クラリッサ、暗殺者たちの“香り”を先読みして無力化
夕刻の王都裏路地。
空気は澄んでいるのに、どこか“重たかった”。
クラリッサは、足を止める。
風が一筋、石畳を撫で、壁の間を抜け――
その中に、わずかな刺激臭が混ざった。
(……合図の香。
柑橘と樹脂。接近のサイン。)
人混みの喧噪の裏に潜む、
ほんの微粒の香精。
一般人なら、決して気づかない。“闇の符号”。
彼女はさらに数歩進む。
二つ目の路地角から、別の香りが流れてきた。
冷たい金属の匂い。
それに、湿った薬草の薄片。
(撤退の香。
……迷っている? 誰かが判断を覆した。)
これは、訓練された嗅覚を持つ者でなければ
そもそも“存在を認識できない”レベルの微香。
つまり、敵は訓練されている。
高度に。
次に拾えたのは、甘い花の香。
だが、揮発が異様に早い。
(成功の香――。
わずかな残香。完了から……二十五分。)
任務完了の合図。
暗殺者たちの間では“祝いの香”と呼ばれることすらある、
だがクラリッサにとっては、ただの死亡通知だ。
(……誰が、どこで死んだ?)
そして。
路地の奥、捨てられた木箱の影から、
彼女の鼻腔を刺す、忌まわしい匂いが立ち上がった。
灰。
焦げ。
獣脂。
――複合臭。
(……死体処理の香。)
それは国の法で最も厳しく禁じられた信号。
“痕跡を消せ”という命令であり、
国家転覆と同列の重罪。
普通の暗殺者は決して使わない。
使えない。
なぜなら――
(誰かが、これを“頻繁に使っている”。
王宮のすぐ近くで。)
クラリッサは微かに眉を寄せた。
どの香りも、風に紛れれば消えるもの。
だが彼女の嗅覚から逃れられるものは一つもない。
闇の連携は、すべて読める。
暗殺者たちが囁き合う前に、
彼女はもう“聞いている”のだ。
(……動いている。
王子を中心に、何かが。)
風が途切れ、香りが消える。
しかしクラリッサだけは知っている。
この街のどこかで、
暗殺者たちが今も別の香を仕込み、
別の死を準備していることを。
そして――
その全てを“起こらなかったことにする”のが、
彼女の仕事だった。
クラリッサが足を踏み出すたび、
空気の粒子が、まるで情報の羅列のように整列していく。
彼女だけが、この世界の“香り”を
文字として読めてしまう。
理由は単純で――そして、誰にも理解できないほど異質だった。
■CIA時代に叩き込まれた“痕跡の読解術”
かつてクラリッサが扱っていたのは、
香水でも、薬草でもなかった。
爆発物の残滓。
毒物の微粒。
化学薬品の分子痕。
それらが空気にどう拡散し、
どの順番で揮発し、
どの圧力で付着するか――。
それを嗅ぎ分け、読み解き、
事件の“前後”を構築すること。
CIAで教わるのは、
「匂いがするかどうか」ではない。
匂いの揮発の順番が、
どの行動の順番に一致するかを読む訓練だった。
・足跡の圧力の差=歩いた速度
・壁についた粉塵=通った人の体格
・汗の成分の揮発速度=どれだけ緊張していたか
・爆薬の残留粒子の比率=設置からの経過時間
嗅覚と視覚。
二つの分析を“時間軸”に並べ直すという、
この世界には存在しない技法。
■この世界での異常な相性
この国では、
香りとは政治の言語であり、
暗殺の暗号であり、
権力構造そのものだ。
だからこそ、
香りは“読める”者が少ない。
貴族は意味を理解できるが、
解析はできない。
暗殺者は種類を扱えるが、
構造までは追わない。
職人は作れるが、
情報にはしない。
どれもクラリッサには不十分だった。
彼女だけが、
香りを“痕跡”として読み解く訓練を受けた異邦の人間。
ゆえに――
暗殺者たちが囁く香、
撤退を示す香、
