王子、クラリッサの異能に気づく
王宮は、ここ最近まるで水面のように静かだった。
陰謀も噂も、どれも波紋一つ立てない。
それは安寧であるはずなのに、アレスレッドの胸には微かなざわめきが残っていた。
きっかけは、小さな一言だった。
――「その部屋は、今日は使わない方がよろしいかと。」
クラリッサがそう告げた客間では、のちに誰も使うはずのなかった燭台が倒れ、
絨毯が黒く焦げた痕だけが残された。
事故なのか、未然に阻まれた何かだったのか。
わからない。
だが、彼女が言った通り“危険”は確かにあった。
他にもある。
書類棚に向けたクラリッサの一瞬の視線。
意味を問う前に、彼女は別の用件を口実にその棚の整理を従者へ命じた。
その日の夕刻、警備隊から
「補佐官殿の執務机の近くで、不審な薬瓶の破片が発見された」
と報告があった。
(……なぜ、あの棚だった?)
遠出の予定を急遽変更した日もそうだ。
クラリッサはただ一言、
「風向きが落ち着きません」
とだけ告げた。
だが翌日、側近の耳に入ったのは
「宮外で武装した影がうろついていた」
という別系統の報告だった。
あまりに、偶然が積み重なりすぎている。
アレスレッドは窓辺に立ち、ため息を落とした。
黄昏の光が王宮の屋根を金色に染めてゆく。
その穏やかさすら嘘に見えた。
(……偶然にしては、出来過ぎている。)
彼の胸に芽生えたのは疑念ではなく、
説明のつかない“興味”だった。
なぜクラリッサは、いつも“起こる前”に動けるのか。
まるで見えない未来を、風の流れのように読んでいるかのように。
王子は知らない。
彼女がその静けさの裏側で、いくつもの死線を既に消し去っていることを。
そして――それが彼女の孤独を深めてもいた。
だが、気づき始めている。
何かが、確かに動いている。
見えないところで、彼女の手によって。
その“偶然の連続”は、もはやただの偶然ではない。
王子はゆっくりと息を吸い込み、決意のように瞼を閉じた。
(クラリッサ……君は、一体何を見ている?)
クラリッサの背を、アレスレッドはそっと目で追っていた。
疑っているわけではない。
むしろ逆だ。
彼女が何かを“見ている”――そう確信し始めていた。
淡々として、控えめで、必要以上に自分を語らない。
誇張も自慢も、功績の主張すらしない。
それでいて、的確。
完璧すぎるほどの判断力。
人間は、優れた者ほど“影”で光を放つ。
そして彼女はまさにその典型だ。
(……クラリッサ。
君は一体、どこまで理解している?)
今日も彼女は、王子の横に控えている。
姿勢は正しいのに、気配は薄い。
まるで意図して“消している”ような静謐さ。
ふと――
遠くの廊下で、侍従の落とした紙束が床に散った。
アレスレッドが目を向けるより早く、クラリッサは小さく動き、
侍従が足を滑らせるより半歩前に、そっと支えていた。
自然な動き。
派手さも、無駄もない。
助けたことすら話題にしない。
(……どうして、まだ起きていない危険を避けられる?)
彼女が“予測”しているのか、
“察知”しているのか、
あるいはもっと別の何かなのか。
気づけば王子は、その一挙手一投足を静かに見つめていた。
観察者としてでも、支配者としてでもない。
もっと近い、もっと曖昧な理由で。
(君の視界の先に……この王国の何が見えている?)
