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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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決定的な誤解 ――二人の思考はすれ違い、しかし絡みつく――

夕陽が完全に沈みきる直前、書斎の灯火だけが王宮の一角を淡く照らしていた。

静寂は、まるで事件そのものが嘘だったかのように深い。

王子は机を離れ、窓辺へ歩み寄ると、

クラリッサが去っていった扉をじっと見つめ続けていた。


扉の前には、彼女の足音の名残すらない。

だがその静けさの裏に、あの侍女だけが纏う張りつめた空気がまだ漂っている気がする。


(……行ってしまったな。)


王子は胸の内にわずかな空白を覚えながら、

外の薄闇に目を凝らした。

落ち着いた灯火が窓に映り込み、

その中でクラリッサの横顔の残像がふと揺れる。


一方――。


クラリッサは長い回廊を歩いていた。

無人の廊下は微かに冷え、

燭台の影が彼女の背中に薄い裂け目のように寄り添う。


掌には《双鴉》の小瓶。

指先で隠すように包み込み、

胸元の影へと押し当てる。


歩を進めるたび、

瓶の中の淡い青がかすかに揺らぎ、

衣の布越しに冷たい気配となって伝わってくる。


(殿下……どうして、こんな香りを。)


立ち止まりかけた足を、意識して動かした。

影の中に紛れるように、

決して誰にも見つからぬように。


王子は窓辺で、

クラリッサは回廊の影で。


同じ瞬間、

違う場所にいて、

ただひとりの同じ人物のことだけを思っている。


――互いの胸に、互いの姿だけが滲んでいた。



王子の瞳は、窓の外の暮色を映しながらも、どこか遠くではなく、確かに室内の一点――扉の先に消えたクラリッサへ留まっていた。静かに、しかし内側は確信で満ちている。


(クラリッサは…私の言葉ではなく、香りそのものを読んでくれるのだ。あの拒絶も、単なる距離の取り方ではない。彼女なりの警告であり、理解の証だ。)

そう思えば思うほど、王子の胸には温度が戻る。拒まれたのに心地よい。拒まれたのに信頼の根拠が見える——それは不思議な確信だった。


《双鴉》を差し出したときの彼女の目つき、受け取り方の微かなためらい、そして最後に見せた微笑。すべてが一本の線でつながり、王子の理解は揺るがないものとなる。彼女は言葉で語らぬ分だけ、余計に真実を示しているように見えた。


(傍に置こう。彼女ほど私の内側を知る者はいない。)

王子の決意は、思いの外あっさり現実へと落ちていく。護衛でも顧問でもない、もっと近い位置に。理解者として、目の届く距離に。


窓の硝子に映る自分の横顔が、ふと《双鴉》の青を連れて揺れる。彼はそこで初めて、自分が何を求めているのかを確かめるように息を吐いた。孤独を分かち合う者。秘密を抱えて静かに歩む者。そんな人の隣で、彼は自分の理想を語りたいのだと気付く。


だがその確信は、ほとんど滑稽なほどに一方的だった。彼の読みは親切で、温かく、そして致命的に見当違いだ。クラリッサが胸に閉じ込めたものは、理解ではなく「隠すべき真実」だったのに——。


硝子越しに見える夜は、静かに深まっていく。王子の呼吸だけが確信の鼓動を刻み、廊下の影ではクラリッサが《双鴉》を胸に押し当てて歩き続ける。二人は同じ人物を巡り、真逆の地図を描いている。

その誤差こそが、これから彼らを逐一追いつめていく。



回廊に満ちる夕闇はすでに紫を帯び、燭台の灯りが揺れるたび、壁に映る影も細く伸びたり縮んだりしていた。

クラリッサはその途中でふいに歩みを止める。足音が静まり、世界の輪郭が急に遠くなる。


掌の中の《双鴉》が、こつりと指先に触れた。

青い液体は光を抱かず、闇の中でただ沈むように揺れる——それは彼女の胸中そのものだった。


彼女は深く息を吸い、ひどく小さな声で独白する。


(……殿下。

 私が“香り”を読む限り、

 あなたの理想にとって、私は毒にしかならない。)


