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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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クラリッサの返答:毒のように静かな否定

黄金の光は柔らかく部屋を満たしていたが、その中に立つクラリッサだけ、影が濃かった。

まるで夕陽が彼女だけを避けるように、輪郭が深く沈んでいる。


王子が差し出した《双鴉》は、光を帯びて淡く揺れ、小瓶の中で青が水面のようにきらめいていた。


「君の沈黙が、私の香より雄弁だ。……受け取ってほしい。」


その言葉が落ち着いた空気に沈んでいく。

王子は、返答を急かすでもなく、ただ静かに彼女を見守っていた。


緊張ではない。

彼の視線にあるのは、剣のような鋭さではなく、

“その沈黙の奥に何があるのか知りたい”という淡い渇きだった。


クラリッサは、指先に触れる小瓶の温度を確かめるように一度まぶたを伏せた。

淡い青を映すその睫毛が、わずかに震える。


やがて――

彼女はひとつ、深く、静かに息を吸う。


そして、小瓶を見下ろしたまま、

夕陽の陰で薄く微笑む。


口を開く時、その声音はまだ形を持たない冷たさを帯びていた。



クラリッサは静かに顔を上げた。

目元には柔らかな微笑が宿っているのに――

声だけが、不思議なほど温度を欠いていた。


まるで、触れれば指が切れるほど薄い刃。


「雄弁な香りは、いつも腐りやすいものです。

 ……殿下も、ご注意を。」


その言葉は拒絶に見える。

距離を保つための、丁寧で冷ややかな線引き。


しかし、王子には別の響きとして胸に落ちた。


(……優しいな、君は。)


“受け取れない理由”を語らず、

“拒んだ本心”を悟らせないために、

あえて冷たく装ったのだと――


王子はその静かな毒のような言葉の裏に、

彼女の誠実さと痛みを感じ取ってしまう。


だからこそ、彼は微笑んだ。


ほんの少しだけ嬉しそうに。

その冷たさが、彼女の優しさの形だと理解してしまったから。


王子はしばし沈黙した。

クラリッサの返答は、明らかに否だ。

それを理解できないほど鈍くはない。


だが――彼は、ほんのわずかに口元を緩めた。


拒まれたのに笑うなど、本来あり得ない。

しかし王子には、彼女の言葉の温度がわかってしまった。


あれは突き放すための刃ではなく、

自分の差し出した“香”を、真剣に受け止めた上で

丁寧に距離を保とうとする、優しい拒絶だと。


王子は低く呟く。


「……そうか。

 なら、腐らせぬよう大事に扱おう。」


淡々とした調子なのに、どこか満ち足りた声音。

拒絶を受けてもなお、彼女を理解したいという意志が滲む。


そして、その柔らかな微笑には――

彼女の沈黙さえ尊重し、

それでもなお彼女に手を伸ばし続ける王子の、

隠しきれない興味と情の気配が宿っていた。



小瓶は掌に収まるほど軽い。

だが、クラリッサには――手首が沈むほど重かった。


淡い青色の液体が、夕陽を受けて微かに揺れる。

その光が胸の奥の不安まで照らし出すかのように。


クラリッサは微笑を保ったまま、心の奥底で静かに呟く。


(……受け取れば、私は殿下の改革に巻き込まれる。

 巻き込まれれば、いずれ“道具”としてではなく、

 “人”として見られてしまう。)


“人”として見られる――

その未来が、最も恐ろしい。


彼女は人の心の温度に最も弱い。

だからこそ、距離を保って生きてきた。


しかし、王子は静かに踏み込んでくる。

香り一つで。言葉一つで。沈黙一つで。


(受け取らなくても……殿下は私を離さない。

 それが、もっと厄介なのに。)


《双鴉》――秘密を共有する者への香。

信頼であり、理解であり、絆の暗号。


クラリッサにとっては、

毒に近かった。


速効性の毒ではない。

甘く、静かに、気づかぬうちに血へ染みていく――

そんな種類の、じわじわと蝕む毒。


彼女は小瓶を胸元に抱え、そっと目を伏せる。


(……殿下。あなたの優しさは、私の敵です。)


夕陽の金色が揺れ、

その影だけが深く濃く伸びていった。



王子の前に立つクラリッサは、

拒絶の言葉を選んだはずだった。


「雄弁な香りは、いつも腐りやすいものです。

 ……殿下も、ご注意を。」


距離を取るための言葉。

線を引くための刃。


だが――

その刃は、切っ先が甘い。


完全には王子を突き放せなかった。

突き放せるほど、彼の信頼は軽くない。


クラリッサは自覚している。

拒絶は“役目”として必要だ。

しかし、心はその通りに動いてくれない。


短い一言を受け取った王子は、

ほんの僅かに目を細め、静かに笑った。


「……そうか。

 なら、腐らせぬよう大事に扱おう。」


冷たい針のような否定だったのに、

王子には“彼女らしい優しさ”として届く。


クラリッサの意図とは少しずれた理解――

だがそのすれ違いは、距離を広げるどころか、

むしろ逆に、二人の間に細い橋をかける。


彼女は拒絶しようとして、拒絶しきれず、

王子は拒絶されたはずなのに、拒絶されたと感じない。


二人の認識は微妙にずれている。

けれど――

そのずれが、互いを静かに近づけていく。


まるで、

本来は交わらないはずの香が、

風の偶然でふっと混ざり合ってしまうように。



書斎を出たあと――

クラリッサは静かな廊下の影に身を寄せ、

掌の上の《双鴉》を見下ろした。


拒絶したはずの贈り物。

“腐りやすい”とまで言った香。


それなのに。


彼女の指は、無意識にそれを落とさぬよう包み込んでいた。

軽い小瓶が、妙に重い。

胸の奥を沈める錘のように。


(……捨てられない。

 受け取ってはいけないのに。)


拒んだはずが、拒絶しきれない。

これが、自分に生じ始めた最初の矛盾だと

クラリッサは苦く悟る。


静かな回廊の奥で、

その矛盾が小さな音もなく芽を出す。


***


一方、書斎に残った王子は――

クラリッサの言葉を何度も思い返していた。


「雄弁な香りは、いつも腐りやすいものです。」


単なる比喩ではない。

彼女が感受する“香りの世界”の、深い真理のようにも思えた。


王子は机の上に残った香瓶の箱を指でなぞりながら、

静かに息をつく。


(腐りやすい香……

 君の言葉は、どこか真理に触れている気がする。)


この“気づき”は、

まだ意味を持たない。


だが――

後に王宮を揺るがす《無臭の毒》事件で、

王子はこの言葉を思い出し、

クラリッサの異能への推理を一気に深めることになる。


今はただ、

二人が互いに気づかぬまま置かれた伏線として、

静かに落ちているだけだった。


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