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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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茶会での“香りの挨拶”は毒の宣戦布告

茶会は一見、春の湖面のように穏やかだった。

笑い声は薄く、金のティーセットの触れ合う音も控えめで、

誰もが優雅な仕草を徹底している。


——だが、空気の底では別のものが渦巻いていた。


婦人たちの纏う香りが、淡い戦火のように重なり合い、

互いの距離や階級、勢力までもが香の強弱で語られる。

言葉よりも早く、香が駆け引きを始めている。


そんな“静かな戦場”のなかで、

マルセラは柔らかい笑みを崩さぬまま、ゆっくりと歩みを変えた。


——自然に見える。それが重要。

あくまで偶然の流れに身を任せているだけ、

という完璧な演技。


けれど、その足の運びは計算そのものだった。


会話の輪へ入っては軽く微笑み、

誰かの手をとっては何気なく褒め、

視線を巡らせながら、

ほんの数歩ずつ軌道を修正していく。


ターゲットはひとり。

無香という“空白”を背負う、殿下の傍仕え——クラリッサ。


その席のそばへと近づく“瞬間”だけ、

マルセラは纏う香の濃度を、わずかに、ほとんど知覚できぬほどに強めた。


自分の色を、空白に落とすために。


(この娘の“無香の空白”。

 そこに私の色を一滴落とす……それだけで十分。)


彼女の内心は静かで、澄みきっている。

指先に力などいらない。

香の一滴のほうがよほど鋭く、確実に刺さる。


そしてマルセラは、何の構えもなく、

ただ優雅な婦人の歩みに見える流れのまま、

クラリッサのそばへ辿り着いた。



マルセラは、まるで優雅な儀礼をなぞるだけのように、

香扇子をそっと開いた。


薄紫の縁が光を受けて柔らかく揺れ、

扇面からは微かな香の薄膜がふわりと広がる。

その仕草には一片の敵意も見えない——

見えるのは、完璧な淑女の“挨拶”でしかない。


だが、クラリッサだけが知っていた。

香扇子を開く角度、呼吸の深さ、そして——

礼を最も深くする、その刹那に。


マルセラの香りが、急激に変質した。


《白絹のしらぎぬのどく


香りというより“薄い空気が白く光る”ような気配。

鼻腔にはほとんど残らず、触れればすぐに散る。

だが、その軽さこそが意味を持つ。


——あなたは透明。

——存在感が薄い。

——価値が低い。


“軽さ”を侮蔑として突きつける、

社交界特有の白い刃。


吹けば飛ぶ布のような“白絹”を匂わせる、

挨拶に偽装された攻撃。


周囲の婦人たちは、扇子が揺れる一瞬に空気が冷えたのを感じた。

会話が途切れ、視線が流れ込む。


(……白絹を使ったわ。)

(しかも挨拶で? あの子、本気だわ。)

(無香の娘がどう反応するか、見ものね。)


マルセラは穏やかに微笑んだ。

その声だけは、春の陽だまりのように柔らかい。


「ご挨拶が遅れまして——クラリッサ様。」


礼の終わりとともに、白絹の毒はすっと薄れ、

彼女の周囲には優雅な葡萄花の香が戻る。

だが刃は確かに刺さった後だった。


(この程度で揺らぐのなら、

 殿下の傍には立てないはずよ。)


微笑んだまま、マルセラの瞳の奥だけが光を失っていた。



クラリッサは、一切の揺らぎを見せなかった。


白絹の毒がふわりと触れた瞬間、

多くの婦人たちが「どう反応するのか」と息を潜めたが——

クラリッサはただ静かにまぶたを伏せ、

淡々と礼を返しただけだった。


「ご丁寧に、ありがとうございます。」


声は低く、淡泊で、波ひとつ立たない。

その無表情は、感情の欠落ではなく——

“あなたの挑発を戦場として認めません”

という、明確な拒否の姿勢だった。


周囲の香りが一瞬ざわめき、婦人たちの思惑が揺れる。


(表情が……動かない?)

(白絹を浴びて、この反応?)

(無香の娘、ただの弱者じゃない……?)


その視線のざわつきを、クラリッサは背中で感じながら、

心の内だけで静かに言葉を紡ぐ。


(……この国の“挨拶”は、好意ではなく序列の確認。)

(まず相手に毒を一滴流し込み、自分の立ち位置を示す。)

(さきほどの白絹は——“私はあなたより高位”。

 ……つまり、ここからはもう戦いだと宣告している。)


ただし。


クラリッサは香を纏わない。

攻撃の香語も、威圧の香も、反撃の香りも使えない。


香を使う戦場においては、

彼女は“盾すら持たない戦士”のようなものだった。


だが——


(……反撃できないからといって、負けるとは限らない。)


香が使えないなら、香以外で戦えばいい。

クラリッサの瞳の奥には、冷静な光だけが宿っていた。



庭園の空気が、色を変えたように感じられた。


香の流れがわずかに渦を巻き、

婦人たちが一斉に扇を口元へと持ち上げる。

その仕草は、優雅というより“観察者”の態勢だ。


「始まったわ……」

「マルセラ様は、今日は容赦なさらないでしょうね。」

「無香の娘が、どこまで耐えられるかしら。」


ひそやかな囁きが空気に溶けるたび、

白絹の毒を中心に、庭園の一角は

まるで舞台の照明が落とされたように陰る。


婦人たちの視線は鋭い。

そこにあるのは憐れみでも好奇心でもない——

勝敗を見極めるための、冷ややかな期待。


そして、その期待さえも

マルセラは武器として利用していた。


彼女は微笑を崩さず、

クラリッサの周囲に“香の壁”を静かに広げていく。


透明な膜のように見えないが、

香りの流れが確実にクラリッサを囲い込んでいく。

逃げ場を塞ぐための、柔らかい檻。


(さあ——どうするの、クラリッサ様?)


柔らかい微笑の奥で、

マルセラの心は完全に“戦闘の構え”へと沈んでいた。



庭園の空気は、もうすでに静寂ではなかった。

香りが語り、視線が刺し、沈黙が罠になる——

そうした“社交界の毒の文法”が、ゆっくりと形を取り始める。


白絹の毒は、ほんの序章。

その淡い膜の奥で、マルセラは次の一手を組み立てていた。


(無香で立つ娘……。

 ならば、その無香を“弱点”として証明してあげる。)


彼女の微笑は依然として柔らかい。

しかし、その優しさは刃の鞘に過ぎない。


クラリッサは、包囲されつつある空気を読み取りながら考える。


(……香を使わずに戦う方法。

 私には、香で語る術がない。

 でも。だからこそ、“読める”という優位がある。)


香は放てない。

だが読める。

読める限り、相手の刃の角度も速度も見逃さない。


(無香のまま——この場を切り抜ける。)


決意が静かに胸の底に沈む。


その間にも、マルセラは動いていた。

ゆっくりと会話の輪を移動しながら、

他の貴婦人たちの香を微細に誘導していく。


・若い令嬢には“甘い花香”の濃度を上げさせる

 → クラリッサを“未熟”と示す包囲網

・軍部派の夫人には“乾いた樹脂香”の方向を変えさせる

 → 威圧の圧力線をクラリッサへ集中

・扇の角度や息遣いで香りの流れを制御

 → 見えない網のようにクラリッサの足元へ集める


すべてが、あくまで“自然に見える”動き。

誰も気づかない。

しかしクラリッサには、ひとつひとつが読めてしまう。


(……次は“格下宣告”。

 もっと強い香が来る。)


茶会は穏やかに続いているようで、

実際には——

二人の女の間で、すでに戦争が始まっていた。





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