王子が向けた信頼は、疑いようのない本物だった。

それは刃ではなく、柔らかく包む手。

だからこそ——危うい。


彼の差し出す未来は、あまりに明るい。

その光に触れれば、自分の影ばかりが濃くなる。

異能も、任務も、出自も。

どれも王子の未来にとっては、「汚れ」と呼ばれる方が正しい。


(守るためには……隠すしかない。

 距離を置き、

 私自身の能力も素性も封じて、

 殿下の思い描く世界に私の影を落とさないようにするしか。)


足元の石畳が冷え、胸の奥の熱だけが痛むようだった。


(殿下が近づけば近づくほど……

 私は、殿下の未来を壊す要因になる。)


だからこそ、結論は残酷なほど明快だった。


(……離れなければ。

 でなければ、私は殿下を壊す。)


《双鴉》の青が震える。

指がそれを手放そうとして、しかし結局は強く握りしめてしまう。

捨てられない——その矛盾もまた、彼女を静かに苦しめた。


見えない場所で、王子は逆の結論へと辿り着いていた。

「離す気はない」と。


互いの思考はすれ違ったまま、決定的な距離を形作っていく。

同じ夕闇を歩きながら、まったく反対の未来を選び取ろうとして。




王宮の回廊には、二つの影が別々の方向へ伸びていた。

ひとつは書斎に残る王子の影。

もうひとつは、遠ざかるクラリッサの影。


同じ夕陽を受けながら、その向きはまるで正反対だった。


◆王子の誤解──「理解者としての彼女」


書斎で、王子は扉の閉じた先を静かに見つめ続けていた。


クラリッサが残した“拒絶めいた”言葉。

それは普通の者なら距離の合図として受け取るだろう。


だが、王子には違って聞こえる。


(あれは……私の香りの意味を理解しているからこその警告だ。

 彼女は私を読んでいる。

 誰よりも深く。)


先ほどの《双鴉》を拒むような言葉も、彼にはむしろ嬉しい。


(本当に嫌なら壊していたはずだ。

 否定しながら、受け取り、手の中で守ったまま去った。

 あれは……“理解しているからこそ”の振る舞いだ。)


王子の胸に芽生えたのは、確固たるひとつの結論。


(もっと近くに置かなければ。

 彼女は、この王宮で唯一……私を理解できる。)


完全なる誤解。

しかしその誤解は、温かく、柔らかく、王子の心を確信で満たしていく。


◆クラリッサの誤解──「毒としての自分」


一方、クラリッサは夕闇の回廊で立ち止まり、《双鴉》を手の中で握りしめていた。


淡い青が、彼女の影の中で沈んだ光を落とす。


(殿下は……何も知らない。

 私の異能も、過去も、任務も。

 知れば、必ず傷つく。)


王子が示した信頼は、罠ではない。

疑いなどひとつもない。


だからこそ、受け取るわけにはいかない。


(近づけば、私は殿下の未来を濁らせる。

 “理解者”ではなく“毒”として。)


胸を締めつける痛みが、歩みを鈍らせる。


(離れなければ。

 あの人の改革に、私の影を混ぜてはいけない。)


これもまた、完全なる誤解。

しかし彼女の誤解は冷たく、鋭く、彼女自身を縛っていく。


◆逆ベクトルの感情


王子の結論は「近づけるべき」。

クラリッサの結論は「離れねばならない」。


二人とも、相手を大切に思うがゆえにそう決めた。


にもかかわらず——

そのベクトルは正反対へ向かう。


すれ違いは静かで、優しく、だが決定的だった。


そしてこの“逆向きの想い”こそが、

次の章で訪れる緊張と破綻の、最も深い根だと、まだ誰も知らない。


◆王子——光へ招く者


書斎の奥。

王子はまだ席を立たず、掌の中に残る《双鴉》のほのかな余韻を嗅いでいた。

香はすでに薄れているのに、胸の奥ではまだ濃く息づいている。


(君は……私の隣へ来るべきだ。

 それが最も自然な位置だ。)


