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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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核心人物:マルセラ・ヴァインの登場 ――“香で殴らず、香で刺す女”の最初の一刺し

季節の陽光がやわらかく降りそそぐ庭園。その空気が、

ほんのわずか――花弁が触れ合うほどの微細な揺らぎを見せた。


風、と呼べるほどではない。

しかし、クラリッサだけがその異変を捉える。


香りだ。


ゆっくりと、だが確実に、

淡い葡萄花の香が空気の層を一段、また一段と押し上げていく。


優雅で、澄んで、甘すぎず、けれど鋭い。

丸みを帯びた花香の奥に、ひと筋の針のような刺激が潜んでいる。


(……来た。ヴァイン家特有の“絞り香<しめりこう>”。

 姿が見える前から、存在そのものを刻みつけるやり方。)


クラリッサが静かに息をつくと、まるで合図であるかのように

周囲の貴婦人たちがざわめき始めた。


「ヴァイン家の公女様が……」

「今日もまた、香りだけで場を支配してしまうのね」

「王子の婚姻候補が揃うなんて……これは見物だわ」


声は抑えられているが、期待と緊張が混じっている。

彼女らの髪に編み込まれた芳油、袖口の香、卓上の薫香――

どれもが、一瞬で色を変えたように感じられる。


空気が硬くなる。


目に見えぬ香りの網が張り巡らされていく。

その中心に、まだ姿を見せぬ“香の王女”が向かっているのだと

誰もが理解していた。


クラリッサは、ただひとり静かに立つ。

予兆の香を、計算式のように読み解きながら。


(……さて。今日の毒の主は、ようやくお出まし。)



マルセラ・ヴァインの姿が現れた瞬間、

庭園のざわめきは、静かに、しかし確実に“視線の一点化”へと変わった。


淡紫の絹が風を受けて、わずかに揺れる。

銀糸が陽光を吸い込み、柔らかな燐光を帯びる。


彼女は、微笑んでいた。

慈母にも似た、誰をも包み込むような、完璧に計算された“優しさ”の顔。


けれどクラリッサの眼には――

その歩みこそが、まるで猛禽の滑空のように鋭く映っていた。


***


マルセラは、通路の中央ではなく、

ほんの指一本ぶんだけ左寄りを歩いていた。


(王妃陛下と軍部派の“ちょうど中間”……位置取りすら外交。)


後ろに控えた侍女は、香瓶をひとつだけ持っている。

貴婦人たちが複数の香具を携えるのが常である中、それは異様なほどの簡素。


(“攻撃の必要なし”。

 この場の全員を、最初から格下に見ている証。)


さらに、マルセラの髪に編み込まれた芳油の濃度は――

ヴァイン家の三段階のうち、最も薄い“宵薄<よいすす>”。


本来なら「穏やか」「争いを望まない」の意味。

だがクラリッサだけが、その奥に潜む矛盾を嗅ぎ取る。


(……嘘。

 “戦う気がない”という宣言ほど、挑発的な手札はない。)


周囲の貴婦人たちはその優雅さにため息を漏らすが、

クラリッサの内心には、ひとつの結論が浮かぶ。


全部が計算。

外見は柔らかく、動きは致命。

香りは手加減しているように見せかけて、すでに全員を掌で転がしている。


マルセラ・ヴァインは、

まさに“香で刺す女”として、戦場に降り立ったのだった。


マルセラは、歩みを止める。

淡紫の裾が静かに揺れ、庭園の光を受けて淡く透けた。


そして――

まるで舞台の幕が下りる直前のような完璧な所作で、

王妃と王子に向けて深く、一礼した。


「本日はご招待を賜り、光栄に存じます――陛下、殿下。」


その瞬間だった。


髪に編まれた芳油が、ひとつだけ、ふっと膨らむ。

香りは決して強くない。ただ、ほんの刹那だけ濃度を上げる。


クラリッサには分かる。


(……“敬意”じゃない。

 王妃陛下に向けたメッセージ――

 『あなたが中心でいてくださって構いません。

  私は脅威にはならない』という、極めて巧妙な示威。)


王妃は柔らかく微笑み返した。

その笑みは、母の慈愛と王家の威厳を併せ持つもの。

だが瞳の奥に灯った小さな光――

それは**「この娘、ただ者ではない」**という興味の火種。


そして王子は、わずかに頷いただけだった。

礼節としての反応。表情の変化もない。


だが内心では、別の香が揺れていた。


(……厄介だ。

 この空気は、彼女が“戦場を握っている”時のものだ。)