アレスレッドは、彼女の背に問いかけるように目を細めた。
その問いが、彼自身の未来をも揺さぶる伏線になるとは知らずに。
王子の視線が、今日はやけに長く滞る。
横目で追われている――
その微細な変化を、クラリッサは決して見逃さなかった。
(……殿下。
私の行動を、読み取ろうとしている。)
彼の目は疑いではない。
興味と、理解しようとする知性の光だ。
だがそれが一番危険だった。
このままでは、
自分が“まだ起きていない危険を察知していること”に気づかれる。
(気づかれれば、終わる。
この世界の人間が辿り着けないはずの“異能”に――殿下が触れてしまう。)
クラリッサはすぐに調整に入った。
歩幅を半寸広げ、足音をわずかに響かせる。
視線の動かし方を“人間らしい”リズムに戻す。
書類を取る順序をランダムにし、
休息のタイミングもわざと不規則に変える。
完璧な予測性は、
異物を浮かび上がらせてしまう。
だから“普通”を演じる。
しかし――
(……無理がある。
暗殺を止めながら、普通を装うなんて。)
廊下の風に混じった微弱な薬草の匂い。
それだけで、暗殺者が近いとわかってしまう。
本当ならすぐ動くべきだ。
王子の背後を最優先で守りに行くべきだ。
だが、あまりに早く動けば――
また王子の視線が刺さる。
(殿下。お願いです。
今は……私を見ないで。)
彼女は息を静かに整えながら、
自分の演じる「普通」が崩れかけていることを悟っていた。
王子が近づくにつれて、
クラリッサの孤独な綱渡りは、ますます細く危うくなるのだった。
朝の空気は、ひどく澄んでいた。
部屋の中央で焚かれた香炉から、細い煙が揺れながら天井へ伸びていく。
そのゆらぎを眺めていた王子は、まるで煙の動きに合わせるように、
ゆっくりと口を開いた。
「……クラリッサ。」
呼ばれただけで、胸の奥がかすかに跳ねる。
それでも侍女として、いつもの穏やかな声で返そうとした――その瞬間。
「なぜ君は、いつも“起こる前”に動く?」
その言葉は、
静かで、刺すように鋭かった。
クラリッサは一瞬、呼吸を止めた。
(……来た。)
体温がすっと引いていく。
背筋に冷気が走る。
王子は“気づきかけている”。
彼の頭脳なら、あと数歩で核心へ届いてしまう。
彼女はゆっくりとまぶたを下ろした。
次の言葉を誤れば、すべてが終わる。
王子の瞳は穏やかだ。
怒りも疑念もない。
ただ純粋な好奇と、理解しようとする誠実さだけが宿っている。
だからこそ――逃げられない質問だった。
(殿下……どうか、これ以上踏み込まないで。)
香炉の煙がまた揺れ、
二人のあいだの空気がわずかに震えた。
クラリッサは、返答のために唇を開きかけ――
その直前で、心臓がひどく強く脈打っていた。
ほんの一拍の沈黙。
香炉の煙が、二人の間に細い幕のように漂う。
クラリッサは、微笑んだ。
侍女として完璧に整えられた、柔らかく控えめな微笑み。
それでもその内側で、答えを選ぶ刹那は冷たい刃の上を歩いていた。
「観測範囲が……人より少し、広いだけです。」
静かに、落ち着いた声。
事実ではある。
しかし真実の大部分――
彼女の異能の核心は、深い霧の奥へ押し込めた。
(……これ以上は言えない。)
王子は一瞬だけ目を細めた。
それは疑念というより、判断に迷う人間の表情だった。
「“少し広い”……か。」
彼は嘘を見抜いたわけではない。
ただ、言葉の“密度”が薄いことを感じ取っていた。
(これは……謙遜か?
それとも、意図的に隠している?)
王子は彼女を責める気はなかった。
けれど、曖昧さに触れた瞬間、心の奥に薄いさざ波が立った。
それでもクラリッサは目を伏せ、
まるで何も特別なことは言っていないとでもいうように、
次の任務の報告書に手を伸ばす。
その仕草ひとつすら、
彼女が“守りたい真実”を覆い隠すための仮面。
香炉の煙は静かに立ちのぼり、
二人の距離を――ほんのわずかに、しかし確実に――
縮めたまま、消えた。
執務室の窓辺で、王子は静かに思考を巡らせていた。
朝の光が文机を照らす中、先ほどのクラリッサの言葉が脳裏で反芻される。
(“観測範囲が少し広いだけ”……か。)
あの控えめな微笑み。
落ち着いた声調。
どこにも不自然さはない――はず、だった。
しかし王子の脳裏には、ここ数日の細かな出来事が次々と浮かび上がる。
・クラリッサは、やけに風向きを確認する
・部屋の空気の流れに敏い
・まだ危険が形になっていない段階で、先に動く
・そしてその判断が、驚くほど正確に当たる
(……偶然にしては、あまりにも整い過ぎている。)
さらに――
彼女は説明をしない。
助言はしても、その根拠を述べない。
まるで“説明できない理由”があるかのように。
王子は書類に視線を落としながら、静かに仮説を立てる。
(彼女は……私の知らない情報網を持っているのか?
それとも――もっと別の、見えない何かを感じ取っている?)