理由は政治でも、義務でもない。

ただ、そこに彼女がいる風景が正しいと——そう思えてしまう。


夕陽が窓辺から差し込み、王子の横顔を柔らかく照らした。

その光の中で、彼は確信だけを深めていた。


(君を遠ざける理由は……どこにもない。

 むしろ、近くにいてほしい。)


香の余韻は、王子にとって「約束」に近かった。


◆クラリッサ——光から退く者


同じ時間。

回廊の影の中を歩くクラリッサは、足を止めた。

胸の前で、《双鴉》の小瓶をぎゅっと握りしめる。


青い液体は、夕闇の中でひっそりと沈む光を放つ。


(殿下……

 あなたの隣は、私が立っていい場所じゃない。)


それは謙遜でも弱さでもない。

王子の未来を守るための、冷たい自覚。


(私は影。

 殿下の歩む道に差す光を濁らせる、毒にすぎない。)


カラン、と小瓶が微かに鳴る。

それだけで胸が痛い。

香りの意味も、贈られた意図も、すべて理解しているからこそ。


クラリッサはそっと目を閉じ、影の深い方へ歩き出した。


◆交わらぬ二つの動き


光へ近づこうと、手を伸ばす王子。

光から離れようと、一歩引くクラリッサ。


同じ夕陽に照らされながら、

その心は、まるで違う方向へ流れていた。


——こうして、二人のすれ違いは静かに、

 だが決定的に形を成してしまったのだった。



書斎の灯火が静かに揺れ、

夕暮れの王宮は深い紫へと沈みつつあった。


その同じ空の下で——

二人の心は、もう互いとは逆方向へ走り出している。


◆王子——“近づけよう”とする意思


窓辺に佇む王子の胸には、確かな意志が芽生えていた。


(クラリッサは……私を理解している。

 沈黙で、香りで、言葉以上のものを読んでくれる。

 ならば——もっと傍に。)


彼女が《双鴉》を拒むように受け取りながらも壊さなかったことが、

王子には「距離を縮めたい」という静かなサインに見えた。


(彼女の“沈黙”は、拒絶ではない。

 むしろ——共犯の証だ。)


その誤解は、強い確信として根を張る。


王子は歩き出す。

クラリッサのほうへ、未来のほうへ、光のほうへ。


◆クラリッサ——“遠ざかろう”とする意思


その頃、回廊の影を歩くクラリッサは、

掌の《双鴉》を隠すように握りしめていた。


(……殿下は近づこうとしている。

 でも、私は離れなければ。)


王子の厚い信頼は、温かく、危険で、甘い。


受け取った小瓶は、

拒絶したはずなのに指から離れない。


(私は殿下の理想にはなれない。

 香りを読む限り、

 私は殿下を守るために“嘘”を重ねるしかない。)


遠ざかることこそ、守ること。

その結論だけが、影の中で彼女を支えていた。


クラリッサは歩く。

王子の手が届かない場所へ、光の外へ、

静かな闇の奥へと。


◆二つの意志は、やがて激突する


王子は近づこうとし、

クラリッサは遠ざかろうとする。


その二つの力の差がまだ小さい今、

すれ違いはただの“誤解”で済んでいる。


だが——間もなく訪れる事件が、それを壊す。


《無臭の毒》。


存在しないはずの香り。

“視えない危険”に対する、王子の鋭い疑念。

そしてクラリッサが守るために重ねる新たな“嘘”。


二人の距離は、近づくほどにねじれていく。


次章、その歪みはついに形を持つ。

真相へと近づく王子と、

真実を隠しきれなくなるクラリッサ。


——この章は、

 二人の“逆へ進む意志”が初めてぶつかる音を残して幕を閉じる。


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