その冷静な判断とは裏腹に、

王子の横顔を見つめる視線が、増え始める。


マルセラが、環境を支配し始めた証でもあった。


マルセラは、庭園の光の中をゆっくりと歩き、

まるで散歩の途中でたまたま目に入ったかのように――

クラリッサの席の前で足を止めた。


だがクラリッサだけが知っている。

その歩みには“偶然”という成分が一滴も含まれていない。


近づくほどに、葡萄花の香が濃度を変えながら押し寄せてくる。

圧力とも、包囲ともいえる香の壁。

無香であるクラリッサの周囲に、

あえて“空白を埋めるように”漂わせている。


柔らかい笑みを浮かべたまま、マルセラが語りかけた。


「初めまして、クラリッサ様。

 殿下の傍仕えと伺っております。

 ――香を纏われないのですね。とても珍しいこと。」


声は穏やかで、礼儀に満ちている。

しかし、その香には別の台詞が隠されている。


“無香は弱さ。

 その弱さの理由を、私は暴ける。”


クラリッサは、ほとんど微動だにしない。

視線だけを合わせ、静かに頭を下げる。


「はい。

 必要がありませんので。」


柔らかい返答。

だがそのどこにも、怯えも迎合もない。

ただ、事実を述べただけの無味の返し。


(挑発に乗らない……。

 でも、それが一番火をつける返しよ、クラリッサ様。)


マルセラの微笑が、ほんの僅か深くなる。

花が綻ぶような笑み――

だがその奥に、最初の“鋭さ”が確かに芽生えた。


マルセラは、ちょうど談笑でも始めるかのような自然な仕草で、

クラリッサの隣――絶妙に近すぎず遠すぎない距離へと腰を下ろした。


その瞬間、

ふわり、と薄い膜のような香が周囲に展開される。


柔らかい葡萄花の香。

けれど、その広がり方は計算そのものだった。

空気の層を静かに重ね、

クラリッサの“無香の領域”を包み込むように覆っていく。


ただ座っただけ――

だが、それは十分すぎる“宣戦布告”だった。


周囲の貴婦人たちが、

さざ波のように視線と囁きを投げ始める。


「……始まったわね、香の読み合い。」

「勝てる相手じゃないでしょうに、あの子。」

「でも……無香の者がどう抗うのか、興味深いわ。」


庭園の一角が、静かに熱を帯びる。


クラリッサは、淡々とその香りの動きを読み取っていた。


(――攻撃ではない。

 殴りつける匂いはない。

 でも、刺す。確実に、急所だけを。)


マルセラの香は優しく、甘い。

けれど、その層の奥にあるのは、

“笑顔のまま相手の動脈を指先で掴む”ような戦い方だった。


彼女の視線は、クラリッサの反応を楽しむでもなく、

ただ当然のように見ている。


まるで、

「ここから先は、あなたが踏み込む番よ」と言っているように。


クラリッサは瞬きを一度だけし、静かに結論を下した。


(――この女こそ、今日の“核心”。

 毒で語る者たちの頂点に座る、人。)


茶会の中心に座る王妃でもなく、

王子でもなく、

どの派閥の重鎮でもない。


目の前のこの女――

マルセラ・ヴァインこそが、

“香の文法”を操る社交界の王者だった。


マルセラは、柔らかな微笑をそのまま保っていた。

頬の角度ひとつ、まつげの伏せ方ひとつさえ計算し、

周囲には優雅そのものの“貴族の理想像”を見せている。


だが――瞳だけが、別の温度を宿していた。


冷たく、透明で、研ぎ澄まされている。

毒を溶かした氷水のように。


クラリッサの無香の輪郭を静かに測りながら、

マルセラはゆっくりと心の内で言葉を紡いだ。


(殿下のそばには、決して似合わない女。

 ただの侍女にすぎないはずなのに……

 どうして、あの方が彼女を見る目は揺れないのかしら。)


葡萄花の香が微かに揺れ、

クラリッサの周囲を塗りつぶすように流れていく。


(排除すれば済む、という簡単な話でもない。

 ――あなたは、“殿下を変える存在”になり得る。)


その可能性が、むしろ脅威だった。


だからこそ──

マルセラは微笑んだまま、香をさらに一層薄くし、

鋭さだけを残してクラリッサに触れさせる。


(殴る必要なんて、ないの。

 乱暴な香りは下品だわ。)


彼女の香は柔らかく甘く、

けれど刃のように細い。


(私は――香で刺すだけでいい。)


ほんの針先ほどの傷を、確実に、深く。

そのためだけに、マルセラはここに来ていた。






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