死体処理の禁忌の香。
それらが空気に滲んだ瞬間、
クラリッサの中には“文章”となって流れ込む。
(……彼らの動きが、全部見える。)
暗殺者たちが五歩進む前に、
クラリッサはすでに十歩先の“結果”を知る。
それは天賦ではなく、
過去が彼女に押し付けた暴力的な技術だった。
だが今は、それだけが
王子アレスレッドを生かしている。
王都の夕風が、石畳を撫でるように吹き抜けた。
昼間の喧噪を吸いこんだ空気の底に、
ほんのわずか――
柑橘と樹脂がこすれたような刺激臭が混ざっていた。
一般人なら気づかない。
訓練された暗殺者でも、注意していなければ通り過ぎる程度の微差。
だが、クラリッサには理解できた。
“合図の香”。
暗殺準備の、最初の一歩。
◆王宮のどこかで、誰かが死ぬ
王都の政局はここ数週間で一気に軋み始めていた。
王子派と保守派の衝突が表面化し、
さらに王子派の内部では“改革を恐れる者たち”が揺れ始めている。
狙われる時期としては、あまりに最悪。
風向きが変わる。
鼻腔に“二つめ”の香りが触れた。
今度は――金属香と薬草の薄い冷気。
冷たく、静かで、深い。
撤退の香。
(……作戦中断? いや、違う。
第二チームの配置完了の合図を“誤魔化した”匂い……)
その混ぜ方、比率、揮発速度。
プロの仕事だ。しかも訓練された複数人。
クラリッサの心臓に冷たい理解が走る。
(標的は……王宮内部。
――しかも、要職だ。)
そして、瞬間。
三つ目の香がかすかに流れ込む。
甘い花香。だが、揮発が異様に速い。
空気に触れて、わずか数秒で消える。
“成功の香”の擬似版。
偽装。
暗殺のタイミングをずらすフェイント。
ここまで露骨な揮発操作をできるのは、
王宮の配置を熟知した暗殺師しかいない。
(……動いた。)
クラリッサは上衣のボタンを二つ外し、走り出す。
今、王宮内部で起きていることは――
“王子の首席補佐官の暗殺計画の始動”。
標的は、後宮管理も兼任する要職。
派閥調整の中心であり、王子の改革を支える柱。
彼が死ねば、王子派は一夜で瓦解する。
だが、まだ誰も気づいていない。
いや――
気づけるのはクラリッサただ一人。
(……王宮内に潜んでいる。
間違いなく、もう侵入している。)
外世界の命令《M-0》が胸の奥でひりつく。
クラリッサは風を切って駆けた。
王子を護るため――
王子の世界そのものを壊させないために。
王宮裏手の風が、わずかな震えを帯びて流れた。
その震えの中に混じった三つの“痕跡”を、
クラリッサは一瞬で解析する。
彼女の追跡は、
もはや歩くより先に情報が届くという異常領域にあった。
◆1. 香りの侵入方向 → 暗殺者の移動ルートの特定
王宮の石壁に身を寄せ、クラリッサは鼻孔を細く開く。
風下――
屋根瓦に染みたわずかな樹脂系の刺激臭が引っかかった。
暗殺者が移動するとき、
靴底に微量に付着している“合図の香”が屋根に残るのだ。
クラリッサは脳内で地図を展開し、
風向きと吸着量の差から即座に導き出す。
(東翼の屋根を渡って、
中庭の上を横切った……。
次は北塔の影。そこに降りた。)
暗殺者が歩いた軌跡が、
香りの“濃淡グラデーション”として立ち上がる。
誰より早く、彼らの足取りが見える。
◆2. 庭園の草葉についた微量の香精 → 伏兵の位置特定
中庭に出ると、
夜露を含んだ草葉の“たった一枚”が異常だった。
その表面だけに、
花香の揮発の“最後尾”だけが付いている。
(……伏兵がこの藪に一度潜み、
狙撃の角度を測った。)
葉に付着した香精は、
狙撃手が呼吸したときに吐く“撤退香の痕跡”。
それを拾える者は、
王国中にクラリッサただ一人。
