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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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王子からの“香りの贈り物”:共犯の香

夕陽が沈む前のひととき。

王宮の最奥にある書斎は、昼の喧騒を忘れたかのように静まり返っていた。


窓辺から差し込む光は、柔らかい金色となって机の縁を撫でる。

その照り返しは王子の横顔をも淡く染め、影の輪郭をやわらげていた。


風が揺らすカーテンの軋む音だけが、部屋の呼吸のように微かに続く。


――戦いの匂いは、今だけ遠い。


密書事件。

宮中を覆った暗殺の連鎖。

それらを完全に王子が知ることなく消し去った直後の静けさ。


二人の間には、珍しく会話がない。


王子は書類の束を指先で整えながら、

ふと視線だけをクラリッサへ送る。


クラリッサはその視線を受け止めつつ、

わずかな頷きを返した。


張りつめていた糸が一時だけ緩むような沈黙。


語るべきことは山ほどあるのに、

語ってはいけないものも山ほどある。


それを互いに察しているからこそ、

この静寂は気まずさではなく、

どこか温度を含んでいた。


“生き延びた”ことに、心が追いつくまでのわずかな時間。


夕陽はもう少しで地平に沈む。

金色の光が伸び、二人の影をゆっくり重ねていった。



王子は机の引き出しを静かに開けた。

金具がかすかに鳴る音が、書斎の静寂に重なる。


その指先がつまみ上げたのは、掌にすっぽり収まる小瓶だった。

淡い青色の液体が、夕陽を受けてほのかに揺らぎ、

液面に金色の線をひとすじ描く。


クラリッサがわずかに首を傾けた瞬間、

王子は立ち上がり、迷いのない動作で彼女の前まで歩を進める。


そして――

まるで秘密を手渡すように、小瓶を差し出した。


「……《双鴉》です。」


名を告げる声は低く、深い。


クラリッサの眼差しが瓶へ落ちる。

その名の意味を知った者だけが理解できる、静かな震えが胸を走った。


《双鴉》――

“共に影を飛ぶ者”

“秘密を共有する相棒”

そんな意味を秘めた古い香名。


王子は、彼女の反応を確かめるように視線を合わせた。


「君の沈黙が、私の香より雄弁だ。」


その言葉は責めではない。

問いでもない。


ただ、クラリッサのこれまでの行動を“見ていた”という証明だった。

信頼でもあり、深い理解でもあり、

そして――彼女の沈黙を受け入れる覚悟でもあった。


ゆっくりと、王子は続ける。


「……この香りを、受け取ってほしい。」


淡青の液体が影の中でかすかに煌めく。

それは謝意でも、賞賛でもない。

もっと密やかで、もっと危うい意味――


共犯としての、王子からの手向け。


書斎にただ一筋の光が差し、

二人の影が、まるで《双鴉》の名のように並んで伸びていった。



王子の指先で揺れる《双鴉》の小瓶は、

それ自体がひとつの“告白”だった。


この世界では、

香は言葉より重く、政治より確かで、

時には誓いよりも深い意味を持つ。


まして――《双鴉》。


その香は、古い伝承にこう記されている。


「影を二つに割り、互いの翼を重ねる者へ」

「同じ秘密の上を飛ぶ者へ」


つまり、ただの友情でも、感謝でも、忠誠でもない。

“互いに表では語れぬ秘密を抱える者だけが贈り合う香”。


クラリッサの沈黙、

言えない理由、

説明を避ける態度。


王子は、それらすべてを――

“拒絶ではなく、守るための沈黙”だと理解したのだ。


だから言葉で問いただすことはせず、

香で返す。


あまりにもこの国らしい、

そして王子アレスレッドらしい伝え方で。


彼は瓶をそっと押し出しながら言う。


「……君が抱えているものに、私は干渉しない。

 だが、その影の一端を……私にも分けてほしい。」


それは、彼女の秘密を暴こうとする意志ではない。

彼女の孤独に、ただ隣で寄り添おうとする意思だった。


《双鴉》の香は二人の間でわずかに揮発し、

微かな青い気配を空気に滲ませる。


その香りは――

王子がクラリッサの“異能”や“沈黙”を完全には知らずとも、

理解しようとしているという象徴。


そして同時に、

クラリッサはその香を受け取った瞬間、

自分が王子の“共犯”として組み込まれたことを悟る。


距離は縮まったが、同時に遠くなった。

触れ合う影は揺れながら、

互いの胸に深い余韻と緊張を残していく。


《双鴉》――

それは、二人がまだ言葉にできない“共犯意識”の始まりだった。



クラリッサは、小瓶を受け取る瞬間――

わずかにまつ毛を震わせた。


外から見れば、それは礼節をわきまえた侍女の動作にすぎない。

静かで、整っていて、隙がない。

彼女はスカートの裾を揺らさぬよう立ち姿を正し、

微笑を浮かべて、深く頭を下げた。


「……光栄に存じます、殿下。」


その声音は水面の揺らぎのように穏やか。

だが彼女の胸中では、まったく別の波が荒れていた。


小瓶の青が、夕陽の金色と溶け合って手の中で揺れる。

その重さ――いや、“意味”の重さが指先に染み込んでくる。


(殿下……あなたは本当に、理解しているのでしょうか。

 この香りが、どれほどの覚悟を示すものなのか――)


それは「信頼」ではなく、「秘密の共有」。

「共感」ではなく、「共犯の宣言」。


王子アレスレッドは、彼女の沈黙の奥にあるものを“見よう”としている。

触れてはならぬ影に、手を伸ばそうとしている。


それが、痛いほど嬉しく、

痛いほど――困る。


(私はまだ……守るべき秘密を抱えている。

 これを渡されるほどの価値が、私にあるのだろうか)


王子の安全も、未来も、

その理想のすべてを支えるために、

クラリッサは“嘘”を積み上げている。


嘘は、毒と同じだ。

量を誤れば、いずれ自分に返ってくる。


それでも――

彼女はその香を拒むことができなかった。


それは任務としてでも、

忠誠としてでもない。


ほんのひとかけらだけ、

王子の視線の温かさに救われてしまった心が、

その香りを受け止めてしまったのだ。


「殿下のお気持ち……大切にいたします」


彼女は微笑む。

完璧に作られた微笑み。

本心など欠片も見せない、プロの仮面。


だが胸の奥では、

青い香気が、火傷のようにひりついていた。


(……そして私はまたひとつ、嘘を積み上げた)


《双鴉》の香が、

静かな書斎の空気に淡く溶けていった。



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