できない女――
この国で、最も厄介な存在よ、クラリッサ様。)
茶室の空気が――裂けた。
ほんの紙一重。
誰も声を荒げてもいないし、笑顔は崩れていない。
それでも、香がわずかに揺らいだ瞬間、
その場にいたすべての婦人たちが息を呑んだ。
扇子の陰で囁き交わされる気配。
高貴な香の層が、さざ波のように震えている。
(今の……開けなかった?)
(返礼もしないなんて……。)
(“鴆”を無視するなんて、ありえない……。)
誰も言葉にはしない。
しかし、空気ははっきりと軋んだ。
王妃は、長年培った宮廷感覚で変化を察知した。
扇をわずかに持ち上げ、目元だけを細める。
その所作は穏やかだが、
その奥に潜むのは“これは厄介な展開”という判断だった。
(あの子……香文化の圏外にいる。
放置すれば、場の均衡が崩れるわ。)
だが、王妃は一切動かない。
場を壊すのは、王家として最も避けるべきことだから。
そして――一人だけ、違う解釈をしていた男がいた。
王子。
彼はクラリッサの“開けずに置いた”動作を見て、
迷いなく胸を熱くする。
(クラリッサ……。
香の罠に気づき、あえて拒んだのか。
あの《抱擁の鴆》の意味を理解して……。
やはり君は強い。)
――当然、誤解である。
クラリッサはただ、
「距離を取りたい」「巻き込まれたくない」
という一点で動いたに過ぎない。
しかし王子は、
その無香の静寂を“意志ある抵抗”だと信じてしまった。
空気の裂け目は、
この誤解によってさらに深く広がっていく。
そしてそこから、
次の“毒の対話”が静かに芽を覗かせるのだった。
茶室の緊張がゆっくりと沈殿していく中、
マルセラは紙包みを机に置かれたままの光景を、
横顔の微笑だけで受け止めていた。
だが――その瞳の奥で、
計算の盤面が静かに組み替えられてゆく。
(……香では落ちない。
ならば、武器を替えるだけ。)
香語が効かない相手に、
香で攻めるのは愚策だと即座に判断したのだ。
(この娘は“土俵”に上がってこない。
だったら――周囲の土壌を全部味方につけて、
彼女の立つ場所を消してしまえばいい。)
マルセラの思考は冷静で、残酷だった。
香の罠が無効なら、
今度は言葉と人間関係が刃になる。
彼女は周囲の婦人たちの目線を一つ一つ拾い、
次にどこへ香を流すべきかを読み取り始める。
これは、
“第二層の戦い”への移行。
一方、クラリッサは――別の意味で深く息を吸った。
(……やっぱり私は、殿下の近くにいてはいけない。)
香文化を敵に回すつもりはまったくない。
だが、巻き込まれれば巻き込まれるほど、
誤解が膨らみ、圧力が増していく。
自分のせいで王子の立場が揺らぐ未来は、絶対に避けたい。
(もっと距離を置こう……。
誤解されても、嫌われてもいい。
これ以上、殿下に迷惑をかけられない。)
その決意は、自分が思う以上に
“悲しいほど優しい拒絶”だった。
そして――王子は。
誰よりも強い確信を胸にしていた。
(……クラリッサは、気づいている。
誰が敵で、何が罠で、どう振る舞えば自分を守れるか。
あの静かな拒絶は……覚悟だ。)
完全に誤解である。
しかしその誤解は、
守りたいという感情に火を灯し、
ますます燃え広がっていく。
(……ならば、俺が守るしかない。)
強まる決意。
深まる誤解。
すれ違う二人。
そしてマルセラはその両者を見抜き、
冷たく微笑む。
(さあ――次は“包囲戦”よ、クラリッサ様。)
三者三様の思惑が、
茶室の空気に新たな層を形作り、
次章の“毒の対話”へと滑らかに続いていく。