(位置は……あそこ。
西側の小型弓兵用の配置、王宮設計の抜け穴。
王子派の内部の者だ。)
藪の位置、草葉のしなり、香精の劣化速度。
それだけで伏兵の立ち位置まで割り出す。
聞こえない会話が、香りで読める。
◆3. 死体処理の香 → “実行タイムリミット”の読解
最後に――
風に乗って、最も忌まわしい香が届いた。
灰と焦げと獣脂。
混ぜれば、たったひとかけらで暗殺師に
「死体を消せ」と命じる禁忌の合図。
しかしクラリッサの視線は、別のところにある。
(温度が……まだ高い。
焚かれて十五分以内。)
この香は揮発段階で温度変化を起こす特殊配合。
何分前に焚かれたか――
その“時間”すら嗅ぎ分けられる。
つまり。
(……暗殺の実行は、あと二十五分以内。)
暗殺者がどこにいて、
誰が伏兵で、
何分後に殺しが行われるか。
会話など一切聞こえなくても、
クラリッサにはすべてが“先読み”できる。
彼女は走り出す。
気配よりも速く、
風よりも正確に。
香りが語るすべてを読み切り、
殺しが起こる前に消していくために。
王宮は静かだ。
だがその静けさは、
クラリッサが継ぎ目を一つずつ縫い直しているから保たれているにすぎない。
暗殺者を倒す必要はない。
否――倒してはいけないのだ。
倒せば“事件があった”痕跡が残る。
だが、クラリッサが目指すのはただ一つ。
暗殺そのものを、世界から消すこと。
起こる前に、不発として終わらせること。
◆1. 廊下の“ただの遠回り”という誘導
その夜、王子が向かおうとした廊下。
その先の陰影には、暗殺者が潜んでいた。
クラリッサは王子の歩幅を見計らい、
わざと一歩進み出る。
「殿下、こちらの回廊を通られた方が早道です。」
実際は遠回りだ。
しかし、彼女の声色に王子は迷いなく従う。
その瞬間、
暗殺者の刃は虚空にぶらさがったまま
一度も抜かれることはない。
暗殺者は壁に背を預けたまま呟く。
(……早すぎる……。通らない?
何かの連絡ミスか?)
もちろんミスなどない。
クラリッサが消したのだ。
◆2. 毒入りの杯が“別の棚”に動く偶然
次は後宮の厨房。
補佐官の晩餐に混ぜ込まれた微量毒――
その香精の“毒性揮発”を、クラリッサは廊下の風で嗅ぎ取っていた。
厨房に入り、食器棚の整理を手伝うふりをしながら
毒入りの杯を
“ただ別の棚に置き直した”。
誰も気づかぬほど自然な、
皿一枚の移動。
その結果――
毒入りの杯は料理担当者の手からあっさり外れる。
補佐官は別の器で食事をし、
毒は誰にも届かず、
犯人は「仕込み失敗?」と首をかしげる。
偶然が積み重なったように見える。
だがそれは、
計算し尽くされた偶然だ。
◆3. 狙撃手の視界を“自然に遮る”
北塔の弓兵窓。
狙撃手の息がかすかに運ぶ“撤退香”と、
視界の角度に混じる微弱な樹脂の匂い。
クラリッサは分かっていた。
(……ここから撃つ。)
しかし戦う必要はない。
王子がその廊下を通る五分前、
クラリッサは塔の下を通りながら
“たまたま”窓に触れたカーテンの端を引いた。
金の房飾りが重く垂れ、
視界の3分の2が塞がる。
狙撃手は矢をつがえながら呻く。
(……おかしい。
窓、こんな位置だったか……?)
クラリッサはすでに別の廊下へ移動している。
◆4. 伝達香を“室温”で殺す
暗殺者たちは、香暗号を小瓶で運ぶ。
しかしその香りは、
揮発温度が1.5度狂うだけで
意味を成さなくなる。
クラリッサは王子の部屋の暖炉に、
ほんの少し薪を多めに入れた。
ただそれだけ。
暖炉の熱で伝達香の揮発が早まり、
香暗号は途中で消えてしまう。
(……合図が届かない?
誰かが怠った……?)
