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『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


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クラリッサ、密書の“解読結果”を伏せる

密書の封は、もう切られている。

だが、その紙片はまだ王子の前には置かれていなかった。


調香室から執務室へ戻るほんの短い廊下の途中、

クラリッサは立ち止まっていた。


灯の落ちた廊下は、王宮の匂いが薄い。

古い木材と冷えた石壁の無臭に似た沈黙が、

彼女の思考をますます研ぎ澄ませる。


――報告すべきか。

――いや、すべきではない。


手の中の密書は軽い。

だが、その内容の重さは、

王国の命運を片手で握ってしまったかのようだった。


伝えれば、殿下は迷わない。

即座に動き、剣より速く正義を振るうだろう。


ゆえに危険なのだ。


反逆者は殿下の潔癖をよく知っている。

彼が動けば、反動が一気に燃えあがる。

派閥は暴走し、暗殺の矢が四方から飛び交う。

そしてその矢の一本は、確実に王子を狙う。


クラリッサは密書を胸元に抱きしめ、

息をひとつだけ押し殺した。


(殿下は正義に真っ直ぐすぎる。

 ……今これを見せれば、動きが“速すぎる”。)


彼女の胸奥で、外世界の命令が震えた。


《M-0:王子アレスレッドの死亡を阻止せよ。

   そのためなら、手段は問わない。》


その文言が、かつて聞いた上官の声のように

冷静で、無慈悲で、揺るぎなく響く。


クラリッサは長いまつげを伏せ、

揮発曲線の記憶を頭の中でなぞり直した。


忠誠の香に埋め込まれた殺意。

王子派内部に潜む排除の意思。

殿下の理想が、味方から切り落とされようとしている現実。


報告すれば、殿下は走り出す。

だが――走れば死ぬ。


彼女は、静かに結論に手を伸ばした。


(……報告を“間引く”。

 必要な部分だけ、殿下に届ける。)


密書を閉じる音が、小さな刃のように響いた。

それは、正義を守るために真実を殺すという、

クラリッサ自身への宣告でもあった。


夕暮れが王宮の窓ガラスを薄く染めていた。

執務室には、王子が好む淡い金柑の香が灯されている。

甘すぎず、鋭すぎず、ただ静かに空間を落ち着かせる香。


クラリッサは密書を胸に抱き、

扉の前でわずかに姿勢を整えてから、静かにノックした。


「入っていい。」


低く柔らかな王子の声。

それだけで、彼女の心のどこかがわずかに疼く。


クラリッサは入室し、

密書を差し出すのでもなく、机の上に置くのでもなく、

ただ手に持ったまま、深く一礼した。


王子アレスレッドは書類から顔を上げ、

真っ直ぐに彼女を見た。


「分析は終わったのか?」


「……はい、殿下。」


声は静かだが、ほんの少しだけ硬い。

それを王子は気づかぬまま、続きを促した。


クラリッサは息を短く整え、

意図的に、曖昧な報告だけを選び取る。


「密書に使われた香精に……

 いくつか、不自然な偽装が施されていました。

 敵対派が混乱を生むために仕込んだ、

 攪乱の可能性が高いと判断します。」


王子の表情がわずかに緊張する。


「偽装……? 送り主は判明したのか?」


クラリッサはゆっくりと首を振った。


「いえ。そこまでは……まだ。」

(――本当は分かっている。

 しかし、それを言えば殿下は動く。)


彼女は手に持つ密書を、

机の上へ置くことなく、胸元へ引き寄せるように持ち直す。


王子はその仕草の意味を測りかねたが、

彼女の判断に疑念を挟むことはなかった。


「殿下。」


クラリッサは少しだけ重心を落とし、

告げる言葉を慎重に選んだ。


「しばらくは会合や評議会を控え、

 殿下の動きを読ませない方が得策かと。」


王子は瞬きをし、

予想外の提案のように眉をひそめた。


「……そんなに危険なのか?」


「はい。香精の扱いが稚拙です。

 むしろ“殿下を動かすため”に仕掛けられた痕跡さえあります。」


本当は、殿下を殺すための香だ。

しかし、クラリッサはその言葉を胸の中に封じた。


王子はしばし考え込んだ後、

静かに頷いた。


「……君がそう言うなら従おう。」


その信頼は、

刃のようにまっすぐで、温かくて、

そしてクラリッサの胸には痛かった。


(殿下……ごめんなさい。

 真実を伏せるのは、貴方を守るため。)


