表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『青薔薇の毒名録(The Blue Rose Codex)』 — 毒と理想、愛と記録の交わるところに。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/72

密書に隠された“二重指令”の解析 ――クラリッサは、香りの層に潜む“二重の命令”を暴く――

王宮の奥、文官ですら滅多に入れない調香室。

昼下がりの光が細い窓から差し込み、銀の器具類だけが静かに反射していた。


クラリッサは扉を閉じると、背後で鍵が落ちる微かな音を確かめた。

王子には「封蝋の状態の確認を」とだけ簡潔に告げてここへ来た。

実際に行うのは、それ以上の“外世界の任務”だ。


金属机の上には、彼女のために王子が揃えた調香器具が整然と並んでいる。

微量香精抽出器、揮発曲線測定器、分子偏差分析機、

どれもこの世界にはまだ存在しないはずの精密さだ。

並んでいるだけで、彼女の過去──あのCIAの研究棟の冷たい空気を思い出させた。


クラリッサは無言で手袋をはめ、密書をそっと持ち上げる。

封蝋の質感、紙の乾き、触れただけで立ちのぼる香の層。

それをそのまま、密閉ケースの中心へと滑り込ませる。


カチ、と蓋が閉まり、内部に浄化処理が走る。

透明なケースの中で、密書から漂う香が、ゆっくりと分解されていく。

香りの層が薄皮のように浮かび上がり、可視化された粒子が

淡い光の縞として揺れた。


クラリッサはその揺れを見つめ、息を細く吸う。


(……香は嘘をつけない。

 たとえ政治家が千の仮面で語ったとしても。)


静かに目を細める。

ここで暴くのは、王都の貴族たちの虚飾ではない。

その奥で蠢く、より冷たい意志だ。


彼女は抽出器のスイッチを押し、

第一層の香を剥離させる作業へと入っていった。



抽出器の内部で、最初に浮かび上がったのは

この国の誰もが知る、社交の“定番セット”だった。


白百合の初香。

薔薇の余香。

甘柑子の封香。


どれも柔らかく、貴族の礼節を象徴する人気の組み合わせ。

粒子がふわりと舞い上がり、調香室の光に淡く溶ける。

香だけを見れば、確かに「王子への支持」を示す見事な構図だ。


だがクラリッサは、表面を信用しない。

彼女は揮発曲線のグラフを睨み、指先で空中に流れをなぞった。


最初に違和感を告げてきたのは白百合だった。


白百合は本来、“真っ先に飛ぶ”。

なのに、拡散速度がわずかに──ほんの0.1秒単位で──遅い。


(……抑えている。)


次に薔薇の余香。

甘さが強いのに、揮発に透明な膜が張られたように鈍い。


(揮発レートを隠す意図……悪い癖ね。)


さらに、甘柑子の封香。

封蝋から分離した香精には、

微弱だが確かに“第三者の体温反応”が残っていた。


この国の封蝋は通常、触れただけで体温痕跡が飛ぶ。

痕跡が残っているということは──

“押し直された”か、“すり替えられた”可能性。


クラリッサは無言で呼気を整えた。


三つの香は、どれも王子への忠誠を示すための飾り。

しかし、その“完璧さ”こそが逆に不自然だった。


クラリッサ

「……表向きは完璧すぎる。

  意図的な“かぶせ”だ。」


忠誠の仮面として張り付けられた香。

その下に、異質な第二層が潜んでいるのは明らかだった。


抽出器の中で、香りの分子がさらなる深層へと沈降していく。

クラリッサは手袋をきつく締め直し、

アルコール水を数滴落として揮発層を分離した。


甘く華やかな香りは、液面でゆらゆらと波立つ。

白百合、薔薇、柑子──すべてが“忠誠”の語彙。

だが、その下に眠る“沈んだ影”の気配を

彼女は嗅覚の奥でとっくに悟っていた。


分析器に流し込むと、

曲線の一つが鋭く跳ね上がる。


黒い、細い、金属質の揮発線。

正常な香料では決して現れない波形。


鴉羽草あらはねそう


毒草。

この国の調香ではまず使われない。

“匂い”として組み込むだけで警告の意味を持つ異端の素材。


クラリッサの指が、器具の上で静止した。


鴉羽草単体なら、まだ警告で済む。

だが──この手紙に混ぜられていた組み合わせは

薔薇 × 柑子 × 鴉羽草。


この国の裏の言語体系では、

それはひとつの答えを持つ。


「対象を任意に処分せよ」

= 暗殺可


クラリッサの呼吸が一度だけ浅くなる。


(……これは。)

(“殿下に忠誠を誓う香”の下に、

  “殿下を殺せ”という暗号を重ねている……?)