暗殺者たちは互いのミスだと信じる。
だから組織の中でも混乱が始まる。
◆そして、暗殺は“世界から消える”
戦わない。
殺さない。
追い払わない。
狙いが自然に外れ、
毒が自然に流れ、
視界が自然に塞がれ、
合図が自然に途切れる。
それは「妨害」ではなく、
“因果の書き換え”に近い作業。
クラリッサが動いた痕跡すら誰も残さない。
暗殺者たちは首をひねりながら引き上げる。
(……今日の風向きは悪かった。)
いいや、違う。
風向きを変えたのは、クラリッサだ。
王子は、その日の晩餐を終えて穏やかに息をついた。
ほのかな光に照らされた横顔は、まだ幼さを残したまま安らいでいる。
「今日は静かだったな。平和で何よりだ。」
柔らかい微笑み。
その無防備さは、世界の誰よりも尊い。
クラリッサは即座に――反射のように――微笑み返した。
「ええ、殿下。何事もなく、良い一日でした。」
声は澄んでいた。
淀み一つない、完璧な侍従の声。
だが、その内側には
“今日、闇に沈めた数々の死”
が静かに積み重なっている。
王子が部屋に下がるのを見届けた後、
クラリッサは灯りの消えた回廊で一人、ゆっくり息を吐いた。
(……殿下が平和だと言えるのは、
平和でなかった部分を、私が全て抱えたからだ。)
屋根の上で待っていた暗殺者。
毒を仕込んだ厨房係。
塔の狙撃手。
壁の陰で合図を待つ下っ端。
香暗号を運んだ密偵。
本来なら、どれも
“今日、王宮で起きるはずだった事件”だ。
それをすべて、
知らせず、悟らせず、跡すら残さず
消し去ったのは他でもない。
しかし、成功すればするほど――
彼女の孤独は深くなる。
殿下は何も知らない。
知らないままでいい。
そうあるようにクラリッサが願い、仕組み、戦っているから。
(殿下の笑顔は……
私の手で守った“影”の上にある。)
その矛盾は、時に胸を刺した。
だがクラリッサは歩みを止めない。
この孤独が、誰にも知られてはならないから。
今日も、彼女は笑顔で言う。
「平和でした」と。
――その裏で、闇はすべて彼女ひとりの手で葬られている。
その夜、王宮の回廊にただよう空気は、不自然なほど澄んでいた。
まるで嵐の前の、重すぎる静けさ。
クラリッサは誰にも悟られぬよう、ひとつひとつの香りの痕跡を消して歩く。
だが――その“消し跡”のさらに奥に、別の影が潜んでいることに、彼女だけが気づいていた。
◆A. 「死体処理の香」を使った者がいる
王宮の中庭を横切ったとき、
微かに焦げた獣脂の残り香が、風の死角に張り付いていた。
(……宮廷内部の者しか使えない禁忌の香。
しかも、焚いたのは素人ではない……これは……近い。近すぎる。)
王子の極めて近い位置――
権限を持つ“誰か”が、すでに裏切っている。
クラリッサの背筋が、音もなく冷えた。
◆B. 暗殺者たちは“妨害”に気づき始める
その同じ夜、別の屋根で。
暗殺者たちは眉をひそめていた。
「……おかしい。合図の香が通らなかった。」
「風? いや、違う。誰かが妨害している。」
何者かが、自分たちの“香”を読んで潰している。
その事実に気づいた瞬間、
暗殺者ネットワークの最奥に潜む一人――調香暗殺師が、静かに動き始める。
その名は、クラリッサの旧世界で言うなら“匂いの暗号学者”。
香を使う者の天敵であり、香を読む者の処刑人。
彼/彼女の登場は、王宮に新たな死の風を呼び込む。
◆C. 王子は「クラリッサの疲れ」に気づく
翌朝。
王子は、クラリッサの顔色に一瞬だけ影を見る。
「……クラリッサ、昨夜は眠れなかったのか?」
クラリッサはいつも通り微笑む。
「いいえ、殿下。」
その答えは完璧だった。
だが、王子の視線は彼女の手の震えを捉えかけていた。
気づきかける。
だが――絶対の信頼ゆえ、踏み込めない。
(君が疲れるはずがない……そう思いたいだけなのか、俺は……?)
王子の胸に、説明できない“微細な違和感”だけが残る。
◆D. 次の計画:「匂わない香」
その日の終わり。
クラリッサは、調査した香痕から異様な欠落に気づいた。
(……香がない?
いや、香を“消されている”。)
揮発ゼロ、残留ゼロ、化学反応の痕跡すら残らない――
“無臭の毒”。
香りで世界を読むクラリッサにとって、唯一の“盲点”。
その毒が、次の暗殺計画の中心に据えられている。
(これは……正面からぶつかるしかない。)
遠くで、禁忌の調香暗殺師が
新たな香を静かに調合している気配がした。
王宮はまだ静けさに包まれている。
しかしその静けさは、確実に――殺意の前兆だった。




