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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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第一戦:香りの“返し”

 茶会のざわめきは穏やかに続いていた。

 だが女たちの扇の奥では、互いの“香の圧”を測る静かな攻防が繰り返されている。


 その中心へ、ひときわ優雅な歩みでマルセラが滑り込んだ。

 微笑の角度、瞳の柔らかさ、指先の振る舞い──すべてが完璧に計算されている。


 そして、何気ない雑談の一つとしてクラリッサへ声をかけた。


「王子殿下の傍に置かれているとか。

 侍女のご昇格、とても光栄なことですわ。」


 一見すれば優しさそのもの。

 どこにも棘はない。

 だが、クラリッサが返答をするより早く、マルセラの香扇子がひと揺れした。


 ふわり──乾いたような、しかし微かに甘い残り香を含んだ香気が漂い、近くの婦人たちの視線が鋭く動く。


 それは《羊皮紙の灰》。


 紙片が指先で潰れ、灰となって散るような、淡い崩落の香。

 社交界では“もっとも紳士的な侮辱”として知られ、

 その意味は明確だった。


 あなたの立場は仮のもの。

 肩書きなど、一撫でで灰にできる。

 あなたには本物の価値がない。


 褒め言葉と同時に、立場そのものを削り取る毒の香。

 高度で洗練された攻撃。

 これを真正面から浴びれば、たいていの侍女は青ざめて跪く。


 クラリッサの周囲の空気が、わずかに収縮した。

 遠巻きの婦人たちは扇の裏で囁き合う。


「来たわ……」

「《羊皮紙の灰》。あれは明確な格下宣告よ。」

「無香の娘にどこまで耐えられるかしら……。」


 その囁きを、マルセラは満足げに受けとめる。

 視線を流しながら、さらに一歩だけクラリッサへと寄り添った。


(これで、あなたの反応を見せて。

 あなたが“どの程度の器”なのか──ここで決まるわ。)


 香の刃はすでに、クラリッサの喉元へと置かれていた。



 マルセラの《羊皮紙の灰》が、乾いた甘さを残して広がったとき──

 クラリッサはまったく動じなかった。


 香を返さない。

 纏いもしない。

 抵抗のそぶりすら見せない。


 だが、その“無反応”こそが、最も鋭い返礼だった。


 クラリッサは静かに茶盃を持ち上げる。

 ゆっくりと、ほんの一指ぶん傾ける。

 ごく自然な所作。誰も責められぬ、ただの茶会の一挙動。


 その瞬間──。


 盃の縁から立ち昇る湯気が、柔らかく曲線を描き、

 空気の嚙み目を滑るように香らせる。


 《曙の無香》。


 香りが“ない”のではない。

 何も変わらない、という完成された静寂。

 混ざらず、拒まず、しかし決して染まらない。


 その意味は、場の全員が理解した。


 「あなたの評価には影響されない」

 「あなたの香は私を染めない」

 「私はあなたの序列の外にいる」


 あまりに静かな、あまりに挑発的な宣告である。


 扇を握る婦人たちが、一瞬息を呑んだ。

 香を返さないことは降参ではない。

 むしろ──


 香語そのものに価値を置かない、という完全否定。


 香文化の支配するこの国において、

 それは剣を抜かずして敵の刃を砂へ埋める行為に等しい。


 クラリッサは伏し目を保ったまま、淡々と盃を戻す。

 ただそれだけで、周囲の香がふいに色を失っていくようだった。


 わずかに、マルセラの笑顔に影が差す。

 その影を誰よりも早く見逃さなかったのは──

 やはり周囲の婦人たちだった。


(……無香の娘が、あの《羊皮紙の灰》を無効化した?)

(どうやって? いや……“どうでもよい”という態度……!)


 香の戦場において、クラリッサの沈黙は盾ではない。

 相手の武器そのものを“無効化する壁”。


 静けさがひりついた緊張に変わる。

 次に動くのは──攻め手を失ったマルセラか。



マルセラは、外見上は完璧だった。

 扇を持つ指先も、微笑の角度も、呼吸の深さすら乱れない。


 だが──クラリッサの盃から立ちのぼった《曙の無香》を嗅いだ瞬間、

 ほんの一拍だけ、瞳の奥に影が落ちた。


 誰も気づかぬはずの、瞬きにも満たぬ揺らぎ。

 それでも、確かにそこにあった。


(……《曙の無香》?

 香を纏わずに、あれほどの返礼を?)