忠誠の香で蓋をした暗殺指令。

それは、送った者が

“王子の味方であるふりをしながら、王子を排除しようとしている”

という証拠だった。


手紙は二枚舌。

味方の皮をかぶった刃だった。


クラリッサの背筋に、ひやりとした理解が走る。




揮発曲線を並べ直し、クラリッサは

香りを“匂い”ではなく“時間”として読み直した。

立ち上がり、沈み込み、重なる分子の順番。

それは、調香師にしか読めない秘密の時系列だ。


そして、ある瞬間。

二本の流れが、まるで分岐した河川のように

別々の意味へと流れ込んでいることに気づく。


甘い白百合と薔薇の立ち上がりは、華やかで正統な宣言だった。

“王子に忠誠を誓う”

“王子の政策を支持する”

貴族社会へのアピールとしては完璧だ。


だがその下層で、鴉羽草が

毒の爪のように鋭く曲線を刻む。


そこに重ねられていた意味は

表の指令とは真逆のもの。


● 表指令(外向き)

 「王子に全面支持を表明せよ」

 ──世論を味方につけるための大きな旗。


● 裏指令(内部向け)

 「王子を排除し、計画を始動せよ」

 ──王子派内部の過激派だけが読み取れる刃。


同じ紙の上に、

“守れ”と“殺せ”が同居していた。


クラリッサは眉間に指を当て、息を止める。

香精の微妙な癖、分離した分子比率、

特有の気温補正の甘さ──


南部工房の手だ。


つまり、送り主は

王子派の南部貴族。


その者たちは、

外に向かっては殿下を称えながら、

内では殿下の排除を命じている。


クラリッサはそっと瞼を閉じた。

胸の奥に、冷たい理解が落ちる。


(王子派が……王子の首を狙っている。)

(殿下の理想を、殿下から奪うつもり……。)


王子に寄り添うふりをしながら、

その喉元に指先を当てる者たちがいる。


香りは嘘をつかない。

だからこそ、その匂いは残酷だった。


分析器の微かな駆動音だけが、

密室に沈む静寂を震わせていた。


クラリッサはデータの揮発曲線を眺めながら、

胸の奥に沈めていた“異世界の命令”の鼓動を感じる。


外世界から刻み込まれた

不可侵の指令コード――《M-0》。


《M-0:王子アレスレッドの死亡を阻止せよ。

   そのためなら、手段は問わない。》


その文言が、脳裏ではなく“心臓の裏”に疼く。

痛みではなく、冷たく研ぎ澄まされた使命感として。


彼女はゆっくりと瞼を上げる。

白百合の初香が示した偽りの礼節、

薔薇の余香に仕込まれた甘やかな欺瞞、

柑子の封香に潜んだ第三者の体温反応……。


そして底層でひっそりと尖った毒、鴉羽草。


クラリッサはデータを一つずつ保存しながら、

その“二重構造”の政治性に息を潜める。


外には忠誠を。

内には殺意を。


それは、この王都の政治そのものだった。

表向きの華やかさと、裏に沈む血の匂い。


「……。」


密書を閉じる瞬間、

指先にかすかな震えが走った。

怒りではない。恐怖でもない。


それは決意の震えだった。


(……殿下の死は世界を壊す。)

(阻止する。必ず。)


彼女は密書を静かに机に置いた。

その音は、まるで誓いの印のように、

調香室の密やかな空気に沈んでいった。




揮発曲線の最終データが保存されると同時に、

調香室の静寂は、クラリッサの中で

別の“音”へと変わっていった。


──作戦の始まりを告げる、乾いた心音だ。


彼女は手袋を外し、密書を封じたケースを閉じる。

その動作はまるで、一本の事件の蓋を閉じ、

同時に新たな作戦書を開くかのように滑らかだった。


脳裏には、次に踏むべき四つの道筋が

鮮やかに浮かび上がる。


・鴉羽草を扱える“南部貴族”の特定

・封蝋を調香した工房への潜入と照合

・王子派内部で囁かれる密談ルートの洗い出し

・迫り来る評議会――その警備体制の再構築


どれか一つでも取りこぼせば、

王子アレスレッドは確実に死ぬ。

それが、この香りが教えてくれた結論だ。


調香室の灯を落とすと、

青白い測定器の光だけが残り、

クラリッサの横顔に細い影を落とした。


彼女は静かに扉へ向かう。

その背筋は、つい先ほどまでの分析官ではなく、

“暗殺計画を潰す者”の姿へと変わっていた。


(――始めよう。

  殿下の知らぬところで始まった、この反逆を。)


そっと扉が閉じられた瞬間、

王宮のどこかで、まだ誰も気づいていない

小さな戦争の影が、静かに動き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