考えれば考えるほど、霧は深まっていく。
だが同時に、ある線引きを感じた。
(……踏み込むべきではない。)
問いただすことはできる。
問い詰めることもできる。
だが、クラリッサが自ら語らない以上――そこには理由がある。
王子は小さく息をついた。
(君が話したくないのなら……それでいい。
だが、私は君を信じている。
その判断がどれほど常人離れしていても……私を守ってくれているのは事実だ。)
知らないままでいい――
そう結論づけるのではなく、
「知らないままでも信頼できる」と思える関係が、
静かに築かれつつあった。
王子の胸の内に芽生えた信頼は、
派手ではなく、言葉にもならず、
ただ深く、ゆっくりと根を下ろしていった。
その日、執務室での会話を終え、クラリッサが一礼して去ろうとした瞬間――
王子は思わず、言葉にならない呼び止めを胸の奥で噛み殺した。
彼女の後ろ姿。
凛として、隙がなく、そしてどこか届かない。
扉が静かに閉まるまでの数秒が、やけに長く感じられる。
(君は……誰にも明かしていない“何か”を抱えている。)
それは確信に近い直感だった。
侍女としては異様な洞察。
誰よりも先に動き、危険を避ける手腕。
そのすべての裏に、言葉にしない理由がある。
王子は机に肘を置き、組んだ指の隙間から扉を見つめ続ける。
(……その内側に、俺は触れられないのか?)
政治的な打算ではない。
疑念でもない。
ただ――自分だけが知らされていない領域があることが、胸の奥をざわつかせた。
興味。
関心。
そして、微かに滲む“焦れ”にも似た感情。
(彼女は、誰のためにそこまで研ぎ澄ませている?
国のためか。
俺のためか。
……それとも、俺には届かない別の何かのためか。)
王子は息を吐き、額に手を当てた。
(君は……一体、どこまで遠いんだ?)
気づけば、その距離を埋めたいと願っている自分がいる。
――それは、信頼とは異なる種類の渇き。
嫉妬に似た、ひどく個人的な感情の芽生えだった。
王子の問いかけを受け流し、
クラリッサは静かな微笑を浮かべて一礼した。
その微笑は、王子の不安をやわらげるためのもの。
けれど――その裏側には、誰にも踏み込ませない硬い結界が張られている。
廊下を歩きながら、彼女はふと胸の奥で呟いた。
(殿下……これ以上、近づかないでください。)
足音は一定。
呼吸も穏やか。
しかし心は、張りつめた刃先のように揺れる。
(私の領域は、殿下の手を汚す。
殿下が覗き込めば、そこにあるのは暗殺、陰謀、死の匂い……
殿下が触れるべきではない世界。)
守りたい。
けれど、触れさせてはいけない。
(殿下の未来は、もっと清らかであるべきなのに……
私が近くにいる限り、殿下は“闇”に近づいてしまう。)
それは矛盾であり、逃れられない苦悩だった。
王子が近づくほど、クラリッサは距離を測り直し、
ほんのわずかに、一歩だけ後ろへ下がる。
その一歩の差が、
王子には届かず、
クラリッサには譲れない。
そして――
二人の距離は、目に見えぬまま、さらに微妙に、さらに切実に、深まっていく。
静穏を保つ王宮の裏で、
見えない歯車だけが確実に音を立て始めていた。
◆王子の“気づき”という始動する歯車
クラリッサの行動を観察する日々の中で、
王子の胸には、形にならない疑問が積もりつつある。
(……彼女は、本当に偶然で動いているのか?
それとも――見えない何かを読んでいる?)
その疑問はまだ言葉にも意識にも上らない。
けれど、次に起こる「無臭の毒」事件が、
王子の推理を一気に加速させていく。
静かに、ゆっくりと、
王子の視線はクラリッサの“内側”へ向かい始めていた。
◆クラリッサの“嘘”が積み重なる
クラリッサも、王子の変化に気づいている。
だからこそ――
彼女はさらに巧妙に、必要な部分だけを隠し、
言葉の層で心の核心を覆い隠す。
(殿下の手を、闇に染めさせるわけにはいかない……)
その嘘は悪意のものではなく、
守護と矛盾と覚悟の混ざった、
重い偽り。
けれど――
どれほど慎重に隠したところで、
嘘が積み重なれば、その影は薄く漏れ出す。
王子の心に、微かな“揺らぎ”が残る。
(……クラリッサは、何を隠している?
それを聞くべきか……いや、踏み込んではいけない気もする。)
疑念というには淡く、
しかし無視するには確かな層。
◆恋情の、まだ名もない“種”
そしてもうひとつ。
王子自身、気づかないほど小さな感情が、
胸の底で芽吹き始めていた。
クラリッサが振り向くたび、
声を発するたび、
王子の視線は無意識に彼女を追ってしまう。
それは政治の話ではない。
信頼の話でもない。
もっと原始的で、もっと脆い、
人としての関心。
触れたい。
けれど触れられない。
踏み込めば壊れると直感し、
それでも距離を測り続ける。
――二人の関係は、
“矛盾を孕んだ静かな引力”として動き出していた。
まだ誰も言葉にしない。
気づきもしない。
ただ確実にそこにある。
次に起こる事件が、
その引力を強制的に露わにするとも知らずに。