 香を“使わない”のではない。

 ――“香を使わずに香語を操る”。


 そんな芸当、この国の誰も想定していない。

 香文化の文法そのものの外側から、静かに殴られたような感覚。


(これは……厄介ね。

 無香という空白が、技量ではなく“意思”の表現だなんて。)


 胸の奥で、冷たい何かがひとつ砕けた。

 同時に、熱を帯びた別の感情がすっと芽を伸ばす。


(面白い……)


 マルセラはゆっくりと微笑を深めた。

 誰も気づかない、ほんの数度の変化。

 しかしそれは、彼女が“本気になる前”にしか見せない顔。


 静かに、しかし確実に空気が変わる。


(ならば次は──もっと深いところへ刺すわ。

 あなたが本当に外側から来た存在なら、

 内側の毒を、どこまで理解できるのかしら。)


 マルセラの香が、無言のままわずかに濃度を上げた。

 まだ攻撃ではない。

 けれど、これから始まる“本当の戦い”の予告としては十分すぎる変化だった。



 華やいだはずの茶会は、いつの間にか色を失っていた。

 杯の触れ合う軽やかな音も、淑女たちの笑い声も、

 クラリッサとマルセラの間に張り詰めた“静寂”に吸い込まれていく。


 そして──ざわめきが止む。


 複数の視線がクラリッサへ集まった。


「無香の娘が……返した?」

「今の……《曙の無香》? 格上返礼じゃないの?」

「マルセラ様の《羊皮紙の灰》を無効化……?」


 ひそやかな囁きが、会場の空気をさらにざらつかせる。

 香を武器とする者たちにとって、

 香で返さない返礼ほど理解しづらく、不気味で、恐ろしいものはない。


 王妃は扇をゆるりと持ち上げ、

 その影から興味深げに瞳を細めた。


(無香のまま返す子……?

 これは思っていたより“遊べる”かもしれないわね。)


 一方で王子は、ただ静かにクラリッサを見ていた。

 表情は変わらないが、その眼差しには明確な意思が宿る。


(……やはり彼女は、香の戦場でも屈しない。

 香に頼らず、それでも押し負けない。)


 まるで“誇るべき強さ”を見つけたかのように。


 ──だが、全て誤解だった。


 クラリッサに戦う意志はない。

 ただ、香語が読めてしまうから、

 そして香を纏わないからこそ、無香で返すしかなかっただけ。


 けれど周囲は、誰一人としてそれを理解しない。


 誤解は音もなく深まり、

 “無香の娘は香の戦場でも怯まない”という評判が、

 その場で静かに形成されていく。


 そして──


 香の戦場は、次の段階へ進んだ。


 より深い毒の層へ。

 より陰湿な駆け引きへ。

 そして、逃げ場のない“王妃の盤上”へ。


マルセラは微笑みを崩さぬまま、静かに扇を畳んだ。

 だがその仕草の奥にある気配だけが、確実に変わる。


(次は……《薄暮の冠》。

 この娘の“居場所”を、ここで固定する。)


 その香語は“階級の固定”。

 一度浴びれば、その日の社交場での序列が決定してしまう。

 直接的な侮蔑ではなく、“あなたはここまで”という上からの認定。

 最も貴族的で、最も残酷な香。


 マルセラはすでに指先で、

 その香を生む配分を計算し始めていた。


 その空気を、周囲の貴婦人たちは見逃さない。

 香の流れが、徐々にマルセラの側へと収束していく。


「マルセラ様が次の手に入られるわ」

「なら、合わせた方がよろしいでしょう」

「無香の娘がここで退けられるなら……ねぇ?」


 彼女たちの纏う香が、じわりと同系統へ寄っていく。

 “群れ”が形成される匂いだった。


     ◇


 一方、クラリッサはその気配を静かに読み取っていた。


(……私が狙われる理由。

 殿下の傍にいる、だから。

 王子の周囲に影響を与える“かもしれない”存在……だから。)


 香文化の中では、

 “可能性”を排除するのは当然の戦略。


 クラリッサはそっと視線を落とした。


(だったら……私はやっぱり、距離を置くべき。

 殿下のためにも。)


 自分が王子の人生を乱すわけにはいかない。

 そう思うほどに、胸の奥が静かに締めつけられた。


     ◇


 そしてその頃、王子はまったく逆の誤解に囚われていた。


(クラリッサは……香の戦場でも揺るがない。

 彼女は強い。

 守られる必要など、ない……?)


 評価は上がり続け、

 本人の意図とは真逆の方向へ転がっていく。


     ◇


 三者三様の想いが、静かに、しかし確実に絡み合う。


 マルセラの計算された攻撃。

 王子の誤った理解。

 クラリッサの距離を置こうとする決意。


 そのすべてが、

 これから訪れる“香による毒の対話”を

 さらに複雑にし、さらに深くしていくのだった。





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