密書は、まだ王子の手には渡されないまま。

宵闇がゆっくりと執務室を包み始めていた。


王子アレスレッドは、

クラリッサの報告を受けたあと、

机の上に置かれた書類からゆっくりと視線を上げた。


淡い金柑の香が、静かに室内を満たしている。

その香りの中で、クラリッサはわずかに俯き、

手元の密書を握りしめていた。


王子は彼女を見つめ、

その沈黙の理由を――疑うのではなく、ただ“待った”。


そして。

まるで当たり前のことを言うように、静かに言った。


「……そうか。

 君がそう言うなら従おう。」


その声には迷いも、警戒も、探るような色もない。

ただ揺らぎのない信頼だけだった。


彼は密書を寄越せとも言わなかった。

“見せろ”と求める素振りすらしない。


まるで――

彼の政治判断の根拠が、

世界のどんな情報よりも


クラリッサの言葉が“絶対”であるかのように。


クラリッサの胸の奥で、

小さな痛みがひどく鋭く響いた。


(殿下……違うんです。

 その信頼は、今の私には重すぎる。)


(どうか、疑ってください。

 私が殿下の理想を“鈍らせている”ことを……

 気づいてください……。)


しかし王子は、ただ穏やかに微笑んだ。


「君の判断は、いつだって正しい。

 今回も――そうなのだろう?」


その無垢さこそが、

クラリッサにとって最も壊れやすく、

最も守るべきものだった。


彼女は答えられず、ただ深く頭を下げた。


王子の言葉が静かに落ちた瞬間、

クラリッサの胸の奥で、柔らかいはずの何かがひび割れた。


あまりにも無防備な信頼。

刀を握った相手に、笑って背中を向けるような――

そんな危うさを孕んだ信頼。


それは、守るべき対象としての甘さであり、

同時に、クラリッサが“操らざるを得ない”脆さでもあった。


王子は知らない。

その信頼が、彼女にとってどれほど鋭利な刃かを。


クラリッサは目を伏せ、呼吸をひとつ整える。


(殿下を守るために、殿下を欺く……

 この矛盾が、いつか私を壊す。)


胸の奥でその言葉は淡く、しかし確実に痛む。

まるで揮発しきらずに残る“残香”のように、

消えず、重なり、強くなっていく痛みだった。


それでも――


迷いは、一瞬たりとも彼女の動きを止めない。


(だからといって、手は止めない。

 殿下の命を守る任務は、私一人のもの。

 たとえ矛盾が私を削り続けても――

 抱えたまま、前へ進むだけ。)


顔を上げたクラリッサの瞳には、

苦悩の色は一つも残っていない。


矛盾ごと抱えて歩む強さだけが、

そこにあった。


王子がクラリッサの進言どおり

会合や評議会を控え始めた頃から、

王都の空気に、静かな“濁り”が生まれた。


まず変わったのは――派閥の動きだった。


王子が沈黙すればするほど、

その沈黙の周囲で、貴族たちの動きは逆に騒がしくなる。

表向きは平穏。しかし水面下では、


・密談の回数

・調香工房への秘密注文

・香精原料の買い占め


それらが、わずかずつだが確実に増えていた。


クラリッサはその変化を敏感に捉え、

“隙間”のように生まれた静寂を使って潜入経路を広げていく。


(殿下が止まると、世界が動く……。

 皮肉だけれど、この方が調べやすい。)


揮発を抑えた香のように、彼女は闇へ溶け、

派閥の奥底へと足を踏み入れ始める。


――その一方で。


王子もまた、

胸の奥に微細な違和感を抱き始めていた。


それは言葉にできないほど小さく、

疑いに昇華させるには弱すぎる違和感。


クラリッサの声色、背筋の角度、

報告時の微妙な沈黙――

どれも決定的ではないが、確かに“何か”が変わっていた。


しかし王子は口にしない。


彼はクラリッサを信じている。

信じすぎているほどに。


(……気のせいだ。

 彼女は決して嘘をつかない。)


そう信じることで、王子はその違和感を

胸の奥深くへ沈めていった。


だが、クラリッサは別の意味で孤立し始めていた。


王子には真実を言えない。

外世界にも相談できない。

密書の暗号を解いた者はただ一人――彼女だけ。


(私は……どこにも属せない。)


その孤独が、揮発しない重い香のように

彼女の肩に蓄積していく。


そして、まだ誰も知らない。


密書に隠された裏指令は、

別のルートから王子へと“漏れ始めて”いるという事実を。


やがて訪れる“暴露”の瞬間は、

クラリッサの隠匿を暴く――

この夜の伏線として、静かに香り立っていた。





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